2013年2月22日 (金)

気になる窓(チェスキー・クルムロフ)

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「眠るれる森の美女」という別名を持つチェスキー・クルムロフ。まるでお伽噺に出てくるような町並みをしているが、窓も可愛らしいものが多かった。

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上二枚の写真の家はかなり離れた場所にあったが、装飾のデザインがが同じだった。トップに扇か帆立貝のようなマークがあり、その下に二つの渦巻き模様。ルネサンス風の破風を象ったようでもあるが、何か意味があるのだろうか。

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壁の装飾は騙し絵なのに、窓枠は立体的に作られている。


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このような凝ったアイアンワークの窓もある。

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チェスキー・クルムロフの街並みが再現されている。建物の形態のバリエーションはなかなかリアルだ。

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レストランの窓にはフォークやナイフが放射状に飾られている。

冬はチェスキー・クルムロフ城の見学はできないが、町の散策だけでも十分楽しい。訪れる観光客も多く賑やかだった。

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2013年2月16日 (土)

チェスキー・クルムロフ

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チェスキー・クルムロフに着いたのは夜だった。翌朝から町の散策に出かけ、チェスキー・クルムロフ城のある小高い丘から川向こうにある町を眺めた。朝のぼんやりした光の中を、家々の煙突から幾筋もの煙が立ち上っていた。冷たい冬の空気の中で町全体が呼吸をしているように見えた。
旅行をしていて冬に来て良かったなぁと思うことは少ない。というより、寒いし、風は強いし、空はどんよりしていることが多いし、ヨーロッパの冬は最も観光に適さない季節である。それでもごく稀に、冬もいいなと思う瞬間がある。キーンと切れるような冷えきった空気の中で凍えそうになりながら見るのがよいという景色もたまにはあるのだ。

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チェスキーは「ボヘミアの」、クルムロフは「湾曲した牧草地」という意味で、ドイツ語の「Krumme Aue」に由来するのだそうだ。

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チェスキー・クルムロフはその名の通り蛇行するヴルタヴァ川のS字部に開かれた町で、豊かな緑に囲まれた赤い屋根の美しい街並みは「ボヘミアのシエナ」とも言われている。

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チェスキー・クルムロフは14~16世紀の間ボヘミアの有力貴族であるローゼンバーグ家の下に手工業と交易により繁栄した。ルネサンス様式の華やかな町並みは最も繁栄を極めたこの16世紀に造られたものだ。

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建物の壁に石積みを描くような騙し絵はチェスキー・クルムロフでもよく見かける。これも16世頃ボヘミア全土に広がったもの。

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しかし町の繁栄とは裏腹にローゼンベルグ家の財政は破綻を来たしており、チェスキー・クルムロフは借金の抵当にされ、1601年には神聖ローマ皇帝ルドルフ二世の手に渡ってしまう。その後町の支配者は転々とし、1622年にエッゲンベルグ家、1719年シュヴァルツェンベルク家へと変わって行くが、シュヴァルツェンベルク家も19世紀にはチェスケー・ブディェヨヴィツェ北4kmのフルボカー城へと居城を移した。主要な鉄道網からも外れ近代化の波に乗れなかったため町は徐々に寂れて行き、第一次世界大戦前にはチェスキークルムロフ縁の画家であるエゴン・シーレが町がなくなってしまうと危惧するほどだったという。

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しかしながら近代化の波に取り残されたことにより、チェスキー・クルムロフには繁栄した当時のルネサンスの町並みがそのまま保存されることとなった。1989年ビロード革命以降歴史的景観の価値が見直され旧市街の修復が進められた。現在ではユネスコ世界遺産にも登録される美しい町並みが蘇り、世界で最も美しい町の一つと言われている。幸いにもシーレのそれは杞憂に終わったようだ。

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2013年2月 8日 (金)

キャンドルライトクルーズに参加してみた(アムステルダム)

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アムステルダムに来たならばやはり運河クルーズは外せない。他の町でもそうだけれど、アムステルダムにも色々な種類のクルーズがあり、何に乗るべきか結構迷う。

 スタンダードな運河めぐり
 ブランチツアー
 ディナーツアー
 キャンドルライトクルーズ
 リド・ディナー・ショー
 ミュージアム・ボート

他にも観光とセットになったものなど様々だ。ケーキとコーヒーが出るカフェ・クルーズもあったような気がする。

当初主要な美術館を回ってくれる乗り降り自由のミュージアム・ボート(1日券か半日券を購入、美術館入場料の割引きもあったような)を予定していたのだが、ふと目に留まったのがキャンドルライトクルーズ。 

