城、宮殿

2008年11月 9日 (日)

故宮博物院(紫禁城)

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以前から気になっていた「チーム・バチスタの栄光」がドラマ化された。評判は微妙なところのようだが、私は結構気に入っている。というか毎週見るということが待てなくて、結局本を買って読んでしまった・・・。故宮とチーム・バチスタ、何の関係があるかって、勿論何の関係もないのだが、田口と白鳥の出会いのシーンで白鳥のこんな台詞がある。「根幹とか本質ってウソ臭くて、あまり好きじゃないんですよね。枝葉やディテールの方が断然リアルで魅力的だと思いませんか?」そう、まさにそうなのだ。わたしにとっての故宮はまさしくそんな感じなのだ。

72万㎡の広さを誇る故宮、何でも9000室もの部屋があるそうな。正直なところ、中国の建築にも歴史にも興味のない私には、マトリョーシュカのようにしか思えない。前門とそれと対になる御殿、前門、御殿の繰り返し。行けども行けども同じような建物が延々と続いていく。このただただ広い故宮において私は何を見ればいいのだろうか。紫禁城はこういうものだ・・・というような特徴と言うか、目指したもの、みたいなものがあるのではないかと思うのだが、これがキモだ!みたいなものがわからない。いつもそんなことを思って建築を見ているわけでもないので仕方がないのだが、今回は特に枝葉末節ばかりが気に掛かる。

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太和殿の藻井

午門、内金水橋、太和門を通り太和殿まで辿り着く。外朝の正殿である大和殿は皇帝の戴冠式など重要な儀式が行なわれた場所でもある。薄暗い内部に玉座がおかれているが、天命を受けていないものが座ると、天井にぶら下がっている巨大な鏡が落ちるという伝説が伝えられている。一時期中華皇帝を名乗った袁世凱はこの鏡が落ちてくる夢を見たため、玉座の位置を鏡からずらしたという。

この玉座の少し前の天井に、重ねあわされた正方形の枠の中に円を抱いた意味あり気な装飾が施されている。故宮の豪華な格天井の中でも一際美しく、玉座の前に一つだけ穿たれている。後で調べてみると藻井という中国特有の装飾で、宮殿の玉座や寺院の仏像の上に円形や四角形、八角形等の木枠を何層も重ね、中に龍やハスなどの彫刻を施した天井装飾のことらしい。「らしい」というのは、ネットで調べたところ、飾り格天井という簡単な説明のものや吹き抜け状の装飾天井というものなど色々なものがあり、正確にはどういうものを指すのかよくわからない。「飾り格天井」とするならば、豪華に装飾された格天井全てを指す言葉とも取れる。

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太和門の美しい格天井

実際、上の写真のようなものを藻井と紹介しているものもあった。

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交泰殿の藻井

交泰殿は、3大節(元旦、冬至、皇后の誕生日)に皇后が朝賀を受けたところ。ここの玉座の前の天井にも、精緻な幾何学の木枠を重ねた美しい装飾が施されている。これほど完成度の高い装飾の形式に名前がないはずはないだろう。と言う訳で藻井が中国特有の装飾とする説にひとまずは従おうと思う。

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養心殿の藻井

故宮には3つの藻井があり、養心殿のものが最も凝ったデザインになっている。中国の建築は日本の建築と同じようなものだから(日本が中国文化を取り入れたのだけれど)とあまり興味を持っていなかったのだが、実際に見てみると全く別物のような気がしてきた。藻井の存在は、その下の空間にヒエラルキーを感じさせる。その効果は西洋やイスラーム建築におけるドームの存在とよく似ている。ビザンチン建築やイスラーム建築の中で生まれ育ったドームは、そもそも一神教の表現である。ドームは宗教的な象徴であり、儀式のクライマックスを迎える場所としての役割も果たしている。西洋やイスラームのドームがそうであるように、藻井もそれが穿たれていることにより、その空間に特殊性を与える。その下の空間と他の空間とを区別する。とても一神教的な空間の作り方に見える。比較的似たような気候条件を持ち、同じ木という素材を用い、しかも日本は中国から文化を輸入したという経緯もありながらも、日本は建築的精神性は輸入しなかったように思えた。

