カフェ スラヴィア

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国民劇場の前にあるカフェ・スラヴィア。店内からヴルタヴァ川が見えることとアール・デコの内装で有名なこのカフェは、1800年代に創業した老舗のカフェである。創業当時はチェコの演劇人や作家、画家、政治家の溜まり場だったと言われている。

このカフェは詩人のリルケが通っていたため当時のプラハの若い娘達の間で「リルケ・ランデブー」と呼ばれていたと言う話が、「プラハの日々」というインド小説の中で紹介されている。インド人留学生でガイドをしている主人公と旅行客の女性との恋愛小説らしいのだが、インドの小説なので日本語訳はなく私はあらすじを聞いただけで実際の内容は知らない。聞く限りではなんとなく哲学的な感じで興味をそそられた。英語訳はあるようだったが、これもなかなか入手できそうにないのが非常に残念だ。ただこのエピソードは、リルケ会いたさにカフェに通う女の子たちの姿を想像するとなんだか微笑ましくてとても気に入っている。

ちなみに、リルケが通ったのは「国民カフェ」とする本もあるようだ。この「国民カフェ」がどこのカフェを指しているのか少し調べてみたがわからなかった。このカフェ・スラヴィアが国民通りにあり、「スラヴィア」という民族の名前を冠していることを考えると、このカフェのことではないかと思うのだが・・・。

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カフェ・スラヴィアはケーキがとてもおいしいと評判。写真はホット・アップル。サンドイッチのような軽食だけでなく、本格的なチェコ料理も食べることが出来る。

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国民劇場

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プラハに着いた翌朝まず一番に向かったのがナーロドニー通りの西端ブルタヴァ川にぶつかるところにある国民劇場だった。国民劇場のガイドツアーが行なわれるのは唯一日曜日だけで、市民会館同様不定期に行なわれるらしく時間を前もって知ることができない。今回の旅行ではこの日1日しか見学の機会はないので、ひとまず最優先した次第である。実際は0分と30分の30分単位で行なわれるようだが、時間帯によりツアーの言語が異なるようである。

国民劇場というストレートな名前を持つこの建物は、チェコ語によるチェコ人のための恒久的劇場を造ろうとういうスローガンのもとに建てられた民族復興のシンボルとなる建築である。堂々とした佇まいのこの劇場が、市民の寄付で建てられたと言うから驚く。しかもこの劇場は初めからこの姿でここに建っていた訳ではないのである。

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内部に展示されている模型。上から見ると不定形な立地に建てられているのがよくわかる。

現在の国民劇場はチェコ語の劇場としては三代目、石の劇場としては二代目にあたる。オーストリア治下にあった当時のプラハでは公用語はドイツ語であり、唯一あったエステート劇場もドイツ語劇がメインでチェコ語劇はごく稀にしか上演されなかった。そこで民族復興に燃える市民の中で、チェコ人のための新しい劇場をつくろうとの機運が高まったのである。一旦は1862年にイグナーツ・ウルマン設計による木造の劇場が完成した。900人の観客席があったというからそれなりの規模のものであったと思われるが、石の劇場ではないため恒久的建築とは言えない。建築家ヨゼフ・ジーテクの訴えにより、恒久的石の劇場をつくるため再度募金が募られ、設計コンペが行なわれた。コンペではジーテクのネオルネサンス様式の設計案が当選し、これが二代目の劇場となる。ジーテク案の二代目劇場は1881年5月に完成し6月11日に仮開きが行なわれたが、その1日後に火事で消失してしまう。この劇場の建設にあたりオーストリア・ハンガリー帝国の建設許可が下りるまでに5年程も待たされ、その後13年の歳月を経てようやく完成した劇場であることを考えると、市民の落胆は想像して余りある。しかし、そのとき一人の男が「また劇場をつくろう」と帽子を回した。すると人々は競ってその帽子にお金を入れたという。こうして、チェコ人の悲願であるチェコ人のための劇場は三度目にしてようやく完成するのである。

