美術館

2012年10月 8日 (月)

アムステルダム国立美術館2

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アムステルダム国立美術館改修工事の揉めごとについては前回書いたが、この建物は建設当初にも物議を醸していたらしい(新しい建築にはよくある話だ)。当時の論争は設計者のJ.P.H.カイペルスとプロテスタントとの間で繰り広げられた。カイペルスの案はネオ・ルネサンス様式にゴシック的要素が追加された折衷様式。これがプロテスタントから、国立の美術館としてはあまりにゴシック的でカトリック的と非難された。そのためカイペルスはギャラリーの尖塔アーチを半円アーチに変えることを余儀なくされるが、そうした変更を加えたにも関わらずこの建物はゴシック的で、しばしば「ゴシックの大聖堂」のようだと言われた。オランダ国王ヴィレム3世は「あの修道院もどきには、断じてこの足を踏み入れまい、一足たりとも!」と言い、それに対してオランダ近代建築の父と呼ばれるベルラーヘが「星空に吼える犬ころ」とカイペルスを援護したと言われている。

なんだかわかるようなわからないような話である。カトリック的では駄目なのか?ゴシック的では駄目なのか?

15世紀後半から16世紀までオランダ(低地地帯)はスペイン(ハプスブルグ家)の支配下にあったが、16世紀中頃に低地地帯の領主がスペインに対して反乱を起こし、さらに10年後カトリックの国であるスペインに対してプロテスタントを国教と定め抵抗を強めた。オランダが独立した後もその政策は続き、19世紀初めまでカトリックは半ば非合法な存在とされ続けた。オランダにとってカトリックはいわば侵略者の象徴のようなものだったのである。

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19世紀オランダにおけるカトリックの立場はなんとなくわかったが、今度はゴシック様式がカトリック的でルネサンス様式がプロテスタント的とする考え方がよくわからない。ゴシック建築が華やかかりし頃はまだプロテスタントは生まれていなかったので、ゴシックがカトリックの建築とされるのはわからなくもない。しかしルネサンスはどうか。ルネサンスの本場イタリアはカトリックの国ではないか。カトリックの総本山バチカン市国のサン・ピエトロ大聖堂ももともとはルネサンス様式だったのである。

どうもこのあたりもオランダ独自の事情によるらしかった。スペイン支配下のアムステルダムの建築は北方ゴシック様式が主流であった。1578年プロテスタントが国教となり、教会堂にも新しい様式と形態が必要になった。そこで採用されたのが、ルネサンス様式の集中式プラン(カトリックの教会堂は典礼の関係で長軸線を持つバシリカ式プランのものが多い)。それからオランダではルネサンス様式はプロテスタントの表現とされたようである。

因みにカイペルス自身はカトリック教徒であり、1815年カトリックのミサが解禁となった後はカトリックの教会堂を専門に修復する建築家となった。

アムステルダム観光のメインとなるものは北の中央駅から南の国立美術館あたりにほぼ集約されている。いずれもカイペルスの建築である。この美術館をはじめ彼の建築は美しいだけではなく多くのことを私たちに教えてくれる。アムステルダム観光はカイペルスに始まりカイペルスに終わるといっても過言ではないかもしれない。

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2012年10月 5日 (金)

アムステルダム国立美術館1

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「ようこそアムステルダム国立美術館へ」という映画を観た。レンブラントやフェルメールを所蔵する世界でも有数の美術館の改修工事をめぐるドキュメンタリー映画だ。アムステルダム国立美術館は中央駅で有名なJ.P.H.カイペルスが1885年に手がけたもので、世界で初めての美術館建築である。建物の老朽化、館内の迷路化(所蔵作品の増加に伴い細かな改築を重ねた結果とも膨大な国家のコレクションを収容するため設計当初からとも言われている)に伴い、2004年美術館は建物の改修に着手したのだが、トラブル続きで計画段階に遡って工事は中断してしまう。市民団体、美術館長、学芸員、役所、建築家、様々な主張が飛び交い、会議をしても相容れず、関係者はやる気をなくし、特に明るい見通しを感じさせないまま映画は終わる。立場が違えば意見も異なる。揉めに揉めるその様子は社会の縮図を見るようと言えばそうとも言えるが、日本人から見るとここまでなるかなーと若干の違和感もある。このいつ終わるともつかなかった改修工事もついに完成への見通しが立ち、2013年4月に美術館が再開するとの記事が出ていた。関係者はもちろん世界中の美術ファンにとっても大変喜ばしいニュースである。