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ちなみに養心殿は西太后が同治帝や光緒帝の垂簾聴政を行なった場としても知られている。そう言えば、つい先日光緒帝の頭髪から高濃度の砒素が検出され暗殺説が濃厚となったと報じられていた。光緒帝は中国の近代化を図ろうとした革新的な人物で、そのため伯母の西太后との折り合いが悪く西太后に毒殺されたとの説が実しやかに囁かれていたが、毒殺されたことはこれでほぼ確定のようだ。首謀者が西太后かどうかはまだわかっていない。西太后本人も光緒帝の死んだ翌日に病死したことを考えるともう一つの袁世凱暗殺説の方がありえそうな気はするのだが、いつか真相がわかる日は来るのだろうか。

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故宮においてもう一つ気になったのが、この東屋のような建物。

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木製のドーム。まるで西洋建築を見ているようだ。ドームは矩形の平面から円形を導く訳だが、木製であるゆえに西洋建築でよく見るトロンプやペンデンティブとは異なる解決法のようである。ドーム下の持ち送りの組み物がイスラーム建築のムカルナス(鍾乳飾り)をなんとなく思い出させる。

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故宮を見ていると、イスラーム建築が思い出されてならない。建物の何処を見ても隙間なく精緻な模様が描かれる豪華な建築。誰かが「空間恐怖」という言葉を使っていた。「空間恐怖」というのはイスラーム建築が草花文やアラベスク等の模様で建物を隙間なく埋めて行く様子を西洋人の感覚から表わした言葉である。中国の建築にもこの言葉が当てはまるとは想像していなかった。

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細部まで手の込んだ装飾が施されている。

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窓の空かし模様。考えてみれば、中国でよく見るこの手の透かし模様も、イスラーム建築のマシュラヴィーヤに通じるものがあるような・・・。と言っても別に中国建築とイスラーム建築には何か繋がるものがあると思っているわけではない。ただ、これまで中国建築は日本建築と同じようなものだと思い込んできたものだから、感覚的にはむしろ他の地域の建築の方が近いのではないかと、ちょっと思っただけである。

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ラストエンペラー溥儀が子供時代にブランコをぶら下げてもらった後の金具が残っている。

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中国の建築によくある像。この像の数がその建物の格を表わしているとか。

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皇帝の階段のレリーフ。

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九龍壁

中国で3つあるとされている九龍壁の一つ。皇帝の象徴である龍を最大の陽数とされる9頭描いたもので、瑠璃瓦で作られている。故宮の見所の一つに数えられているが、この九龍壁には何の意味があるのだろうか。単なる権力の象徴なのだろうか。

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珍妃井

1900年の義和団の乱の最中、西太后が逃げる前に光緒帝の最愛の側室だった珍妃を投げ込んで殺したと言われている。いくらなんでも、ここにヒトは入れない・・・。

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映画「ラストエンペラー」で溥儀が自転車で通り抜けた長西街。

故宮を書くならば、外朝と内廷、南面思想(風水の関係だそうだ)に基づいた全体のプラン、そして何よりもその広大さについて書くべきなのではないかと思うのだが、あえて今回は枝葉末節の装飾に拘ってみた。枝葉やディテールの方が断然リアルで魅力的だと思ったから。

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2008年9月30日 (火)

万里の長城

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北京市街から北西へ車で1時間ほど走ると山の嶺を走る巨大な壁が見えてくる。月から見ることができる唯一の地球上の建造物「万里の長城」だ。今回の旅行のメインの目的だったにも関わらず、言うほどの興味もなかった長城なのだが、実際に目にしてみると妙に感動してしまった。いや、感激?感銘?そのときの気持ちについて適当な言葉が見当たらない。ただ、テレビや写真でいくらでも見ることのできるこの時代にあっても、実物を見なければ感じられないものはやはりあるのだ。

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公開されている長城はいくつかあるが、長城初心者の私達が向かったのは最もメジャーな観光地「八達嶺」である。上の写真の上へ伸びている壁が女坂、手前に伸びているのが男坂。女坂はなだらかだが距離が長く、男坂は坂は急だが距離は短いのでどちらも同じくらいの時間で歩ける。女坂のメリットは登りやすい、男坂のメリットは女坂をバックに写真を撮れることと登る人が少ない、女坂は上の方になるともう動けないかもしれないねとガイドさんは言う。

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確かに下から見上げても女坂は観光客の姿で長城の床が見えないくらいだ。人を寄せ付けない孤高の長城というイメージとは程遠い現実の姿。すっかり観光地だとは勿論聞いていたのだけれど・・・。いずれにしても人が多いのは嫌なので、男坂を登ることにした。