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現在の国民劇場はジーテクの弟子であるシュルツによって僅か二年で建てられた。シュルツに代わったのは、ジーテクの案がウィーンのオペラ座に似ているとして非難されたことと火事の責任を取らされたためらしい。実際にはシュルツはジーテク案を踏襲したため国民劇場はウィーンのオペラ座によく似た外観となったが、当時の人々はこれで納得したのだろうか。そのあたり少し不思議ではあるが、「ヴルタヴァ川の川の黄金の礼拝堂」「再生の聖堂」と呼ばれ大切にされていることを考えると、結果的にはそんなことはどうでもよかったのだろう。

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舞台の中央、装飾のペンデンティブ下あたりに「NAROD SOBE」の文字が刻まれている。「民族が自分自身のために」という意味だそうだ。こけら落としにはスメタナの「リブシェ」というチェコ創世の伝説を題材にしたオペラが上演された。日本は幸いにもこのような民族のアイデンティティの危機を殆ど経験したことがない。幸いなことだと勿論思うけれど、民族的誇りというものに鈍感になっている自分について少し恥ずかしいような複雑な気持ちになった。

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緩いカーブを描く上階席

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天井装飾

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上階を見下ろす

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プラハ保険会社

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ポリーフカのチェコ国立銀行のあるナ・プシコピェ通りを南西に進みヴァーツラフ広場を通り過ぎたところで、ナーロドニー通りという大きな通りに出る。都市整備の一環として整備されたナ・プシコピェ通りは経済成長期のプラハで新興ブルジョワジーのお洒落な散歩道となったが、そこを散歩するのはドイツ系市民ばかりでチェコ人はその先に続く通りを散歩したと言われている。そのためかナ・プシコピェ通りの続きのように見えるこの通りはナーロドニー、国民通りと呼ばれている。このナーロドニー通りをさらに西へ進むとそこはもうブルタヴァ川で、アールデコの内装で有名なカフェ・スラヴィアや国民劇場に辿り着く。その一角に至る少し前に柔らかな色彩のレリーフが印象的なポリーフカ設計のプラハ保険会社が立っている。1907年の作品である。レイアウトこそ左右対称であるが梟の彫刻やアルファベットに縁取られた窓等遊び心溢れるファサードは一際人目を引く。装飾になみなみならぬ力を注いだポリーフカらしい賑やかさだ。

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軒下のアップ。PRAHAと書かれている。チェコ国立銀行ではボヘミアンスタイルの半円装飾が並んでいたが、プラハ保険会社ではこんなお茶目な装飾に。

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中央の入口

この扉の奥に美しいステンドグラスの扉が続いている。

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アールヌーヴォーらしい扉口の文字

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中央の出窓の上の梟

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2階壁面はすべてレリーフで覆われている。

プラハにはポリーフカの建築が多く残されており、ポリーフカが如何に人気の建築家だったかよくわかる。このプラハ保険会社にしろ、ウ・ノバークの家にしろ、ポリーフカの建築は私にはかなり奇抜に見える。プラハは「百塔の街」「石畳の街」と呼ばれており、この呼び名はつまりプラハが中世の街並みをよく残す街であることを示す証拠だと思うのだが、そういう街でこのような奇抜な建築がよく受け入れられたものだと不思議でならない。市民会館はさすがに美観を損ねるとの抗議もあったらしいが・・・。

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チェコ国立銀行

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火薬塔が市壁の一部であったことは前回も書いたが、取り壊された市壁はその周りを囲んでいた濠を埋めるのに使用された。1760年のことである。火薬塔からヴァーツラフ広場を繋ぐナ・プシコピェ通り(お濠の上通り)がそれで、今ではプラハ随一のビジネス街となっている。そのナ・プシコピェ通り20番にポリーフカ1896年の作品であるチェコ国立銀行がある。ネオ・ルネサンス様式で軒下の装飾が美しいが、自己主張の少ないその建物は街並みに溶け込んでともすれば通り過ぎてしまいそうになる。過度に装飾的なポリーフカも初期にはこのよな落ち着いたデザインのものを手掛けていたのだと興味深く思った。

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軒蛇腹に半円形の装飾を並べる伝統的なデザイン

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繊細な草花文様はよく見ると絵ではなく漆喰装飾だった。手が込んでいる。モザイクはチェコの自然や伝説をテーマにしたミクラーシュ・アレの下絵をもとにしてつくられた。