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-北面ファサード-

美術館の改修工事が遅れに遅れた理由は多々あるが、興味深く観てしまったのが「自転車」論争だ。市民団体が建築家ユニット・クルス&オルティス案に対して自転車が通れなくなると真っ向から反対したのである。アムステルダム市民はこの美術館のエントランスで南北へのアクセスを確保しているらしく、美術館を通り抜ける自転車は1日13000台にものぼるという。現状でも通路は狭いのに改修案では狭すぎて通れなくなるということのようだ。

スキポール空港の別館にある模型で確認してみると、中央のギャラリーが通り抜けになっているらしいことがわかる。私からするとこんなところを自転車で通り抜けようとすることの方が不思議なのだが・・・。

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結局カイペルスのファサードはそのままに南北に走る中央ギャラリーもオリジナルの姿に修復するにとどまったようだ。コンペで選ばれたにも関わらず建築家が折れた形になった。「民主主義は崇高なもの。民主主義の悪用だ。」と映画の中でオルペスが語っていたのが思い出される。「修正案は月並み、通俗的。何故私たちを選んだのか。」

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-南面ファサード-

それにしても、そもそもカイペルスがこのような設計をしなければ1世紀も後になってこんな自転車論争を引き起こさなくて良かったのに・・・。実際に歩いてみても、どうでも美術館を通り抜けなければならない必然性は感じられない。しかもこのミュージアム広場一帯が19世紀末に新しく開発された地域であることを考えると尚のことである。建物の平面プラン自体も特に珍しいものではない(王宮のプランを下敷きにしたのではないかという説もある)。

地図を見ていて、それがこの美術館建築のコンセプトだったのだろうと思った。アムステルダム国立美術館はシンゲル運河沿いの通りに面して建っている。アムステルダムの地図を見ていると、他の運河はきっちりと直線的にひかれているのに、シンゲル運河だけはウネウネと小刻みに曲がっているのに気づく。それはこのシンゲル運河が17世紀に造られた市壁の外堀だったためである。現在アムステルダムにはその市壁は残されていない。おそらく19世紀末市街を拡張するにあたり取り払ってしまったのだろう。カイペルスは失われてしまった市壁に対して、新しい市門としての象徴的意味合いをこの建築に持たせたのではないだろうか。実際この美術館は市民に「城門」と呼ばれて親しまれているのだそうだ。なるほどなー。そう思うとこの自転車論争もなんだか愛おしく思えてきた(当事者じゃないし)。

ともかく、アムステルダム国立美術館は来年4月16日再オープン。楽しみだけど、多分行くことはない・・・。

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2011年10月31日 (月)

アムステルダム国立ミュージアム別館(スキポール空港内)

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オランダのスキポール空港に着いたのは朝の6時半頃。急に旅行に行くことにしたものだからアジア系のエアしか取れず、まだ真っ暗なアムステルダムに到着してしまった次第。出発前にある方から空港内にアムステルダム国立ミュージアムの別館があると教えて頂いていたので、早速行ってみることにした。そういえば空港内の案内板にはミュージアムの文字が・・・。なかなか不思議な感じである。時間が早いので不安だったが、幸いにも朝7:00オープンだったので少し待つだけで入ることが出来た。

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展示のテーマは時により変わる。私が行った2012年9月は「フランドルの女性達」というものだった。展示室は小さなものだが、目当てのフランス・ハルスが一点あり私としては結構満足。

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展示室は免税店のある辺りにあり、ゲートを移動する細長い通路の二階にある。一階にはミュージアムショップがあるので、それを目印に行くといいかも。

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アムステルダム国立ミュージアムの模型が展示されていた。精巧でとても美しい。現在ミュージアム本体はまだ改装工事中なので、この模型の方がよく見えるかもしれない。