 21時から約2時間
 2カクテル&スナック 又は ワイン&チーズ

チケット売り場で1番人気と書いてあったので、私たちはカクテルクルーズに参加。一応ワインとは異なるツアー扱いだったが、結局は同じボートに乗る。

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コースはよくわからなかったが、最初に中央駅周辺を周り、アムステル川と街中の運河を廻る。関空でお馴染みのレンゾ・ピアノによる海洋博物館もキレイに見えた。

クルーズ中少し驚いたのは、オランダの人は(アムステルダムだけかもしれないけど)どうもカーテンをしないらしい。夜だから、運河周辺の家もボートハウスの中も見る気がなくとも見えてしまう。見られることが前提とされているのか、どの家もセンスよく整えられている。帰ってから調べてみると、どうもそういうものらしく、ガイドブックの中には「わざわざ見えるようにされているからには、見ない方が失礼だろう」と書いてあるものもあるし、部屋が見える状態を「家具になった人達」と表現している本もあり、気にしなくていいんだと納得することにした(笑)。アムステルダムの夜はあまり明るくなくパリやロンドンのように華やかでもロマンチックでもないが、これはこれでまた違った楽しさがあるものだ。

因みに、アムステルダムでもヨルダーン地区にはカーテンがあり、趣向を凝らした飾り方がされている。これもあくまで中を隠すためのものではなく、窓を飾るためのもののようである。

【キャンドルライトクルーズ】

中央駅前の運河にあるチケットブースでチケット購入。

予約は必要ないが、当日のある程度の時間にはチケットを購入した方がよいでしょう。乗車時間の確認のためにも。

集合時に並んだ順番で乗車するので、窓際を確保したければある程度早めに行くことをおススメします。

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2013年2月 1日 (金)

アムステルダムは北のヴェネツィア?

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運河の町アムステルダムは時に北のヴェネツィアとも形容される。どちらも無数の基礎杭の上に立つ町で、アムステルダムに「住民は鳥のように枝の上で暮らしている」という言葉があるように、ヴェネツィアにもヴェネツィアをひっくり返すと森になる」という言葉がある。物理的には似ているはずのこの二つの都市は、訪れてみるととても似ていない。何が違うのか。

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アムステルダムとヴェネツィアでは、運河の体感され方が違う。アムステルダムでは運河を超える度に、今自分が町のどのあたりにいるのか大体の見当がつく。幾何学的に運河が敷設されているため、町の大雑把な地図を頭に描きやすいのだ。南に運河を○本超えたからもうすぐ目的地に着くよねといった風な目安になる。例えるなら京都の碁盤の目のようなもので、非常に透明性の高い街並みになっている。

一方ヴェネツィアでは適当に通りを歩いているとすぐに袋小路につきあたってしまう。行き止まった原因は大抵運河である。ヴェネツィアでは運河はまるで迷路をつくりだす装置のように感じられる。場所が認識できる運河はカナル・グランデくらいで、あとはもう何が何だかわからない。まさしく迷宮都市である。

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二つの都市の運河の違いにはそれなりの理由があるようだ。

一つはヴェネツィアの属する文化圏だろう。イスラーム圏やエーゲ海の島々等地中海世界に迷路のような街並みが多いことはよく知られている。イタリアでも早くから海洋国家として知られている街には迷宮性の高いものが多く、ヴェネツィアもその一つである。

また、ヴェネツィアは小島が集まってできているため、道よりも水上での移動の方が重要だった。運河は自然な水の流れに沿って整備され、それに従って島の形が微調整された。そうなると運河は自然と複雑に曲がったり、歪んだりしたものになる。ヴェネツィアが技術的にも経済的にもまだ成熟していなかった中世の早い時期に作られたことも一因になっているだろう。普通に考えて交通網を作るならまっすぐに引こうと思うものだが、この時期のヴェネツィアに都市計画はなかった。