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銀行の入口。赤いテレジア時代の番地と青いチェコ・スロバキアになってからの番地が左右についている。

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要石のレリーフ

この銀行は内部が非常に美しい。上の写真の小さな扉を入ると大きな階段ホールに出る。その階段を上がった先が銀行窓口のある部屋なのだが、この階段室の天井が品よく美しい。イタリアのバロックの宮殿を彷彿とするような本格派古典建築の風情である。優雅な階段を登りきり銀行窓口のある部屋へ入るとそこはガラス天井のアールヌーヴォー的空間が広がっている。銀行なので写真撮影はできないが、両替ついでに見学をすることは可能。好みはあるが抑制のきいたデザインのこの銀行は、いくつか見たポリーフカの作品の中で私は1番好きな作品である。

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火薬塔

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旧市街広場からツェレトゥナー通りをまっすぐに歩いて行くと黒く煤けたゴシックの塔が見えてくる。火薬塔という無粋な名で呼ばれているが、17世紀に火薬倉庫として使われていたためこの名がついたらしい。1475年にペトル・パルレーシュのカレル橋の橋塔を手本にしてライセックが設計したものだ(パルレーシュはヴィート大聖堂を手掛けたドイツ人である)。もともとは旧市街を囲む市壁の一部だったが、18世紀の都市整備の一環で取り壊されてしまった。火薬塔を眺めているとさぞかし立派な市壁だったのだろうと思われ、私としては残念でならない。ローマやドイツのローテンブルク、北フランスのサン・マロやスペインのアビラ等、城壁に囲まれたヨーロッパの都市はいずれも非常に魅力的で、この市壁が存在したプラハはどんな風に見えただろうとつい考えてしまうのである。

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排気ガスですっかり煤けてしまったが、火薬塔という名前に似合わずレリーフや金の装飾が施された塔はなかなか華麗な印象である。今では市民会館がたっている場所に15世紀まではボヘミア王の宮殿があった。歴代の王はこの宮殿から戴冠式を挙げるプラハ城のヴィート大聖堂まで行進するのが慣わしであり、その行進の道筋は「王の道」と呼ばれ今では賑やかな観光ルートとなっている。この火薬塔はかつては王宮の隣にたっており、この「王の道」の起点だったのである。

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これが手本となったパルレーシュのカレル橋橋塔。屋根も全体のシルエッットもよく似ているが、装飾はこちらの方がシンプルな印象だ。この屋根の形は新市街の市庁舎等他の建物にも見られプラハの伝統的なものかと思っていたのだが、もとはパルレーシュが考案したものだったのだろうか。疑問・・・。

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火薬塔からプラは中央駅へ行く途中にあるヘンリー塔。これは市壁の一部と言うわけではなさそうだが、屋根の形はよく似ている。

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3つの白薔薇館

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「プラハに行ったらハードロックカフェでピンズ買って来てね。旧市街広場に出来たらしいから絶対通るはずだし。」

プラハ旅行の直前、姉からメールが来た。なんでもチェコ初のハードロックカフェが最近オープンしたらしいのである(といっても08年年末の話だけど)。私の実家では海外へ行ったら必ずハードロックカフェのご当地ピンズを買って来ることになっていて、おかげで私自身も結構な数のコレクションが収集されつつある。

旧市街広場は確かに何度も通るところだが、折りしもクリスマス市が開かれているため、全く見通しが利かない。それでもハードロックカフェのことだから派手な看板が出ているはずだしそのうち見つかるだろうと鷹をくくっていたのだが一向に見つかる気配がない。散々周辺を歩き回ってみて、旧市街広場から一歩入った小さな広場(マレー広場というらしい)でやっと見つけた。

上の写真のファサードの繊細な壁画が美しいいかにもプラハの伝統的な館らしい建物が、チェコ初と噂のハードロックカフェである。情報に誤りがあったのも問題だったが、何よりもあのいつもの派手な看板がなかったのが問題だった。建物の1階入口上に小さく「HARD ROCK CAFE」と書いてあるだけなのである。あの派手なマークを探して歩いていたから余計にわかりにくかった。やはり、京都のマクドナルドのMが茶色なのと同じで、美観を損ねるという理由で許可されなかったのだろう。どうせなら、あのギターのマークで小さな標識を造ってくれれば話のネタになったのに・・・。