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ミュージアム裏側

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2011年8月 1日 (月)

テート・モダン

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テムズ川南岸サウスウォークにあるテート・モダンは2000年にテート・ギャラリーから現代美術のコレクションを移してオープンした美術館だ。大英博物館のグレートコートやミレニアムブリッジ、ヘイズギャレリア等、ロンドンはこの2000年の前後に新しい建築が次々に建てられ、まるで建築バブルの様相を呈している。このテートモダンは中央の細い煙突が示すように元は火力発電所であったものをリノベーションし、美術館に転用したもの。設計はサー・ジャイルズ・ギルバート・スコット。1952年から1981年までバンクサイド発電所として操業していた。アールデコは大体1910年から30年代にかけてのスタイルであることを考えると、少し遅い登場である。

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リノベーションを担当したのはヘルツォーク&ド・ムーロン。日本の青山のプラダや北京の鳥の巣等の設計で知られるスイスの建築家ユニットである。このテートモダンが彼らの実質的な世界デビュー作品となった。ヘルツォーク&ド・ムーロンと言えば、スタイリッシュでユニークな外壁を真っ先に思い浮かべてしまうが、最上階にガラスボックスが付け加えられた程度でほぼ建設当時の姿で残されている。

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中へ入るとタービンホールと名付けられた吹き抜けの大空間に出る。発電所時代タービン室だったのでその名が付けられたのだそうだ。壁には剥き出しの鉄骨が並び、外観のトラディショナルな煉瓦壁とは対照的な印象。構造は鉄筋コンクリートだが、外観の装飾には伝統的なものを使用するケースはアールデコには多い(日本で言えば帝冠様式のような)。

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タービンホールにトップライトからの自然光が降り注いでいたのはインスタレーションの展示室だからかと思っていたら、他の展示室にも普通に窓があった。そういえばイギリスの他の美術館でも自然光が入っているものが多いなぁと思った印象がある。紫外線カットの技術がそれだけ進んだということなのかな。

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テムズ川の眺望が素晴らしい最上階のレストラン・バー。クリストファー・レンのセント・ポール大聖堂とノーマン・フォスターのミレニアムブリッジが正面に見える建築ファンには堪らない観賞スポット。もう少し右に行くと30セント・メアリー・アクス(同じくノーマンフォスター)も見える。この左側にレストランがあり、窓際の席でなくても眺望は楽しめなくもないが、窓を正面にして座れるバーの方がおすすめ。4階かどこかにテラス席のあるカフェ・バーがありそちらも気持ち良さそうだった。

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2009年10月22日 (木)

京都府立陶板名画の庭

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京都北山、植物園と接する一画に京都府立陶板名画の庭がある。1990年大阪で行なわれた「国際花と緑の万国博覧会」でダイコク電機のパビリオンを飾った陶板画4点に新たな4点を追加して展示したものである。オープンは2004年、万博のダイコク電機パビリオンと同じく安藤忠雄の設計である。

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陶板画は、原画を撮影したポジフィルムを下に写真製版技術により陶製の板に転写し焼成したものである。陶板ゆえに水の中に揺らめくモネの睡蓮もあり得る。

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奥の緑が植物園との境になっている。この植栽までは名画の庭の敷地らしい。ここに緑が見えるだけで、随分と爽やかな気持ちになる。、

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狭い矩形の敷地を地下二階まで掘り下げ、階段状に水盤を設置し、その水盤を展示スペースとしている。長軸方向と対角線上を細いスロープが横切り立体回遊式の「庭」を形造る。中に入ってスロープを歩いていると入口で拍子抜けした敷地の狭さも感じられなくなって行く。天井のない開放感のせいなのか、歩を進めるにつれ変化して見える周囲の様子のせいなのか。

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ミケランジェロの実物大「最後の審判」にはスロープを歩いている間に3度出会うことになる。システィーナ礼拝堂の壁を飾っているだけにその大きさは半端ではないが、ここでならそれぞれの目の高さでよく見ることが出来る。よく出来た仕掛けだと思う。

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奥に見えるのは、スーラ、ルノアール、ゴッホの3点。モネと合わせて4点が印象派というのは随分偏った選択だと思うが、日本人好みといったところ?