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万里の長城を登る前は私は体力はないし上り坂が極端に苦手なので登れるかどうかとても不安だったのだが、実際にはそういった体力面よりも心理的な方が問題だった。長城を登るのは結構怖い。高いところにある割には、手摺が低い。高所恐怖症の人には無理かもしれない。

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万里の長城は一般的には秦の始皇帝がつくらせたものと言われているが、現在北京近郊に残る主要な長城の殆どは明の時代に建造・増築されたものである。モンゴルの征服王朝である元を倒した明は長城の重要性を強く感じていたからだ。長城は始皇帝が作ったとされるのは、初めに始皇帝が建造を命じたからということになろうが、この長城はもとは春秋時代・戦国時代の諸侯国が北方騎馬民族の侵入に備えてつくったものである。始皇帝はその切れ切れの土塁を繋ぎ合わせて、北と西の国境沿いに長い防壁を完成させた。中国において「城」と言う漢字は城壁と城壁に囲まれた都市の両方を意味する。そもそも中国の城塞都市というのは外的から守る為につくられたのではなく、都市と田野を分離するという統治上の理由からつくられたものなのだそうだ。始皇帝は長城を作ることで、世界で唯一文化を持つ中国と「化外の民」である周辺の異民族を分離したのだった。それはつまり中華思想を反映した行政機構をつくったということであり、万里の長城は物理的な防壁であるとともに概念であるのだ。始皇帝は、単に「企画した」というのではなく「概念を作った」人物なのである。

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余談だが、この八達嶺長城から車で5分くらいのところに長城脚下的公社というデザイナーズホテルがあり、森の中に12名の有名な建築家が設計したがヴィラが点在している。吉永さゆりの出演するテレビCMで使われた隈研吾の設計した「竹屋」もこのヴィラの一つである。できれば少しでも見られないかと思い、ガイドさんに交渉して寄ってもらったが、やはり中を見ることはできず外観を見るだけでも120元を要求された。はっきり言って、外観だけなら断らなくても第二期工事中の竹屋がそこに見えてるんだけど・・・?なんとなく納得いかないフロントの対応に首を傾げつつも、こっそり工事中の竹屋の外観を見て帰った私だった。

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2008年8月31日 (日)

ドレクスレル宮殿(カフェ ドレクスレル)

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オペラ座へ行こうと思ってアンドラーシ通りを歩いていたところ、オペラ座の向かい側くらいのところで改装工事中の建物に出くわした。随分綺麗なエントランスだなぁと思い、つい工事中のロープを超えて見学してしまった(すみません)。アンドラーシ通りは由緒正しそうな立派な建物の多い通りではあるが、この改装中の建物は古典的なアーチやヴォールト、繊細な装飾と一際目を引くものだった。これが何なのかはわからないが、なんだかとても得した気分になった。

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旅行から戻って1年も過ぎた頃ブダペスト紀行の本を読んでいて、古いモノクロの小さな写真にふと目が行った。それはかつてそこがカフェだった頃の写真で、上品そうな紳士達が連続する美しいアーチとお洒落なライトの下で談笑したり新聞を読んだりしているのだった。なんか見たことある・・・。これは、あの改装中だった建物じゃないか?自分の撮った写真と見比べたところやはり間違いない。場所もオペラ座の前とあっている。そうなのか、あの瀟洒なエントランスはかつてカフェとして使われたものだったのか・・・。

実はこの建物、レヒネル・エデン若かりし頃の作品なのだそうだ。レヒネルが独自のスタイルを確立する10年ほど前とのことなので、三十代半ばの頃だろうか。アール・ヌーヴォーが花開く前のハンガリーではまずドイツで建築を学ぶのが通常であり、そのため首都ブダペストの建築も折衷主義・様式主義的なものであった。レヒネルもブダペストの工業高校卒業後ベルリン建築アカデミーに留学している。この作品は未だアカデミーの影響から逸脱しない、19世紀的折衷主義の中にある。レヒネルと言えば応用美術館や郵便貯金局しか知らない私には、レヒネルにもこういう時代があったのだということがとても意外であると同時に、これはこれで美しく魅力的だけど・・・と思ったりもするのだった。

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ヴォールトの中心にあるライト吊り下げ部分(1番上の写真参照)の装飾に、僅かにレヒネルらしさが感じられる。

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ファサード中央のバルコニー。ファサード表面はやはりタイルで覆われている。

ちなみに、かつてはカフェがあり、近年には国立バレエ学校として使われてきたこの建築は、今度は5ッ星ホテルに生まれ変わるのだそうだ。また、ブダペストを訪れることがあれば、泊まってみたいものである。