それに比べてアムステルダムは都市計画の申し子のような都市である。

アムステルダムには二つのシンゲルという名の運河があり、通常、中央駅から近い方をSingel(シンゲル)、遠い方をSingelgracht(シンゲル運河)と区別している。シンゲルとはオランダ語で「囲む」という意味で、シンゲルは1480~1585年までの外堀。シンゲル運河は17~19世紀までの外堀となっている。16世紀アムステルダムは、衰退していくアントワープに代わる中継貿易拠点として繁栄し17世紀にそのピークを迎えるが、急増する人口と都市の防衛に対応する必要が生じた。16世紀末に3万だった人口が17世紀半ばには22万、約1世紀の間に7倍以上に膨れ上がったのだからもの凄い。そのため17世紀初め都市計画が立案され、アムステルダムはシンゲル運河まで拡張される。特徴的な扇状に広がる運河はこの時点で完成されたのである。余談ながら運河の敷設工事は北から南へ一本一本造られていったように思いがちだが、実は西から東へと進められたのだそうだ。必要に応じて運河を増設していったのではなく、整然とした都市計画の下に工事が行われていたことが伺い知れる。その結果、アムステルダムはよく手入れされた公園のような景観の都市になった。

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よくわからないが、ヴェネツィアは見通しがきかず、内奥になにか隠し持っていそうなミステリアスな中世都市で、アムステルダムは人の理性で見事に制御された透明性の高い近世都市、といったところだろうか。あくまで見た目の話であるが、アムステルダムはなんだか「新しい」のである。先鋭的とか最先端とかそういう意味ではなく(ウォーターフロントにはそういう建築も多いが)、日本人観光客が思うヨーロッパの古い街並みよりずっと「新しい」のである。通りに並ぶ建物は伝統的な形をしているにも関わらずこの感覚は拭えない。あまりにも完璧な街造りの結果だろう。それは悪く言うと、綺麗だけれど素っ気ないという意味でもある。公園のような景観は美しいけれど意外性がない。ヨーロッパ好きな日本人観光客がここに来ると、「求めていたイメージと違う」と感じる人も少なくないのではないだろうか。むしろこのような整備の行き届いた景観は日本人より西欧人好みなのかもしれない。オランダはヨーロッパでは人気の高い観光地だと聞く。日本庭園と西欧庭園の違いを考えると、あながち見当はずれでもないような気がしてきた。

それにしても、この都市計画が17世紀のものだったとは・・・。都市計画で有名なパリやローマと比較してもなんと斬新なことだろう。好き嫌いは別にしても、これほど凄いと思った都市は他にないかもしれない。

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2013年1月25日 (金)

アムステルダム

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アムステルダムほど航空写真がおもしろい都市は少ないのではないだろうか。中央駅を中心に5本の運河が扇状に広がる様子は、さながら幾重にも堀を巡らせた巨大な要塞のようだ。街の輪郭がはっきりと見える。そういう街は魅力的だ。オランダには「世界は神が創りたもうたが、オランダはオランダ人が創った」という言葉がある。確かにこれほど巨大に、それでいて精緻に人の手が行き届いた都市は他にないかもしれない。

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アムステルダムの歴史は13世紀に遡る。もとは小さな漁村であったところを、アムステル川をダムで堰き止め町を築いた。それがそのまま町の名前の由来となっている。それ以来、海面より低い土地を北海から守るため、砂丘や堤防、ダム、基礎杭、水門といった施設をつくり(利用し)、湿地帯や湖を干拓するために風車や蒸気機関といった技術的な研究が推進された。アムステルダムの歴史は海との戦いの歴史だったのである。今もアムステルダムでは人口の60パーセントがN.A.P.(通常アムステルダム水準)より低い土地に住んでいる。N.A.P.とはポルダー(干拓地)の標高を図るための水準である。そのような水準があること自体が既に驚きである。

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16世紀の人文主義者エラスムスはおもしろい言葉を残している。

「アムステルダム市民は鳥のように樹木の頂上で暮らしている」

アムステルダムはヴェネツィアと同じように脆弱な地盤に建設するため、無数の基礎杭が打たれている。オランダらしい切妻の3~4階建ての家並は16世紀頃から建てられはじめたが、立派な煉瓦造に見えるのは外観だけで内部は木造というものが多かったらしい。本格的な石造建築になると重量も余計にかかるので、それだけ杭の本数も増えることになる。有名なものでは、
  中央駅       8687本
  マグナプラザ   4650本
 
  王宮        13659本
  コンセルトヘボウ 2186本(のちに400本の金属チューブに移転)
王宮より立派とよく言われるマグナプラザであるが、こうやって比較すると王宮の方が断然立派であることが証明されるのである。