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空中にテラス状に張り出すスロープ

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階段状の水盤の段差部分が滝になっているため、中を歩いている間中、水の音が絶えない。そのためなのか北山通に面しているにも関わらず車の音は殆ど聞こえず、街中にいることを忘れてしまいそうになる。マイナスイオンも一杯な気がする。そもそも「名画の庭」はダイコク電機の女子社員が名画を青空の下で見られたら気持ちいいかも、という一言から生まれたものだそうだ。行ってみるまでは絵なんて別に何処で見ても一緒だし、ましてや本物でもないものを・・・と思っていたのだが、実はなかなか爽やかで気持ちがよく自分の思い違いに気付かされてしまった。また来たいかも・・・。

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2009年9月27日 (日)

兵庫県立美術館

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兵庫県立美術館は2002年にオープンした関西では比較的新しい美術館だ。阪神・淡路大震災からの「文化の復興」のシンボルとして建てられたもので、被災した兵庫県立近代美術館のコレクションを引き継いでいる。設計は安藤忠雄、延床面積約27.46㎡と西日本最大級の規模を誇る。大きな3つの展示室が並び、後方の海へと繋がる広場(なぎさ公園)までが安藤忠雄の設計。コンクリートの打ちっ放しの箱をガラスで囲うデザインは最近の安藤建築では御馴染みのスタイルだ。

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「海のデッキ」から展示室を臨む。大きなキャノピーが特徴的。

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「風のデッキ」への階段

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「風のデッキ」海から山へと抜けた空間

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「円形テラス」

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常設展示室への大階段。石切り場のような潔さ。

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「海のデッキ」からの眺め。

この美術館、見た目は単純明快な構成なのだが、実際に歩いてみるとどこがどこへと繋がっているのか少し迷う。そうした一筋縄で行かないところも美術館を愉しませる一つのやり方なのだとは思うが、これは結構好みが分かれるところではないだろうか。率直に言うと、私は建築が前に出すぎているような気がして少し疲れるなぁという気がした。何と言うのか、一部のバロック教会のようなこれ見よがしのいやらしさを感じるのだ。どちらかというと、ロマネスク・シトー派教会に近いストイックな建築であるにも関わらずである。そもそも美術鑑賞は結構疲れる。展示室を出ればほっとしたり、爽やかな開放感を感じたりしたい。この美術館は展示室を出てもまだ、その建築のボリュームの中に取り込まれている感じがして閉塞感が残る。良くも悪くも、建築の主張が強いのだろうと思う。パンフレットやHPに建築の見所を一つ一つ写真つきで紹介しているのも、私はあまり良いとは思わない。確かに建築好きとしては、誰がいつどんな意図でこれを建てたのか、美術館建築としてどのような工夫がされているのかといったことは知りたい。記載してもらえると嬉しい。しかし見所を紹介するのは少し違う。ここにいると何となく気持ちいいとか楽しいとか、そんな風に訪れた人が自然に感じられるというのがいい。よい美術館建築とは本来そういうものではないのか。美術館は展示作品や所蔵品が主役であって、建築は主役になってはいけないのである。

以前の安藤建築にはそういう良さがあったと思う。京都洛北にあったケーキハウスも高瀬川沿いのタイムズビルも出来た当時学生だった私は本当によく利用していた。そこのケーキがおいしかったからとか、そのビルに好みのショップが入っていたからとか、利用する理由は勿論あったけれど、その空間でお茶を飲みたい、寛ぎたいと思う気持ちも確かにあったのだ。建築が「安藤建築だから」ではなく「この素敵な建物は安藤忠雄という建築家が作ったのね」という風に感じられる丁度良い感覚。有名になり過ぎたためなのか、最近の安藤忠雄の美術館にはその感覚が前後しているように感じられるものが時々ある。古くから安藤建築に慣れ親しんだ一建築ファンとしては何だか少し残念に思うのである。

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2008年8月23日 (土)

応用美術館(工芸美術館)