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この館は「3つの白薔薇館」と呼ばれているらしいが、もとはロッツ金属商会の建物だったらしい。設計はL・ノヴァークとA・オフボァーであることはわかったが、何年頃に建てられたものかはわからなかった。

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軒下に半円形のレリーフを連ねるのはボヘミアン・スタイルによく見られる装飾。

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驚くほど繊細な壁絵。建物のファサードを絵で飾る装飾はルネサンス期から始まったようだ。プラハにはこのように壁絵が美しい建築が数多く残っている。

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ウ・ノバークの家

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ヴォデツォコーヴァ通りを歩いているとギマール風の美しい扉口の館に出会った。建物を見上げると華やかな色合いの壁画とベイウィンドウ下にムンクの「叫び」を思い出すような異様な表情の人の顔の装飾を見つけた。O・ポリーフカのウ・ノヴァークの家(1902~1904年)である。ポリーフカはジーテク教授のもと古典建築を学び、そのキャリアをルネサンス様式からスタートさせている。ポリーフカのファサードを飾る絵画はボヘミアン・ルネサンスからのものと思われ、そのためか保守層からも受け入れられプラハの公共建築を多数手掛けている。ウ・ノヴァークの家を建てた頃から、派手な装飾が目立ってきたようだ。

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ファサード中央を飾る花の女神フローラはJ・プレイスレルの手によるもの。時代を反映して商業と工業がテーマらしいのだが、言われないとわからない。

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ベイウィンドウ下の装飾。ウ・ノバークと言えばコレ!

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窓の下に張り付くカエル。ウ・ノバークにはカエルのモチーフがいくつか見られる。

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アイアンワークも凝っている。

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ギマール風入口の装飾

ちなみに、ウ・ノヴァークの家はヴォデツォコーヴァ通り30番。扉のステンドグラスが見事だけれど、昼間は開いているので気付かずに通り過ぎてしまうかも。

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市民会館(スメタナ・ホール)

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プラハのアールヌーヴォーといって真っ先に思い浮かぶのは、ポリーフカとバルシャーネクによる市民会館だろう。完成は1911年、コンサートホールや展示場、レストラン、カフェの入った文化センターである。コンサートホールの名前だけを取って、「スメタナホール」と呼ばれる方が一般的だ。

市民会館はポリーフカとバルシャーネクの協同設計だが、圧倒的に知名度の高いポーリーフカの作品の中で紹介されることが多い。中にはメインはバルシャーネクでポリーフカは助手として携わったとの説もあるが、建物の外観を特徴付けているコーナーのドームと入口周りのデザインがポリーフカらしいためか、どうもポリーフカの作品としての印象が強い。ネオバロックやネオルネサンス等古典スタイルを取りいれた外観のデザインは、「様式のブレンドと過剰な装飾」と表現されるポリーフカの真骨頂といった趣である。

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コーナーの濃いデザイン。半円状のモザイクはK・シュピラルによるもので、民話の一番面を描いたもの。

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コーナーのバルコニー。このバルコニーに面した部屋がムハ(ミュシャ)が内装を手掛けたことで有名な市長の間。ガラス・鉄・電飾といった近代的な材料をふんだんに使用したこの装飾は、R・シャロンとJ・マラトヤの作品と言われている。

二つ置かれている看板は、コンサートの宣伝と市民会館ガイドツアーの告知。市民会館の内部見学はガイドツアーのみ。不定期に行なわれるためここに時間を表示するシステムになっているようだったが、実際には時間の欄は空白になっていた。内部半地下のインフォメーションの窓口にツアーの時間が表示してある。ちなみに入ってすぐのアール・ヌーヴォー装飾の美しいボックスはコンサート等のチケット売り場である。

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バルコニーの見上げ

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コーナー部分の内部

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上の写真のコーナーを入ってすぐの入口

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部屋の表示も豪華

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エレベーター

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ホールの照明

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扉上部のガラスのデザイン

ちなみに、ここまでは無料で見られる。

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スメタナ・ホール 音楽祭「プラハの春」が催されるのはこのホール。