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アムステルダムの街並みのもう一つの特徴は、大きく発展したルネサンス風破風を持つ細長い中層建築だろう。間口の幅で税金を決められたために縦に細長く造られたと言われている。もともとは中世フランスと同じく窓の数で課税されていたらしいが、16世紀になって間口税が導入されたのだそうだ。この窓税や間口税は外観で判断できるためプライバシーを侵害されないというメリットがある。実はなかなか合理的な方法だったようだ。

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間口の狭い家では大型荷物を滑車で釣り上げ直接窓から入れることになる。そのため大抵の家の破風に棒状の滑車軸がつけられている。こうした特徴はベルギーやドイツ、チェコでも見られるので、アムステルダムの特徴というよりも北ヨーロッパによく見られるものと言った方がいいかもしれない。
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中央駅前のダムラックは、もともとはアムステルダムの中心的な港だった。今は駅に塞がれてしまい、運河クルーズの発着所の一つとなっている。

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2013年1月18日 (金)

シント・ニコラース教会と薔薇の名前

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最初に断わっておくが、アムステルダムのシント・ニコラース教会とウンベルト・エーコの小説「薔薇の名前」はもちろん何の関係もない。まずは普通にこの教会の話から・・・。

アムステルダム中央駅東南、ヘンドリック河岸に面してたつシント・ニコラース教会。船乗りの守護聖人聖ニコラースはアムステルダムの守護聖人である。12月5日の「聖ニコラースの日」はオランダではクリスマスに並ぶ大事なお祭りの日なのだそうだ。

1887年A.C.ブライスの手により完成されたシント・ニコラース教会は、カトリックの教会であるにも関わらずネオバロックとネオ・ルネサンスの折衷様式でつくられている。。1815年にカトリックの礼拝が認められて以来、カイペルスの建築に代表されるように19世紀オランダのカトリック教会はゴシックが最も適した様式とされていた。このシント・ニコラース教会はかなり珍しい例と言える。バロック様式の双塔やドームは堂々としており、この建物に落ち着いた威厳を与えている。その一方、大きすぎるバラ窓は中世キリスト教建築のようでもあり、ラテン十字のプランも古典様式にしてはほっそりしすぎているようにも見える。これが北方の古典なのだろうか。イタリアの古典建築とは少々趣が異なる。

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シント・ニコラース教会の内部はカトリックだからか、アムステルダムの教会の中ではかなり豪華で見ごたえのあるものとなっている。写真NGなのが残念だ。

内部は三廊式のラテン十字プラン。トランセプトの張り出しはごく僅かである。トンネルヴォールトの格天井が落ち着いた色合いで美しい。水平に走るリブはぶつ切りにされたエンタブラチュアに落ち、下のピラスターへと繋がって行く。ルネサンス建築には珍しく装飾と構造の一体感が生まれている。

この教会で最も目を引くのは、交差部にかかるドームである。金の装飾が施された華やかなペンデンティブから目暗アーチが二重に張り巡らされ、その暗い帯の上で青いステンドグラスが煌めいている。それは、思いがけなく見つけた空のようでもあり、シュジェの求めた神の光のようでもある。外から見たところ石造のドームにしか見えなかったのだから、その驚きは猶更である。一体どうなっているのだろうと外観を再度確認してみると、内部と外部ではドームの高さが異なることに気が付いた。つまり二重殻ドームだということである。

外殻のドームはドラムが異常に長い。この長いドラムの中に内殻ドームが隠されており、ドラム上部のクリアストーリーとドームのドーマー窓からふんだんに光が注ぎ込まれるようになっている。これがキラキラ輝くステンドグラスの理由である。二重殻ドームというと一般的にはドームの高さやスパンに対する強度をあげるための解決策として使用される例が多い。サンタ・マリア・デル・フィオーレ(フィレンツェ大聖堂)はその最初の例だろうし、時が過ぎるとロンドンのセント・ポール大聖堂やパリのパンテオンのように三重殻のものも出てくる。しかし、このようなトリッキーな効果を出しているドームは少ないのではないだろうか。

この輝くドームの仕組みがオリジナルからあったのかどうかはよくわからない。1999年に復元がなされているので、その時点で施されたものかもしれない。身廊の柱の装飾もモダンな(建築的でなく一般的な意味の)印象を受けるので、完全に忠実な復元というわけではなかったのだろうと思うが…。