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直行便で旅をすることが殆どない私は、ヨーロッパの都市へ着くのは大抵夜である。ホテルへ着くまでの道程ライトアップされた街を見ながら、ここは何処かなーとか、この建築には絶対行こうとか考える時間はとても楽しい。ただ運ばれるままに窓の外を眺めていると次々に魅力的な建物が現れて驚かされる。中には写真等でよく知っているものもあるが、こんなときに見るその建築は街の中によく溶け込んで気負いのない素のままの姿を見せているような気がする。正確にはその建築を目指して今か今かと歩いているときとは、こちらの心持が違うだけなのだが・・・。ブダペストに着いた夜、ライトアップのオレンジと夜の闇に色を消されたレヒネル・エデンの応用美術館を見かけた。フランスルネサンス風のシルエットを持つその建物は予想に反してとても美しく見えた。写真で見たときは、くどいデザインとクセのある配色に少々疑問を感じたのだが、こうやって見るとなかなか魅力的である。なんだか急に興味が湧いてきた。

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応用美術館は1896年、ハンガリーアール・ヌーヴォーを代表するレヒネル・エデンとパールトシュ・ジュラの共同設計により建てられた。レヒネルのブダペスト公共建築三部作の最初の作品で、マジャールの民族様式と近代建築の融合を目指した野心作である。歴史的様式の全体的なシルエットよりも、ジョルナイタイルの配色や要所要所に描かれる民族的な模様、ドームの釣鐘型や手摺の鶏モチーフ等奇抜なデザインが目立ち、建設当初は「ジプシー王の館」と揶揄されたとか。

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屋根のジョルナイタイルと草花模様

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おどろおどろしい入口のデザイン

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入口のジョルナイタイルの天井。マジャールの伝統的な草花文様が描かれている。

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内部は打って変わって鉄とガラスの近代的空間。外観からは想像できない。真っ白に塗られた内部にも外観とのギャップを感じる。当初はカラフルに彩色されていたが奇抜なデザインが物議を醸し、竣工後まもなく入口付近以外は白く塗りこめられてしまったのだそうだ。

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側廊の多弁形アーチは、ムガール様式。ハンガリー民俗学の父J・フスカに共鳴していたレヒネルの「ハンガリー民族芸術の起源はペルシャ・インドにあり」というフスカの学説へのオマージュと言われている。ムガール様式というのは簡単に言うとインド・イスラーム様式のことである。インドにおけるコロニアル様式とも言える。結局マジャール民族の起源はイスラームにあるのか?マーチャーシュ教会で一つの結論にたどり着いたと思ったら、なんだか堂々巡りだ。

ペルシャ・インドというフスカのこの言葉。地域的な意味合いとしか考えていなかった。今でこそイランの隣はインドではないが、アフガニスタンやパキスタンは昔はペルシャ領(~スタンとはペルシャ語で土地のことを意味している)。漠然とその辺りの地域のことかと思ったいたが、よく考えたらそんな意味であってそんな意味ではない。ペルシャ・インドが指すところは、ピンポイントでティムール朝だったのだ。モンゴル帝国の継承政権の一つで、中央アジアからイランにかけての地域を支配したイスラーム王朝。16世紀初頭にシャイバーン朝に中央アジアが奪われ、王族の一人バーブルがインドに入り打ち立てたのがこの王朝だ。ペルシャとかインドとかの土地をさしているのではなく、このモンゴロイド系の王朝がマジャールの起源だと言っているのだ。世界史に疎い私にはちょっとわかりにくかったかも・・・。

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階段から見上げる天井の様子

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後にレヒネルは地学研究所で天井や柱がぐずぐずと溶けていくような流動的な内部空間を作り出すが、この多弁形アーチがヒントになったのではなかろうか。

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ステンドグラスとバルコニーのうねる手摺。曲線が重なり合う有機的なデザインはレヒネルの真骨頂。

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ここは応用美術館ということで、私には結構楽しかった。実用的なものだから百貨店に来たような感じ?

