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プラハ中央駅のカフェ

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ビザンチンを思わせるような壮大なドーム、雑誌で見た迫力満点のそれはプラハ中央駅にあるカフェの写真だった。大胆にカットされた半ドームの凹面にテーブルや椅子が並ぶ様子は、衝撃的にかっこよかった。建築博物館と言われるプラハだけに駅のカフェまで豪華だと妙に感動したものである。

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プラハ中央駅は1909年初期プラハアールヌーボーを代表する建築家Jファンタの手により建てられた。建設当時はまだオーストリア領であったためフランツ・ヨーゼフ皇帝駅という名前だったそうだ。1900年といえばハンガリーが事実上の独立を果たして間もない頃であり、これまで同等の立場であったチェコでもハンガリーとは違った意味で民族主義が高まった時代だった。チェコの世紀末建築は、近代建築の走りとなったJコチュラを境にしてファンタやポリーフカ、オーマンのようなチェコの伝統的様式からアール・ヌーヴォーを展開した前期の建築家とコチュラの教え子でありながらその普遍性に反発し、その合理性を受け継ぎながらも独自のチェコ建築を確立しようとしたゴチャールやヤナーク、ホホルといったキュビズムの建築家のグループに分かれているようだ。同じ民族主義の発露としての建築であるが、その様式の違いには驚かされる。

無骨な二つの塔と赤い段々状の切妻壁、正面にガラス張りの大アーチを持つファサードは工業的な匂いが強く少々野暮ったい感じがするが、冒頭のドームは素晴らしくアール・ムーヴォーらしからぬダイナミックな空間に驚かされる。チェコは長距離移動移動でも電車よりバスの方が安くて早い為駅へ向かう機会は少ないかもしれないが、ここは是非とも訪れておきたい場所である。

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この駅は3階建てで、1階が切符売り場、2階がホームへ向かう通路、3階にカフェとホームがある。2階の通路の一部が吹き抜けになっており、上階のドームを見上げることができる。大きな荷物を持った旅行客もここでは一瞬立ち止まって、その美しいドームに見とれるのである(写真下方の手すりの奥が吹き抜けの穴)。

しかしこの空間は建設当初の用途は何だったのだろう。見た感じは、切符売り場だったようなのだけれど・・・。

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中央の装飾

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ファサードのガラス張りの大アーチを中から見る。

ちなみにこのカフェはファサードすぐの場所にあり、吹き抜けになっている構造もあり、冬お茶をするには寒い。

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中央駅ホーム

この頃のヨーロッパの駅は綺麗だ。

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ネルドヴァ通りのカフェ

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カレル橋からミクラーシュ聖堂のあるマラーストラナ広場を横切りストラホフ修道院へと登って行く道はプラハの観光客が誰でも一度は通るであろうメジャーな観光ルートである。そのネルドヴァ通りの中程に小さなカフェが坂の下方に向かって扉を開いている。扉の真ん中には赤い「茶」という大きな文字。何となく可愛らしい。このような立地にあるカフェやレストランはヨーロッパの坂のある街ではよく見かけるが、日本ではあまりないような気がする。特に京都ではありえないためか、妙に惹かれるものがある。

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こういう感じで道に出っ張っているのだ!手前の扉が開くと上の写真になる。

中に入ると7テーブルほどのこじんまりした店で殆ど飾り気のない素朴な内装。茶と漢字で書かれているだけあって、日本茶や中国茶も置いてある。通路にも日本っぽいというか中国っぽいというかアジアンテイストな飾り物があった。このカフェの扉口の写真を以前本で見たことがあるが、その写真には中央の「茶」の文字はなかった。割りに最近書かれたものなのだろうか。アジアのお茶を置き始めたのもこの頃なのかな。案外そんな些細な事を考えるのが好きだ。メニューを眺めて、へぇ・・・と思う。チェコではお茶をcajチャイと言うらしい。沢木耕太郎が著書「深夜特急」の中でユーラシア大陸をお茶の単語で分類していたのを思い出す。チャやチャイのようなCで始まる国とティーやテのようなTで始まる国。彼はC文化のアジアからT文化のヨーロッパへと旅を進め、最後にポルトガルで再びcha(シャと発音する)の国に出会ってほっとするのだった。確かにポルトガルはあまりヨーロッパっぽくなく、何となく感覚が日本と似ていると思った覚えが私にもある。イギリス・フランス・ドイツ・スペインとT諸国が連なるヨーロッパにおいてポツンとCの国があるのはとても不思議だと思ったが、チェコもチャイの国だったとは。同じ中欧のハンガリーがアジア系民族であるにも関わらずteaとTの国であることを考えると、ますます不思議なのである。

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写真はホットアップル。特大マグカップで出てくるが、これで約210円。安い・・・。

因みにこのカフェは映画「アマデウス」のロケも行なわれたことがある。モーツァルトが妻と帽子を選ぶシーンなのだそうだが、残念ながら全く記憶にない。記憶にないのになんとなく満足してお茶を飲んでいる私は少し変かもしれない・・・。

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パリっぽい風景(メトロの入口)