■内部の写真は下記URLで

http://www.nicolaas-parochie.nl/index.php?menu=2&page=9

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ところで、この教会は先にも書いたようにカトリックのものなので聖母マリア像が置かれているのだが、このマリア様、手には可憐な薔薇のつぼみを持っていらっしゃる。

マリア様と言えば純潔の象徴ユリが定番と思っていたので調べてみると、薔薇もマリア様の象徴だということだった。なんでもアヴェ・マリアの祈りに使う「ロザリオ」はラテン語の「ロサーリウム(薔薇の園)」から来ているのだそうだ。ウンベルト・エーコの小説「薔薇の名前」のタイトルは、聖母マリア様を暗示していたのだと納得。

映画では登場人物の女性のことと明かされているが、小説では薔薇に対する言及は二度ほどしかなく、何故このようなタイトルがついているかよくわからないと思った日本人は私だけではないはず。西欧文化の中にいれば理解していて当然のことなので本文で触れられていなかったのだ。確かに聖と俗の二面性を兼ね備えた聖母マリアは小説のテーマにしっくりくる。元来無実のはずの登場人物の女性が魔女として裁かれてしまうのも、聖母マリアの息子の運命を暗示しているようでさらに納得。異なる文化の小説を読むのは本当に難しい・・・。

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2013年1月11日 (金)

アメリカンホテル カフェアメリカン

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アムステルダム ライツェ広場に面したアメリカンホテル。オランダではあまり見かけることのないとてもアールヌーヴォーらしい佇まいをしている。設計はウィレム・クロムハウト。1902年の作品で国の文化財にも指定されている。中でも1Fにあるカフェ アメリカンはアールヌーヴォーの建物にアールデコの装飾が融合し優美な空間をつくり出している。パリのようなブリュッセルのような、古き良き時代を感じさせる洒落たカフェだ。

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アールヌーヴォーは国によって呼び名が異なるが、オランダではオランダ語でアールヌーヴォーを意味する「ニューウェ クンスト」が使われている。もとは同じ低地地帯で現在はお隣の国であるベルギーもアールヌーヴォーと呼んでいるので言葉の上では同じ流れにあったようだが、形態的にはあまり影響しあう関係にはなかったように見える。ベルギーはなんといってもアール・ヌーヴォー建築発祥の地であるし、オルタやアンカールなどの豊かな作品が残されている。一方オランダのアー・ルーヴォー事情はわかりにくい。カイペルスからアムステルダム派末期までの1880年頃~1923年とするものもあるし、1895年~1905年頃の10年間のみとする説もある。カイペルスはアールヌーヴォーの建築家というより方向性を示した建築家という意味だろう。終焉期の違いはアルステルダム派をどう見るかという違いなのかと思われるが、メイ他による「船舶協会ビル」は1916年に建てられおり、この内部空間は明らかにアールヌーヴォーなので前者の説なんだろうなぁと私は思っている。正直なところオランダのアールヌーヴォーというとベルラーヘというイメージしかないのだが、この建築家は近代建築の父と呼ばれるだけにモダニズムのような合理的な建築により近いような気がしてならない。もっともベルラーヘの建築も殆ど知らないのではあるが・・・(現にアメリカンホテルのデザインはベルラーヘに似ているらしく、そしてこのホテルはとてもアールヌーヴォー的である)。つくづくオランダという国はミステリアスな国である。私にとっては・・・。

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楕円アーチのような浅いカーブを描くアーチや色石(タイルや煉瓦も)のアクセントはこの時期のオランダ建築でよく見かける。カフェ アメリカンは内部の装飾がアールデコなので、アールヌーヴォ-よりも、そちらのイメージの方が強く感じられる。

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2012年10月 8日 (月)

アムステルダム国立美術館2

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アムステルダム国立美術館改修工事の揉めごとについては前回書いたが、この建物は建設当初にも物議を醸していたらしい(新しい建築にはよくある話だ)。当時の論争は設計者のJ.P.H.カイペルスとプロテスタントとの間で繰り広げられた。カイペルスの案はネオ・ルネサンス様式にゴシック的要素が追加された折衷様式。これがプロテスタントから、国立の美術館としてはあまりにゴシック的でカトリック的と非難された。そのためカイペルスはギャラリーの尖塔アーチを半円アーチに変えることを余儀なくされるが、そうした変更を加えたにも関わらずこの建物はゴシック的で、しばしば「ゴシックの大聖堂」のようだと言われた。オランダ国王ヴィレム3世は「あの修道院もどきには、断じてこの足を踏み入れまい、一足たりとも!」と言い、それに対してオランダ近代建築の父と呼ばれるベルラーヘが「星空に吼える犬ころ」とカイペルスを援護したと言われている。

なんだかわかるようなわからないような話である。カトリック的では駄目なのか?ゴシック的では駄目なのか?