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中国製のインク壷。キレイ、欲しい・・・。

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ちなみに、この美術館はお金を払えば写真撮影OK。ハンガリーではそれが普通のようだった。

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2008年5月21日 (水)

ルーブル美術館2

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I・Mペイのガラスのピラミッドはドゥノン・リシュリュー両翼の中央にルーブル美術館の入口として建てられた。僅かに外に開いた両翼の散漫になりがちな空間に、その単純な三角立体は見事に求心性を発揮している。このピラミッドがルーブルの入口として登場した意味は大きい。ルーブルは古代から18世紀までの美術を幅広く扱う美術館だ。従来のバロック建築の中に古代の英知を象徴するピラミッドを建てることによりこの美術館の所蔵品を明らかにすると共に、二重の意味で新旧の対比を見せる。一つはまさにその建築としての様式の対比、もう一つはガラスと鉄という近代的素材と古くから使われている石という素材の対比。その特徴の対比の鮮やかさはもとより、それぞれの対比が着目する点により新旧交代するところもおもしろい。また、パリという街から考えても、シャルル・ドゴール・エトワールの凱旋門、コンコルド広場のオベリスク、カルーゼル凱旋門、そしてガラスのピラミッドと一直線に古代の記念碑が並ぶことになり、ナポレオン以来の古代趣味に貢献している。建築当時あれほど物議を醸したペイのピラミッドは都市のコンテクストにもはまり込み、今ではルーブル美術館の顔とも言える存在になっている。

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ガラスのピラミッドの中から外を見る。スタイリッシュな空間。ピラミッドはリシュリューとドゥノン翼を繋ぐ地下空間の天窓ともなっている。

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入口の螺旋階段

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ルーブルに隣接する地下ショッピング・センターの奥にある逆ピラミッド。これもルーブルの入口である。通常のピラミッドは常に長蛇の列だが、ここからなら早く入れる。ルーブルに隣接する地下ショッピング・センターの奥にある。また、カルト・ミュゼ専用の入口もあり、そちらは全く並ぶことなく入館できた。

ところで、ルーブル美術館の正面はガラスのピラミッドが入口だから西側になるわけだが、ルーブル宮としての正面は実は東側になる。このファサードは太陽王ルイ14世の時代に宮殿に相応しいファサードをということで建設されたが、このときにかのイタリアの建築家ベルニーニも招聘されている。国賓級の待遇で下にも置かぬもてなしだったらしいのだが、結果としてはベルニーニの意見は取り上げられることなく何もすることなしにイタリアに帰ってしまった。ベルニーニの残した東側正面案というものは存在しており、美術館の公式サイトで見ることができる。中央に円筒状のものを配置しその両側に緩くカーブを描いた両翼が腕を伸ばすヴァチカンのサンピエトロ寺院の広場を想起するようなデザインとなっている。先にも書いたように実際にはこの案は実現することなく、ペローとル・ヴォーによって現在見ることが出来る東正面が完成された。今では平坦な列柱廊の広がるファサードが見慣れているのでそれがルーブルという気がするが、ベルニーニのうねるようなダイナミックなファサードが採用されていたら、どんな感じだったのだろうか・・・。

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こういうところが結構ルーブルっぽいと思ってしまう。

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ドゥノンとシュリー翼の境にあるダリュの階段。踊り場には「サモトラケのニケ」が展示されている。天窓から降り注ぐ光がスポットライトのように女神を照らす。

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「サモトラケのニケ」今にも飛び立ってしまいそう。

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ミケランジェロの「抵抗する奴隷」と「瀕死の奴隷」が並ぶ。

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アポロン・ギャラリー、最も宮殿らしい豪華な部屋。ルイ15世の王冠やマリー・アントワネットのダイヤモンド、豪華な食器類が展示されている。

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ここの天井のデザインがとても美しかった。

さて、半強制的にルーブルに連れて来られるきっかけとなった問題のモナリザだが、たった数分の逢瀬でくだんの彼をオルセー派からルーブル派に寝返らせた謎の微笑は、私には何の印象も与えなかった。しかし、人間は成長するものではあるし、同じ建築を見ても以前は感じなかったものが感じられるようになることもよくあるから、いつかは私にもわかる日が来るかもしれない。自分の感じ方の変遷を辿れるのも、歳を重ねることの楽しみの一つだと思っている。モナリザについては、そんな日が来るのか来ないのか・・・。今のところ可能性は低そうだ。

