二度目のヨーロッパ、旅の始まりはパリだった。空港から街に入って、ギマールのメトロの入口を見つけた。植物の茎を想わせる曲線、花の蕾の形のランプ、レトロな字体、ああパリに来たんだなぁと思った。その前に来たパリはツアーでたった二日だけだったので、二度目のそのときの方が自分としては初めてのパリのような気分で何を見ても目新しく映った。街を歩いていてパリっぽいと思ったものは、エッフェル塔やマンサード屋根、ポン・デ・ザール、そしてメトロの入口だった。マンサード屋根を除くと何れも1900年前後につくられた鉄のものであり、それらを考えると当時パリに何があるのかもロクに知らなかったにも関わらず、ある種明快なイメージを持っていたらしいことに我ながら驚いた。当時の私にとってパリとは、凱旋門でもなくノートルダム大聖堂でもなくオペラ座でもない、ベルエポックの時代こそパリと思っていたようなのである。それは建築不在の時代と言われる19世紀から20世紀モダニズムが生まれるまでの、よく言えば黎明期、一般的には暗黒の時代と呼ばれるパリの長い歴史の中ではごく僅かな期間にあたっている。
パリにメトロが登場したのはロンドンに遅れること約40年、1900年パリ万博開催の年のことである。国家の威信をかけての大事業であったことは想像に難くない。このメトロの入り口をつくるにあたりコンペが行なわれ、当時30歳の新進建築家エクトール・ギマールの案が採用された。一等の案は実は官学派のデュレという建築家のものだったらしいが、首都鉄道会社社長のべナールは審査委員の決定を不服とし、ギマールに設計を依頼したのだそうだ。デュレの案がどのようなものであったのは知らないが、官学派という言葉から考えると当時一般的だった折衷主義の石の建築だったのだろう。べナールは新しいもの好きだったのか、自宅の食堂にアール・ヌーヴォー様式を取り入れたり、若手の芸術家に共感を示していたらしい。
たまたま首都鉄道会社の社長には理解されていたが、ギマールはじめアール・ヌーヴォーの芸術家は保守的な文化人の非難の対象とされていた。もっともそれは当時のことだけではなく60年代になってもまだアール・ヌーヴォーは悪趣味の代名詞とされていたから無理もない。今でもガルニエ・オペラ座から地下鉄に乗ると、ここの駅だけが大理石のクラシックなデザインであることに気付く。折衷主義の代表的な建築であるオペラ座にあわせてメトロの駅も石でつくったのか、流石パリはこだわりが違うと感心していたのだが、実際のところはそのようであってそのようではない。オペラ座のコンペで、当時既に様々なゴシック聖堂の修復で実績のあったヴィオレ・ル・デュクの設計案に対して無名に近い若い建築家ガルニエの案が採用されたのは1858年のこと。そのガルニエも地下鉄敷設計画が論議されていた1868年にはフランス建築界の重鎮である。ガルニエは1889年の万博のときもエッフェル塔建設について美観を損ねると猛反対し、今回のメトロの駅についても市民がよく目にするものだから芸術作品でなければならず、鉄格子のような梁や鋼鉄製の痩せた骨組みのものであってはならないと抗議している。結局はパリの街はギマールの駅で溢れる訳だが、彼のオペラ座の前だけはクラシックな石の駅がつくられたということである。
余談ながらこのオペラ座のコンペはただこの建築物の設計者を決めるというだけではなく、19世紀前半のフランスにおける二大思想の勢力争いに結末をつけるものでもあった。一つはガルニエの所属するエコール・デ・ボザールのロマンチックな折衷主義。もう一つはゴシックを国民的建築と考えるフランス文化財保護委員会。こちらにはカルメンの作者として有名な作家のメリメやヴィオレ・ル・デュクがいた。オペラ座のコンペ以降は勝利したガルニエの所属するボザールがフランス建築界の主流となる。ガルニエはその著書で、文化財保護委員会のゴシック研究者を、古代建築を模倣するだけで新しい建築を求めないとして非難し、美しい建築をつくるためには過去の時代の建築様式から色々なよいところを寄せ集めて新しい建築をつくる折衷主義の理念が必要だと主張している。しかしながらコンペから30年後アール・ヌーヴォーというその名の通り新しい芸術が生まれたが、その建築の根源にはヴィオレ・ル・デュクの新しい素材による合理的な構造理念がある。ギマールやガウディ、レヒネル等多数のアール・ヌーヴォーの著名な建築家がヴィオレ・ル・デュクの理論に影響を受けた。現在、アール・ヌーヴォーをただの悪趣味の代名詞とするのではなくコルビュジェやミースの唱えるモダニズムを準備した期間とする考え方が広がっているが、このことを考えると長い歴史の中で実際の勝者はどちらだったのだろうとメトロの駅を思い浮かべながらつらつらと考えてみたりするのだった。
ギマールは地下鉄の駅を鉄製の囲いとランプのみのシンプルなもの、ガラスの屋根付きのもの、小さな駅舎風のものの.3タイプに絞って設計した。材料の鉄とガラスは規格化され納期の短縮と経費の削減が図られた。所謂プレハブリケーションである。これらの大量生産された駅はベルエポックのパリを華やかに彩り、ギマールの名前は時代の記憶と共に永遠に歴史に刻まれることとなる。残念ながら現在では幾つかの例を残すに過ぎず、上の写真のようなタイプが標準となっている。ギマールの設計した駅の中では、駅舎風のものは現存せず、屋根付きのタイプは二例のみ、それでも囲いとランプだけのタイプは比較的多く残っており、世紀末の喧騒と退廃的ムードを今に伝えている。
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