15世紀後半から16世紀までオランダ(低地地帯)はスペイン(ハプスブルグ家)の支配下にあったが、16世紀中頃に低地地帯の領主がスペインに対して反乱を起こし、さらに10年後カトリックの国であるスペインに対してプロテスタントを国教と定め抵抗を強めた。オランダが独立した後もその政策は続き、19世紀初めまでカトリックは半ば非合法な存在とされ続けた。オランダにとってカトリックはいわば侵略者の象徴のようなものだったのである。

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19世紀オランダにおけるカトリックの立場はなんとなくわかったが、今度はゴシック様式がカトリック的でルネサンス様式がプロテスタント的とする考え方がよくわからない。ゴシック建築が華やかかりし頃はまだプロテスタントは生まれていなかったので、ゴシックがカトリックの建築とされるのはわからなくもない。しかしルネサンスはどうか。ルネサンスの本場イタリアはカトリックの国ではないか。カトリックの総本山バチカン市国のサン・ピエトロ大聖堂ももともとはルネサンス様式だったのである。

どうもこのあたりもオランダ独自の事情によるらしかった。スペイン支配下のアムステルダムの建築は北方ゴシック様式が主流であった。1578年プロテスタントが国教となり、教会堂にも新しい様式と形態が必要になった。そこで採用されたのが、ルネサンス様式の集中式プラン(カトリックの教会堂は典礼の関係で長軸線を持つバシリカ式プランのものが多い)。それからオランダではルネサンス様式はプロテスタントの表現とされたようである。

因みにカイペルス自身はカトリック教徒であり、1815年カトリックのミサが解禁となった後はカトリックの教会堂を専門に修復する建築家となった。

アムステルダム観光のメインとなるものは北の中央駅から南の国立美術館あたりにほぼ集約されている。いずれもカイペルスの建築である。この美術館をはじめ彼の建築は美しいだけではなく多くのことを私たちに教えてくれる。アムステルダム観光はカイペルスに始まりカイペルスに終わるといっても過言ではないかもしれない。

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2012年10月 5日 (金)

アムステルダム国立美術館1

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「ようこそアムステルダム国立美術館へ」という映画を観た。レンブラントやフェルメールを所蔵する世界でも有数の美術館の改修工事をめぐるドキュメンタリー映画だ。アムステルダム国立美術館は中央駅で有名なJ.P.H.カイペルスが1885年に手がけたもので、世界で初めての美術館建築である。建物の老朽化、館内の迷路化(所蔵作品の増加に伴い細かな改築を重ねた結果とも膨大な国家のコレクションを収容するため設計当初からとも言われている)に伴い、2004年美術館は建物の改修に着手したのだが、トラブル続きで計画段階に遡って工事は中断してしまう。市民団体、美術館長、学芸員、役所、建築家、様々な主張が飛び交い、会議をしても相容れず、関係者はやる気をなくし、特に明るい見通しを感じさせないまま映画は終わる。立場が違えば意見も異なる。揉めに揉めるその様子は社会の縮図を見るようと言えばそうとも言えるが、日本人から見るとここまでなるかなーと若干の違和感もある。このいつ終わるともつかなかった改修工事もついに完成への見通しが立ち、2013年4月に美術館が再開するとの記事が出ていた。関係者はもちろん世界中の美術ファンにとっても大変喜ばしいニュースである。

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-北面ファサード-

美術館の改修工事が遅れに遅れた理由は多々あるが、興味深く観てしまったのが「自転車」論争だ。市民団体が建築家ユニット・クルス&オルティス案に対して自転車が通れなくなると真っ向から反対したのである。アムステルダム市民はこの美術館のエントランスで南北へのアクセスを確保しているらしく、美術館を通り抜ける自転車は1日13000台にものぼるという。現状でも通路は狭いのに改修案では狭すぎて通れなくなるということのようだ。