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2008年5月18日 (日)

ルーブル美術館1

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オルセーで書いた学生時代の旅行の話の続きになるが、結局あの時オルセーではなくルーブル美術館を選択することとなる(旅程上どちらか一方しか行く時間はなかった)。何故かと言えば、ルーブルなんてと言っていた本人が宗旨替えしたからに他ならない。彼曰く「昨日ルーブルに行って来たんですが、モナリザが凄くよかったんです。正直どうせ大したことないと思ってたんですが、全然そんなことなかった。悪いこと言いませんから、騙されたと思ってルーブルに行って下さい。モナリザを見ずしてパリを離れることなかれ!ですよ!」一字一句違わないとは言わないがほぼこのようなことを訴えられ、半ば強制的に連れて行かれたその時が、私にとって初めてのルーブルとなった。

その頃のルーブルには、まだガラスのピラミッドは造られていなかった。生憎の大雨にぬかるんだ空き地を見ながらガイドさんが「もうすぐここにガラスのピラミッドが出来るんですよ。歴史あるルーブルにそんなものを建てるなんてとパリでは非難の的になっています」と教えてくれた。そのときの私には、それがどういうものなのか全く想像がつかず、またここに来て完成したピラミッドを見ることがあるんだろうか、そのとき自分はどんな感想を持つのだろうかとぼんやりと考えたのを覚えている。

ルーブルの建築としての歴史は、13世紀フィリップ・オーギュストがパリ防衛の為の要塞を築いたことに始まる(要塞の遺構がピラミッド工事で土地を掘り返した折に見つかり、見学可能となっている)。その後16世紀にルネサンスのの王宮に建替えられるが、この頃の王宮は現在のクール・カレのほんの一部に過ぎない。ちなみにこの王宮の改築を命じたのがフランソワ1世で、晩年のレオナルド・ダ・ヴィンチをフランスに招聘したのがこの人である。

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シュリー翼2Fと3Fを繋ぐアンリ2世の階段。アンリ2世とカトリーヌ・メディシスのイニシャルが配されている。このあたりは、16世紀レスコーが改装した為レスコー翼と呼ばれている。ルネサンス様式の非常に美しい階段。

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夜のクール・カレ

17世紀にはルーブルは飛躍的に拡大される。水辺の回廊(グランド・ギャルリー)やクール・カレが完成するのはこの時期で、ルーブルの大きさはこの時期にほぼ確定された。

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グージョン作のカリアティッド。クール・カレ西翼の南側の棟への入口に当時のまま据えられている。

18世紀は建築としての動きは特別なかったようだが、革命後の1793年、共和国政府が「中央美術館」の名前で宮殿の一部を開放する。ルーブル宮が美術館としての第一歩を踏み出した記念すべき年である。19世紀にはナポレオンが各地への遠征で多数の美術品を持ち帰り所蔵品を充実させるとともに、カルーゼル凱旋門建設や北の回廊建設に着手した。そして、ルーブルを世界一の美術館に発展させたのはナポレオンの甥であるナポレオン3世だった。この時代にリシュリュー翼、ドゥノン翼と途中まで伸びていた北の回廊が完成し、東端のクール・カレと西端のチュイルリー宮が結ばれ、1857年すべての市民に公開される美術館としてオープンした。その後、チュイルリー宮がパリ・コミューンの騒乱で喪失し、現在のようなチュイルリー庭園へと開かれた形になった。

そして、20世紀ミッテラン大統領の「グラン・ルーブル計画」がスタート、一部のコレクションをオルセーに移したのもこの計画の一環だ。今やルーブルの名物のようになっているI・M・ペイによるガラスのピラミッドもこのときにコンペにより建設され、ここに現在のルーブル美術館の姿が完成する。

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マルリーの中庭 リシュリュー翼の3つの中庭はこのようなガラス天井の彫刻展示室となっている。ピーター・ライスらの設計による。2度目にルーブルを訪れたときは、ピラミッドは既にあったがこの天井はまだなかったような気がする・・・。ルーブルはいまだ発展中なのだ。今も新しく別館のプロジェクトが進行中で、これは日本のSANAAがコンペに勝ち抜き、2008年竣工、2009年オープンとなっている。SANAAらしい繊細なガラス使いが印象的な美術館になるのだろうか。またパリへ行くことがあれば、是非とも訪ずれてみたいと思う。

