国民劇場
プラハに着いた翌朝まず一番に向かったのがナーロドニー通りの西端ブルタヴァ川にぶつかるところにある国民劇場だった。国民劇場のガイドツアーが行なわれるのは唯一日曜日だけで、市民会館同様不定期に行なわれるらしく時間を前もって知ることができない。今回の旅行ではこの日1日しか見学の機会はないので、ひとまず最優先した次第である。実際は0分と30分の30分単位で行なわれるようだが、時間帯によりツアーの言語が異なるようである。
国民劇場というストレートな名前を持つこの建物は、チェコ語によるチェコ人のための恒久的劇場を造ろうとういうスローガンのもとに建てられた民族復興のシンボルとなる建築である。堂々とした佇まいのこの劇場が、市民の寄付で建てられたと言うから驚く。しかもこの劇場は初めからこの姿でここに建っていた訳ではないのである。
内部に展示されている模型。上から見ると不定形な立地に建てられているのがよくわかる。
現在の国民劇場はチェコ語の劇場としては三代目、石の劇場としては二代目にあたる。オーストリア治下にあった当時のプラハでは公用語はドイツ語であり、唯一あったエステート劇場もドイツ語劇がメインでチェコ語劇はごく稀にしか上演されなかった。そこで民族復興に燃える市民の中で、チェコ人のための新しい劇場をつくろうとの機運が高まったのである。一旦は1862年にイグナーツ・ウルマン設計による木造の劇場が完成した。900人の観客席があったというからそれなりの規模のものであったと思われるが、石の劇場ではないため恒久的建築とは言えない。建築家ヨゼフ・ジーテクの訴えにより、恒久的石の劇場をつくるため再度募金が募られ、設計コンペが行なわれた。コンペではジーテクのネオルネサンス様式の設計案が当選し、これが二代目の劇場となる。ジーテク案の二代目劇場は1881年5月に完成し6月11日に仮開きが行なわれたが、その1日後に火事で消失してしまう。この劇場の建設にあたりオーストリア・ハンガリー帝国の建設許可が下りるまでに5年程も待たされ、その後13年の歳月を経てようやく完成した劇場であることを考えると、市民の落胆は想像して余りある。しかし、そのとき一人の男が「また劇場をつくろう」と帽子を回した。すると人々は競ってその帽子にお金を入れたという。こうして、チェコ人の悲願であるチェコ人のための劇場は三度目にしてようやく完成するのである。
現在の国民劇場はジーテクの弟子であるシュルツによって僅か二年で建てられた。シュルツに代わったのは、ジーテクの案がウィーンのオペラ座に似ているとして非難されたことと火事の責任を取らされたためらしい。実際にはシュルツはジーテク案を踏襲したため国民劇場はウィーンのオペラ座によく似た外観となったが、当時の人々はこれで納得したのだろうか。そのあたり少し不思議ではあるが、「ヴルタヴァ川の川の黄金の礼拝堂」「再生の聖堂」と呼ばれ大切にされていることを考えると、結果的にはそんなことはどうでもよかったのだろう。
舞台の中央、装飾のペンデンティブ下あたりに「NAROD SOBE」の文字が刻まれている。「民族が自分自身のために」という意味だそうだ。こけら落としにはスメタナの「リブシェ」というチェコ創世の伝説を題材にしたオペラが上演された。日本は幸いにもこのような民族のアイデンティティの危機を殆ど経験したことがない。幸いなことだと勿論思うけれど、民族的誇りというものに鈍感になっている自分について少し恥ずかしいような複雑な気持ちになった。
緩いカーブを描く上階席

天井装飾
上階を見下ろす
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