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2008年7月13日 (日)

漁夫の砦

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ブダペスト、王宮の丘の上に御伽噺にでてくるような白い七つの塔を持つ回廊がある。「漁夫の砦」という変わった名前の由来は、中世にドナウの漁師組合がここを守っていたからといわれているが、勿論このネオ・ロマネスクの建物が砦として使われていたわけではない。建国千年祭に向けての市外美化計画の一環として1903年に造られたもので、設計はマーチャーシュ教会を手掛けたフリジェシュ・シュレクが担当している(ちなみにハンガリーは日本と同様に姓・名の順番になる)。

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とんがり帽子のような形はアジアからやってきたマジャール人の遊牧民のテントを、7つの塔はマジャールの7つの部族を表わしている。これはハンガリー人の祖といわれるアールパードがカルパチア山脈の東から他の6人の部族長達を率いてこの地にやってきたという言い伝えからきている。

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写真右側の十字架を頂く回廊は、マーチャーシュ教会の裏手にあたる。漁夫の砦の回廊はこの部分だけデザインが変わるのだが、教会の改修も手掛けたフリジェシュだから、おそらく教会の存在を意識してのことなのだろう。

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漁夫の砦の前にはハンガリー初代国王聖イシュトヴァーンの騎馬像がある。この聖イシュトヴァーンは現在のハンガリーの生みの親と目されている。彼がキリスト教を国教としたことにより、アジアから来たマジャール人の国であるハンガリーはカトリックの国として西洋文化圏の仲間入りを果たしたからである。

余談ながら、イシュトヴァーンはシュテファンのハンガリー語読みなのだそうだ。子供の頃に好きだったファンタジーの登場人物がイシュトヴァーンという名前で、それ以来RPGの主人公につける名前はいつもイシュトだった私としては、随分とイメージが違って少なからずショックを受けてしまった。

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ここが漁夫の砦の入口。漁夫の砦は1Fは無料だが、2Fは有料となっている。ただ鎖がはってあるだけなので、人がいない朝や夜は無料で入れてしまうのだった。

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漁夫の砦は展望台になっている。くさり橋や聖イシュトヴァーン大聖堂、国会議事堂などドナウ川とペスト側の素晴らしい眺望が広がる。こちらは1F。柱越しに見垣間見える風景も風情があっていい感じ。

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こちらは2F、少し上がるだけで雰囲気も随分違う。

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7つの塔の中で最も大きなもの、アールパードの部族ということかしら。

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漁夫の砦は20世紀になってできたものだが、こんな風に見ると中世に迷い込んだような気分になる。

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夕暮れ時の砦。美しい黄昏の空に塔のシルエットが浮かぶ。

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1Fは夏にはカフェが開かれる。

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2007年10月 3日 (水)

セビーリャ・アルカサル

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私が美術館めぐりを始めたわけについては以前書いたことがあるが、セビーリャのアルカサルはそもそも建築めぐりをはじめたきっかけになった建物だ。15年ほど前に会社を辞めて1ヵ月半ほどヨーロッパを旅行した。フランス、ドイツ、ギリシャ、イタリア、スイスをまわり最後の目的地になったのがスペイン。残りの日にちもわずかとなりあまり遠くには行けないが、バルセロナ・マドリッド以外にもう一箇所1日だけどこかに行ける・・・どこに行こうと思ってガイドブックを見たときにふと目に留まったのがセビーリャ。言葉の響きがなんかエキゾチックで素敵。今ならマドリッドからAVEで2時間半だが、当時はそんなものはない。バルセロナから夜行で入り、その日の夜にまた夜行でマドリッドへ移動するというヘヴィな日程で出かけた。その時に出会ったのがこのアルカサル。パリのノートルダムやノルマンディのモン・サン・ミシェル、ケルンのドムもヴァチカンのサン・ピエトロ寺院もバルセロナのサグラダ・ファミリア、スイスのマッターホルンも(これに感動していたら、このブログは自然遺産めぐりになっていたはず)、これがそうかーという程度の印象しか持たなかった私だが、このアルカサルに入ったと同時に建築めぐりという新しい趣味に足を踏み入れることとなった。

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アルカサルの最初の印象は、これって何だろう?だった。今まで経験したことのない異質な空間に足を踏み入れたと感じる。西洋とも日本とも違う何か別の言葉でこの建築は作られている