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スメタナ・ホールのガラスのドーム、バロックっぽく楕円形。

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市長の間の入口

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内装をムハが手掛けたことで有名な市長の間。バルコニーへの扉と二つの窓の3枚のステンドグラスが目を引く。

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中央の扉上のステンドグラス

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市長の間 天井には「スラブの団結」と題された円形天井画が広がる。

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市長の間 繊細な化粧漆喰

この市民会館には多数の芸術家が内装に携わっており、ムハが手掛けたのはこじんまりとした「市長の間」一室のみ。ポリーフカは多数の芸術家と組んで仕事をすることが多かったが、彼の強引な主張は芸術家達との摩擦をしばしば引き起こしたという。ムハとの関係がどうだったかは不明。

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市長の間 暖炉前のアイアンワーク

ちなみにガイドツアーにはショートコースとロングコースがあり、ショートコースの場合はスメタナ・ホールから市長の間まででコースが終了する。特別な興味がなければ、ショートコースで十分。

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廊下の装飾 何だか可愛い

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ワインセラーのある部屋

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アメリカン・バーの照明 ここはバーとして営業しているので、ツアーに参加しなくても入れる。

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1Fのカフェ 豪華で美しく一見の価値アリ。

プラハが舞台となっている映画「トリプルX」で、主人公がヒロインを昼食に誘うのがここ。

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プラハ標識めぐり

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  ○○通り○○西入る-

京都の住所はこんな風に番地を入れないケースが多い。東京の会社に電話で住所を伝えると、時々ではあるが「これで郵送して届きますか」と不安そうに確認されることがある。京都は町が碁盤の目になっているので、○○通りと○○通りの間を西へといった表現で大体のところはわかるようになっている。いたって合理的な住所なのである。古い歴史のある町は多かれ少なかれこのような場所を表わす工夫があるのではないかと思うが、プラハでは扉の上や壁に掲げられているレリーフや彫像が住所代わりに使われていたそうだ。標識のモチーフには別段の決まりはなく、ライオンや熊のような動物であったり、イエスや聖母のような宗教的なもの、その家の職業を表わすようなもの等思い思いのものが使われている。何とか通りの「二つの尻尾を持つライオンの家」とか「三本の赤い薔薇の家」とか言われていたのを想像すると何だか可愛らしい。時におとぎの国のようなと例えられるプラハにはぴったりである。

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ネルドヴァ通り12番「3挺のバイオリン」 4代まで確認されているバイオリン職人の家で、この標識が作られたのは3代目のとき。

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ネルドヴァ通り16番「黄金の杯」

プラハに正式な住所がもたらされたのは、マリア・テレジア帝政の頃。区画割を行いその中でヴルタヴァ川に沿って番号が振られその番号が赤いプレートで示された。次にチャコ・スロバキアになり新しく振りなおされた番号が青いプレートで表示されるようになる。青いプレートしかない家は比較的新しい家、赤いプレートもついていればマリア・テレジアの時代にまで遡れる家、その上標識までついていれば物凄く古い家と言うことになる。古い町並みを残すプラハでは今でもこういった標識を多く見ることができる。その標識の由来を想像しながらあてもなく散策するのも楽しい。

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ネルドヴァ通り「黄金のメデュウサ」 メデュウサの首や目は多くの国で魔よけとしてよく使用されている。

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ネルドヴァ通り47番「黄金の二つの太陽」

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ウーヴォス通り14番「3つのハート」

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ツェレトナー通り8番「黒い太陽」

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「黄金の聖母子」

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カルロヴァ通り18番「黄金の蛇」

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カルロヴァ通り「太陽の聖母子」

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ウーヴォス22番「天秤を手にする幼子」

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カルロヴァ通り22番「黄金の井戸の娘」 

この少女はチェコの伝説のリブシェ王女とする説と、この館の前にあった井戸に落ちた少女であるとする説がある。昔この井戸の前に住んでいた少女が水を汲もうとして誤って井戸に落ち、父親が娘の遺体を引き上げた折に井戸の中から沢山の金貨が見つかった。父親は大金持ちになり立派な館を建てたが、それ以来亡くなった娘が毎晩枕元で「私のおかげでお金持ちになったのに墓もたててくれない」とすすり泣くようになった。困った父親はバルコニーに娘の像を作り供養したところ娘はぱったりと出てこなくなったということである。たおやかで高貴な印象の少女の像は井戸に水を汲み来そうには見えないが、果たしてどちらの説が本当なのか。