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二度目のヨーロッパ、旅の始まりはパリだった。空港から街に入って、ギマールのメトロの入口を見つけた。植物の茎を想わせる曲線、花の蕾の形のランプ、レトロな字体、ああパリに来たんだなぁと思った。その前に来たパリはツアーでたった二日だけだったので、二度目のそのときの方が自分としては初めてのパリのような気分で何を見ても目新しく映った。街を歩いていてパリっぽいと思ったものは、エッフェル塔やマンサード屋根、ポン・デ・ザール、そしてメトロの入口だった。マンサード屋根を除くと何れも1900年前後につくられた鉄のものであり、それらを考えると当時パリに何があるのかもロクに知らなかったにも関わらず、ある種明快なイメージを持っていたらしいことに我ながら驚いた。当時の私にとってパリとは、凱旋門でもなくノートルダム大聖堂でもなくオペラ座でもない、ベルエポックの時代こそパリと思っていたようなのである。それは建築不在の時代と言われる19世紀から20世紀モダニズムが生まれるまでの、よく言えば黎明期、一般的には暗黒の時代と呼ばれるパリの長い歴史の中ではごく僅かな期間にあたっている。

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パリにメトロが登場したのはロンドンに遅れること約40年、1900年パリ万博開催の年のことである。国家の威信をかけての大事業であったことは想像に難くない。このメトロの入り口をつくるにあたりコンペが行なわれ、当時30歳の新進建築家エクトール・ギマールの案が採用された。一等の案は実は官学派のデュレという建築家のものだったらしいが、首都鉄道会社社長のべナールは審査委員の決定を不服とし、ギマールに設計を依頼したのだそうだ。デュレの案がどのようなものであったのは知らないが、官学派という言葉から考えると当時一般的だった折衷主義の石の建築だったのだろう。べナールは新しいもの好きだったのか、自宅の食堂にアール・ヌーヴォー様式を取り入れたり、若手の芸術家に共感を示していたらしい。

たまたま首都鉄道会社の社長には理解されていたが、ギマールはじめアール・ヌーヴォーの芸術家は保守的な文化人の非難の対象とされていた。もっともそれは当時のことだけではなく60年代になってもまだアール・ヌーヴォーは悪趣味の代名詞とされていたから無理もない。今でもガルニエ・オペラ座から地下鉄に乗ると、ここの駅だけが大理石のクラシックなデザインであることに気付く。折衷主義の代表的な建築であるオペラ座にあわせてメトロの駅も石でつくったのか、流石パリはこだわりが違うと感心していたのだが、実際のところはそのようであってそのようではない。オペラ座のコンペで、当時既に様々なゴシック聖堂の修復で実績のあったヴィオレ・ル・デュクの設計案に対して無名に近い若い建築家ガルニエの案が採用されたのは1858年のこと。そのガルニエも地下鉄敷設計画が論議されていた1868年にはフランス建築界の重鎮である。ガルニエは1889年の万博のときもエッフェル塔建設について美観を損ねると猛反対し、今回のメトロの駅についても市民がよく目にするものだから芸術作品でなければならず、鉄格子のような梁や鋼鉄製の痩せた骨組みのものであってはならないと抗議している。結局はパリの街はギマールの駅で溢れる訳だが、彼のオペラ座の前だけはクラシックな石の駅がつくられたということである。

余談ながらこのオペラ座のコンペはただこの建築物の設計者を決めるというだけではなく、19世紀前半のフランスにおける二大思想の勢力争いに結末をつけるものでもあった。一つはガルニエの所属するエコール・デ・ボザールのロマンチックな折衷主義。もう一つはゴシックを国民的建築と考えるフランス文化財保護委員会。こちらにはカルメンの作者として有名な作家のメリメやヴィオレ・ル・デュクがいた。オペラ座のコンペ以降は勝利したガルニエの所属するボザールがフランス建築界の主流となる。ガルニエはその著書で、文化財保護委員会のゴシック研究者を、古代建築を模倣するだけで新しい建築を求めないとして非難し、美しい建築をつくるためには過去の時代の建築様式から色々なよいところを寄せ集めて新しい建築をつくる折衷主義の理念が必要だと主張している。しかしながらコンペから30年後アール・ヌーヴォーというその名の通り新しい芸術が生まれたが、その建築の根源にはヴィオレ・ル・デュクの新しい素材による合理的な構造理念がある。ギマールやガウディ、レヒネル等多数のアール・ヌーヴォーの著名な建築家がヴィオレ・ル・デュクの理論に影響を受けた。現在、アール・ヌーヴォーをただの悪趣味の代名詞とするのではなくコルビュジェやミースの唱えるモダニズムを準備した期間とする考え方が広がっているが、このことを考えると長い歴史の中で実際の勝者はどちらだったのだろうとメトロの駅を思い浮かべながらつらつらと考えてみたりするのだった。

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ギマールは地下鉄の駅を鉄製の囲いとランプのみのシンプルなもの、ガラスの屋根付きのもの、小さな駅舎風のものの.3タイプに絞って設計した。材料の鉄とガラスは規格化され納期の短縮と経費の削減が図られた。所謂プレハブリケーションである。これらの大量生産された駅はベルエポックのパリを華やかに彩り、ギマールの名前は時代の記憶と共に永遠に歴史に刻まれることとなる。残念ながら現在では幾つかの例を残すに過ぎず、上の写真のようなタイプが標準となっている。ギマールの設計した駅の中では、駅舎風のものは現存せず、屋根付きのタイプは二例のみ、それでも囲いとランプだけのタイプは比較的多く残っており、世紀末の喧騒と退廃的ムードを今に伝えている。

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