スキポール空港の別館にある模型で確認してみると、中央のギャラリーが通り抜けになっているらしいことがわかる。私からするとこんなところを自転車で通り抜けようとすることの方が不思議なのだが・・・。

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結局カイペルスのファサードはそのままに南北に走る中央ギャラリーもオリジナルの姿に修復するにとどまったようだ。コンペで選ばれたにも関わらず建築家が折れた形になった。「民主主義は崇高なもの。民主主義の悪用だ。」と映画の中でオルペスが語っていたのが思い出される。「修正案は月並み、通俗的。何故私たちを選んだのか。」

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-南面ファサード-

それにしても、そもそもカイペルスがこのような設計をしなければ1世紀も後になってこんな自転車論争を引き起こさなくて良かったのに・・・。実際に歩いてみても、どうでも美術館を通り抜けなければならない必然性は感じられない。しかもこのミュージアム広場一帯が19世紀末に新しく開発された地域であることを考えると尚のことである。建物の平面プラン自体も特に珍しいものではない(王宮のプランを下敷きにしたのではないかという説もある)。

地図を見ていて、それがこの美術館建築のコンセプトだったのだろうと思った。アムステルダム国立美術館はシンゲル運河沿いの通りに面して建っている。アムステルダムの地図を見ていると、他の運河はきっちりと直線的にひかれているのに、シンゲル運河だけはウネウネと小刻みに曲がっているのに気づく。それはこのシンゲル運河が17世紀に造られた市壁の外堀だったためである。現在アムステルダムにはその市壁は残されていない。おそらく19世紀末市街を拡張するにあたり取り払ってしまったのだろう。カイペルスは失われてしまった市壁に対して、新しい市門としての象徴的意味合いをこの建築に持たせたのではないだろうか。実際この美術館は市民に「城門」と呼ばれて親しまれているのだそうだ。なるほどなー。そう思うとこの自転車論争もなんだか愛おしく思えてきた(当事者じゃないし)。

ともかく、アムステルダム国立美術館は来年4月16日再オープン。楽しみだけど、多分行くことはない・・・。

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2012年9月28日 (金)

マグナ・プラザ

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アムステルダムにはいくつか見てみたい建築があったが、マグナ・プラザというショッピングモールもその一つだった。ダム広場から王宮と新教会の間を西へ抜けると、正面にその豪華なファサードが見えてくる。交互に赤と白を配したオランダらしい華やかさと、繊細な装飾が印象的な二つの塔.。設計者のペーテルスはネーデルラント・ルネサンス様式を参照したというが、それはフロアを仕切るコーニスや窓の形に表れているものの、建物のシルエットや表層を覆う装飾は見る者の視線を垂直方向へ奪い、最終的にゴシック的印象を強く残す。

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マグナ・プラザは19世紀の郵便局を改修したものだ。設計はC.H.ペートルス、1899年の作品だ。ほぼ1世紀の間郵便局として使用され、1993年にショッピングモールに転用された。

中へ入ると3階吹き抜けの大空間が待っている。四方を美しいギャラリーと砂岩のアーケードが囲む。王宮の裏にあるためか、しばしば「王宮より豪華」と比較の対象になるが、その内部はむしろロマネスクの修道院のような静かで安定したムードが支配している。外観とのギャップに少なからず驚かされる。

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二色使いの連続アーチは形の違いはあれどコルドバのメスキータを彷彿とさせるが、この時期のオランダでよく使われた装飾のようだ。円柱は上階に上がるにつれ細く軽くなり、全体に安定感を与えている。柱間のスパンも変わるためアーチの形状も変化を見せる。これらの円柱やアーチは改修時に新しく付加されたものもあり、それらは改修工事期間の短縮を図るため(おそらくは費用の削減も)、鉄骨に予め設計当初の柱と調和するように準備したコンクリートを被せたものを使用している。近距離でよほど注意して見ない限り殆ど気付かない。

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ガラスのドームは19世紀のオリジナル。

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このような歴史的な建築物の中にも近代的でスタイリッシュなエレベーターが設置されいる。


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マグナ・プラザの建築様式についてイギリスの国会議事堂と同じネオゴシックとする記事が散見されるが、建築の第一印象だけに頼った少々乱暴な見方かもしれない。中世キリスト教建築と古典主義建築を折衷するこの時期のオランダの気分は、イギリスのリチャード・ノーマン・ショウが好んだフリークラシックスタイルに通ずるものではないだろうか。

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