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2008年5月11日 (日)

オルセー美術館

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オルセー美術館がオープンしたのは1968年、意外に歴史は浅い。私が初めてパリを訪れたのはその二年後で、一緒に旅をしていた学生の間では『ルーブルなんて大したことないよ。イイモノは殆どオルセーに移っちゃったから。』との噂がまことしやかに流れていた。あのルーブルの膨大なコレクションの何と比べてイイモノと言っていたのかは極めて疑問だが、まあモノを知らなかったということも本当だが、それほど新しい美術館への期待が大きかったのだろう。

それはともかく、この美術館はルーブルとポンピドゥーの間、つまり1848年から20世紀初めキュビズム直前までをカバーする美術館として誕生した。ルーブルからは、ミレー・ドーミエ・コローの一部クール・カレに掛かっていた作品、ジュ・ド・ポームの印象派美術館のすべての作品、パレ・ド・トーキョー旧近代美術館の一部が移されている。先ほどの「イイモノ」というのは、おそらく印象派美術館からの作品群のことをさしていたのだろうと思うが、概してこの時期の美術は一般的に理解しやすいような気はする。ルーブルは古過ぎてポンピドゥーでは斬新過ぎて・・・といったところだろうか。

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ブールデルの「弓を引くヘラクレス」

オルセー美術館に入ってまず驚くのは、巨大なトンネルヴォールトを頂く大空間で、彫刻作品が並ぶ中央コンコースの吹き抜けは圧巻である。この美術館らしからぬ不思議な造りは、もと鉄道駅であったものを転用したからに他ならない。

オルセー駅は1900年パリ万博の開催にあわせて、パリ-オルレアン間を結ぶ鉄道の終着駅兼豪華ホテルとして、建てられた。1900年という時代を反映して鉄骨・ガラス張りのかなりモダンで豪華な駅だったが、自動車や地下鉄の発達と鉄道車両の長大化によりたった30年と短期間で駅としての役割を終えた。その後1986年美術館としてオープンするまで無人の廃墟と化していたらしい。プラットホームの巨大なトンネルヴォールト、妙に高い位置にかかる大時計、それを支えるガラスの壁面等今も建物のあちこちに駅の名残が感じられる。

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かつては鉄道の時を刻んだ大時計。デザインは結構クラシカル。

それにしても、パリの美術館は上手く出来たものだと思う。古代から18世紀までを扱うルーブルは、18世紀まで最もポピュラーだった古典様式の建築(今ではピラミッドまである)、ポンピドゥーは時代の先端を行くような近代建築、そしてオルセーはまさしく自身がカバーしている時代に相応しいアールヌーヴォー建築となっている。オルセーがポンピドゥーより約10年遅れてオープンしていることを考えると、この意味は大きい。その美術館に似合ったものを新しく建てることはいくらでも出来る。しかし、どんなに資金があっても、どんなに時間があっても、どんなに優秀な建築家がいても、古いものは出来ないのである。さすがにパリは懐が深いと、感じ入ってしまうのである。

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コンコース横に設けられた展示室。おそらく3Fにあたるところだったと思う。ドームを支えるペンデンティブの間のスペースにパネルを設けて展示を行う。しかもパネルの所々を抜いて後方のスペースを見せる念の入れよう。

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5Fのカフェ。時計塔の裏にあたる部分を利用している。空間としてはとてもカッコイイが、インテリアのせいかお洒落とは言えない・・・。ただ、軽食もボリュームがあって、結構使えるかと。

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時計の裏面はなんだかかっこいい。

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この時計盤はガラスなので、こんな風に外の風景が見える。これはコンコルド広場の観覧車。

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この時計、実は二つあり、一つはカフェにもう一つはカフェの横の通路にある。この写真では良く分らないが、中央の微妙な光はライトアップされたサクレ・クール寺院だ。

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