と直感的に思った。建築を全く知らなかったにしては正しい表現だと今にして思う。ムデハル様式で建てられたこの城は、古典主義やキリスト教中世建築とは異なる建築言語を持っている。ムデハル様式というのはレコンキスタ後のイスラーム文化がキリスト教化したものを言う。(ちなみに逆のキリスト教文化がイスラーム化したものをモサラベ様式と言う)。セビーリャのアルカサルは14世紀中頃ドン・ペドロというイスラームナイズされたキリスト教王が、イスラーム教徒を集めて建てさせたイスラーム風の建物なのだ。一説にはアルハンブラ宮殿の建設に携わった職人を集めて造らせたと言われているが、一方でアルハンブラの職人は二度と同じような宮殿が建てられないように全員殺されたとの説もあり、本当のところはわからない。私個人は後者の話はイスラーム世界に恐れを抱いていた西欧が後に捏造した話ではないかと疑っている。それはともかく、アルハンブラを模倣したと思われる箇所がところどころ存在するので、意識して建てられたことは確かだろうと思う。

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イスラームの建築にはドアがないのが普通で、部屋と部屋の間はアーチ状にくり抜かれた壁で仕切られる。この写真ではわからないが、このアーチの奥に次のアーチ、さらにその奥に次のアーチと続いていく。幾重にも連続するアーチは、まるで限りがないかのように感じられる。そして訪れる者を奥へ奥へと建物の体内へ取り込んで行くのである。

一般的に西洋の古典主義建築は柱の建築、中世キリスト教建築は壁の建築と言われている。そういう言い方をするならば。イスラーム建築はアーチの建築と言ってもいいだろう。柱も壁も空間を分断する。その分断のリズムが美を作り出す。一方アーチは空間を連続させる、重層と言ってもいい。空間を分断する列柱は、ある一つの方向を指し示し、視線を一点に誘う。そこには明快さや構築の透明性を感じる。しかしながら、空間を重層させるアーチが感じさせるのはもっと曖昧で感覚的なものだ。空間の連続の奥には闇があり、さらなる奥行きを感じさせる。終点がわからない、鏡に映る扉の中を潜り抜けているような錯覚さえ覚える。確固たる何かがあるのではなく漠然とした存在感、そんな曖昧さを私たち西洋建築を見慣れた者はエキゾチックと感じるのかもしれない。

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アーチ状の窓も美しい。下方に見えるのはムカルナスという鍾乳装飾。

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アップにするとこんな感じ。この精緻な装飾は本当にスゴイ。

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アルカサルの一番の見所は、真っ白な漆喰レリーフで飾られた乙女のパティオだろう。これがキリスト教建築の回廊ならば、柱のリズムミカルな配列やその柱頭彫刻の見事さを讃えるところだが、イスラームのパティオではやはり主役はアーチなのだ。ほっそりした二本の柱が支えるアーチには真っ白な漆喰に繊細な浅彫り彫刻を施されたパネルが乗っている。イスラーム建築では偶像崇拝が禁じられているため、幾何学模様や草花文様が否がおうにも発達する。その技術の粋たるや、筆舌に尽くしがたい。その軽やかさ、たおやかさはこれが建築と言う重くて硬いものであることを忘れそうなくらいだ。

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多弁形アーチも時代を下るとより繊細なデザインに。

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内部の着色された装飾も美しい。3つの馬蹄形アーチが思ったよりほっそりとしているのが少し意外だった。

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幾何学模様のドームはイスラームならでは。

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腰壁のファイアンス・モザイク・タイル

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同じく腰壁のタイル。こちらはラスター彩。いろいろなタイルの装飾を見るのもイスラーム建築の楽しみのひとつ。

セビーリャのアルカサルは、グラナダのアルハンブラやコルドバのメスキータに比較すると、規模としても歴史的価値としても劣るかもしれない。それでもスペインに行くなら、この城は外さないで欲しいのだ。グラナダもコルドバも建築的には滅亡してしまった王朝の文化を抱いている街だ。しかしながら、セビーリャは違う。イスラームの文化を取り込みつつもレコンキスタを完了させスペインの黄金時代を迎えようとしている一つの時代のムードを今も残している。スペイン建築はイスラームの介入により、他のヨーロッパ建築とは一線を画していると言われているが、セビーリャのアルカサルはキリスト教文化の中にイスラーム文化を融合させた。イスラームがイスラームとして存在するのではなく。その融合こそがスペイン建築の歴史をさらに魅力的なものにしていると思う。

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