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2013年2月16日 (土)

チェスキー・クルムロフ

Chs1

チェスキー・クルムロフに着いたのは夜だった。翌朝から町の散策に出かけ、チェスキー・クルムロフ城のある小高い丘から川向こうにある町を眺めた。朝のぼんやりした光の中を、家々の煙突から幾筋もの煙が立ち上っていた。冷たい冬の空気の中で町全体が呼吸をしているように見えた。
旅行をしていて冬に来て良かったなぁと思うことは少ない。というより、寒いし、風は強いし、空はどんよりしていることが多いし、ヨーロッパの冬は最も観光に適さない季節である。それでもごく稀に、冬もいいなと思う瞬間がある。キーンと切れるような冷えきった空気の中で凍えそうになりながら見るのがよいという景色もたまにはあるのだ。

Chs2

チェスキーは「ボヘミアの」、クルムロフは「湾曲した牧草地」という意味で、ドイツ語の「Krumme Aue」に由来するのだそうだ。

Chs6

チェスキー・クルムロフはその名の通り蛇行するヴルタヴァ川のS字部に開かれた町で、豊かな緑に囲まれた赤い屋根の美しい街並みは「ボヘミアのシエナ」とも言われている。

Chs4

チェスキー・クルムロフは14~16世紀の間ボヘミアの有力貴族であるローゼンバーグ家の下に手工業と交易により繁栄した。ルネサンス様式の華やかな町並みは最も繁栄を極めたこの16世紀に造られたものだ。

Chs7

建物の壁に石積みを描くような騙し絵はチェスキー・クルムロフでもよく見かける。これも16世頃ボヘミア全土に広がったもの。

Chs3

しかし町の繁栄とは裏腹にローゼンベルグ家の財政は破綻を来たしており、チェスキー・クルムロフは借金の抵当にされ、1601年には神聖ローマ皇帝ルドルフ二世の手に渡ってしまう。その後町の支配者は転々とし、1622年にエッゲンベルグ家、1719年シュヴァルツェンベルク家へと変わって行くが、シュヴァルツェンベルク家も19世紀にはチェスケー・ブディェヨヴィツェ北4kmのフルボカー城へと居城を移した。主要な鉄道網からも外れ近代化の波に乗れなかったため町は徐々に寂れて行き、第一次世界大戦前にはチェスキークルムロフ縁の画家であるエゴン・シーレが町がなくなってしまうと危惧するほどだったという。

Chs5

しかしながら近代化の波に取り残されたことにより、チェスキー・クルムロフには繁栄した当時のルネサンスの町並みがそのまま保存されることとなった。1989年ビロード革命以降歴史的景観の価値が見直され旧市街の修復が進められた。現在ではユネスコ世界遺産にも登録される美しい町並みが蘇り、世界で最も美しい町の一つと言われている。幸いにもシーレのそれは杞憂に終わったようだ。

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