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グランド・ホテル・エヴロパ

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ホテル セントラルのA・ドリヤークとB・ベンデルマイエル、二人の建築家が次に携わったのがこのグランド・ホテル・エブロパ。ヴァーツラフ広場という最高の立地に建つアールヌヴォー様式のホテルである。建物自体が建てられたのは1889年、アールヌーヴォーに改装されたのは20世紀に入ってからのことだからこの二人の建築家が関わったのはこの改装時のことだろう。

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ファサードの主役はこのホテルでは漆喰ではなく、窓やバルコニーを飾るアイアンワークに譲られる。セントラルの可憐さに対してこちらは少しウィーン風な気がしたが、私は中欧もアールヌーヴォーもよく知らないので的外れな感想かもしれない。ファサードの鮮やかな黄色はこの10年か20年くらいの間に塗り替えられたものらしく、以前このホテルを見た方の中には不評の向きもあるようだが、私には別段悪いようには見えなかった。もう少し風雨に晒されればそれなりに落ち着くだろうから、それでいいのではないかと思ったりする。

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入口の庇

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入口の取っ手の装飾

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バルコニーのアイアンワーク

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バルコニーのアイアンワーク

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フロントの方にお願いして中を見せてもらった。これは2F。

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五線譜に縁取られたような階段。踊り場には蝶のような照明が軽やかに浮かんでいる。

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階段手摺のアイアンワーク

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階段の照明。羽のような影を落とすのは二つのライトを吊り下げるワイヤー。

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階段を見下ろす

家族で写真を見ていた折父がこの階段の写真を見て「なんと無駄な」と感想を漏らした。人には好みがあるのでアールヌヴォーが気に入らないのは仕方がないのだが、憎んででもいるかのような顕な嫌悪感はなんなのだろうと驚いた。父はもともと色々な意味で「飾る」ということが嫌いな性質だ。そういう意味では父はアドルフ・ロースのような人だと言える。そこまでポリシーがあるかどうかは別にして。(ちなみにロースは装飾は犯罪だと主張した人である。)

建築は簡単に言うと、機能・技術といった理性的な面と装飾や造形・象徴といった情緒的な面と相対する二極の側面を持つ芸術である。よくはわからないが、父にとって建築とは理性によって造られるべきものであり、建築の歴史とは装飾を削ぎ落とす過程でなければならないのかもしれない。建築的にはル・コルビュジェの近代建築五原則やミース・ファン・デル・ローエの「レスイズモア」に代表される20世紀のモダニズムの中で、社会的にも高度経済成長期の日本を生きた世代の父にしてみれば、その価値観はある種当然な気もしてくる。実際、私が子供の頃はアール・ヌーヴォーはまだ悪趣味の代名詞として使われていたし、異形の建築、世紀末の産み落とした鬼子、徒花といった表現も建築関係の本ではよく目にするのである。

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階段の見上げ

アールヌーヴォーとはフランス語で新しい芸術という意味である。1895年に画商ビングがパリで開いたギャラリーの名前に由来している。ビングのギャラリーはヨーロッパやアメリカの最新の芸術やアフリカ・東洋の珍しい品を取り扱い、この時代のパリで一種の情報センターのような役割を果たしており、その店の名前がそのまま世紀末芸術をさす言葉となった。そしてこの世紀末芸術と言うのが多様を極めており一筋縄ではいかない。まず世界各国で同時期に発生したため、国によって呼び方が異なる。フランス・ベルギーではアール・ヌーヴォー、ドイツではユーゲント・シュティール、オーストリアではゼゼッション、スペインではモデルニスモ、英米はモダンスタイル、イタリアはスティーレ・リベルティ、フィンランド・スウェーデン等ではナショナル・ロマンティシズム。ちなみにチェコはオーストリアと同じでゼツェッションと呼ばれている。これらの名称の違いはただ国の違いを表わすわけではなく、表現方法の違いでもあり、政治的信条の違いでもあり、地域固有の素材やモチーフの違いでもあるから難しい。例えば、このホテルとレヒネルの時にお菓子の家と表現されるシペキ邸もアール・ヌーヴォーに分類されるが、その表現方法や形状の中に様式的規範を見つけようとすると私などは途方にくれてしまう。

しかしながら、この多様な名称の間には深い共通点があると大原美術館の高階秀爾館長は著書「世紀末芸術」の中で指摘している。第一の共通点は、これらの名称の生まれてくる背景だ。フランス・ベルギー・イタリアでは美術商の名前(リベルティはイギリスのリバティ商会からきている)、ドイツ・スペインにおいては当時の芸術家達が創設した美術雑誌(この本の中では、スペインの世紀末芸術の名称は「アルテ・ホベン」と説明されている。今ではモデルニスモが一般的だが、アールヌーヴォーは同じ国においても沢山の別称を持っている。ちなみに「アルテ・ホベン」はピカソが1901年に創刊した雑誌である)、英米では工芸・建築運動の名前が由来となっている。これは近代芸術の他のグループとは大きく異なる特徴で、印象派やキュビズムのように外部から与えられた名前でもなく、ロマン主義・古典主義のように後世の歴史家によって採用されたものでもない、その運動を推進した芸術家達自身によって選ばれた名称なのだということである。

第二の共通点はその意味する内容である。「アール・ヌーヴォー=新しい芸術」「ユーゲント・シュティール=青春様式」「スティーレ・リベルティ=自由美学」「アルテ・ホベン=若い芸術」「モダン・スタイル=近代様式」これらの言葉は「なにものにも捕らわれないみずみずしい精神、若々しい情熱を意味するものにほかならない」というものである。そして、「芸術」「様式」「美学」というように、絵画運動や建築様式のような一部に関わるのではなくあらゆる領域にわたる総合的な言葉が使用されている。

つまり、アール・ヌーヴォーの芸術家達は、過去からの決別を高らかに宣言したのである。

建築の世界だけの話に戻るが、アール・ヌーヴォーが生まれる前19世紀前半の西洋の建築事情はパリのメトロの駅を書いた折にも触れたが、この頃の西洋建築は過去の様式を安易に模倣するだけで新しいものを生み出さなかった。建物の外観に如何に巧みに過去の様式を取り入れるかだけが当時の建築家の命題でったのである。アール・ヌーヴォーの芸術家達はその硬直した西洋建築の歴史に一石を投じたのであった。これこそがアール・ヌーヴォーの功績なのだと近年では認められているようだ。

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ガラス天井の吹き抜け

アール・ヌーヴォーは建築に限って言えば1893年に始まり第一次世界大戦の勃発とともに終焉を迎える。その間僅かに四半世紀。その理由は、アール・デコに取って代わられたためとか、あくまで装飾の様式であって構造の様式ではなかったためとか言われている。あるいは個人的な建築が中心だったこの様式は発注主と建築家の一対一の関係から造られるため抑制が効かなくなり自己崩壊してしまったとの説もある。そう説明すると、父は人類の正常な美的感覚に安堵したようだった。父ではないが私も3番目の説に賛同したい。肥大化するエゴの中で華やかに自爆していったと考える方が新しい芸術の幕開けを強烈に主張したアール・ヌーヴォーの終焉に相応しいような気がするのである。

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グランド・ホテル・エヴロパは風格ある佇まいながらも中級ホテルに区分される。物価の安いチェコにあってホテル代だけは高いので、安い宿泊先を探すときにオススメのホテルのようだ。古いホテルなので部屋もあまりキレイではないらしい。シャワー共有の部屋はかなり安いと聞くが、もう今の私にはそういうキビシイ旅行はできない(苦笑)

ちなみに1Fにはカフェ・エヴロパというアールヌーヴォー様式のカフェがあり、こちらの設計には広島の原爆ドームで日本でも御馴染みのヤン・レツルが担当したらしい。

http://www.evropahotel.cz/

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