教会・神殿

2013年1月18日 (金)

シント・ニコラース教会と薔薇の名前

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最初に断わっておくが、アムステルダムのシント・ニコラース教会とウンベルト・エーコの小説「薔薇の名前」はもちろん何の関係もない。まずは普通にこの教会の話から・・・。

アムステルダム中央駅東南、ヘンドリック河岸に面してたつシント・ニコラース教会。船乗りの守護聖人聖ニコラースはアムステルダムの守護聖人である。12月5日の「聖ニコラースの日」はオランダではクリスマスに並ぶ大事なお祭りの日なのだそうだ。

1887年A.C.ブライスの手により完成されたシント・ニコラース教会は、カトリックの教会であるにも関わらずネオバロックとネオ・ルネサンスの折衷様式でつくられている。。1815年にカトリックの礼拝が認められて以来、カイペルスの建築に代表されるように19世紀オランダのカトリック教会はゴシックが最も適した様式とされていた。このシント・ニコラース教会はかなり珍しい例と言える。バロック様式の双塔やドームは堂々としており、この建物に落ち着いた威厳を与えている。その一方、大きすぎるバラ窓は中世キリスト教建築のようでもあり、ラテン十字のプランも古典様式にしてはほっそりしすぎているようにも見える。これが北方の古典なのだろうか。イタリアの古典建築とは少々趣が異なる。

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シント・ニコラース教会の内部はカトリックだからか、アムステルダムの教会の中ではかなり豪華で見ごたえのあるものとなっている。写真NGなのが残念だ。

内部は三廊式のラテン十字プラン。トランセプトの張り出しはごく僅かである。トンネルヴォールトの格天井が落ち着いた色合いで美しい。水平に走るリブはぶつ切りにされたエンタブラチュアに落ち、下のピラスターへと繋がって行く。ルネサンス建築には珍しく装飾と構造の一体感が生まれている。

この教会で最も目を引くのは、交差部にかかるドームである。金の装飾が施された華やかなペンデンティブから目暗アーチが二重に張り巡らされ、その暗い帯の上で青いステンドグラスが煌めいている。それは、思いがけなく見つけた空のようでもあり、シュジェの求めた神の光のようでもある。外から見たところ石造のドームにしか見えなかったのだから、その驚きは猶更である。一体どうなっているのだろうと外観を再度確認してみると、内部と外部ではドームの高さが異なることに気が付いた。つまり二重殻ドームだということである。

外殻のドームはドラムが異常に長い。この長いドラムの中に内殻ドームが隠されており、ドラム上部のクリアストーリーとドームのドーマー窓からふんだんに光が注ぎ込まれるようになっている。これがキラキラ輝くステンドグラスの理由である。二重殻ドームというと一般的にはドームの高さやスパンに対する強度をあげるための解決策として使用される例が多い。サンタ・マリア・デル・フィオーレ(フィレンツェ大聖堂)はその最初の例だろうし、時が過ぎるとロンドンのセント・ポール大聖堂やパリのパンテオンのように三重殻のものも出てくる。しかし、このようなトリッキーな効果を出しているドームは少ないのではないだろうか。

この輝くドームの仕組みがオリジナルからあったのかどうかはよくわからない。1999年に復元がなされているので、その時点で施されたものかもしれない。身廊の柱の装飾もモダンな(建築的でなく一般的な意味の)印象を受けるので、完全に忠実な復元というわけではなかったのだろうと思うが…。

■内部の写真は下記URLで

http://www.nicolaas-parochie.nl/index.php?menu=2&page=9

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ところで、この教会は先にも書いたようにカトリックのものなので聖母マリア像が置かれているのだが、このマリア様、手には可憐な薔薇のつぼみを持っていらっしゃる。

マリア様と言えば純潔の象徴ユリが定番と思っていたので調べてみると、薔薇もマリア様の象徴だということだった。なんでもアヴェ・マリアの祈りに使う「ロザリオ」はラテン語の「ロサーリウム(薔薇の園)」から来ているのだそうだ。ウンベルト・エーコの小説「薔薇の名前」のタイトルは、聖母マリア様を暗示していたのだと納得。

映画では登場人物の女性のことと明かされているが、小説では薔薇に対する言及は二度ほどしかなく、何故このようなタイトルがついているかよくわからないと思った日本人は私だけではないはず。西欧文化の中にいれば理解していて当然のことなので本文で触れられていなかったのだ。確かに聖と俗の二面性を兼ね備えた聖母マリアは小説のテーマにしっくりくる。元来無実のはずの登場人物の女性が魔女として裁かれてしまうのも、聖母マリアの息子の運命を暗示しているようでさらに納得。異なる文化の小説を読むのは本当に難しい・・・。

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2011年12月31日 (土)

旅行前・旅行後、楽しいのはどっち?(アムステルダム 新教会)

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アムステルダム中央駅から賑やかなダムラック通りを南へ下がるとダム広場に出る。広場の西側にはルネサンス様式の王宮が威容を誇り、中央では様々なパフォーマーが観光客を楽しませている。この広場の西北側に今回私達に大きな衝撃を与えることになった新教会がある。

新教会は名前に反して歴史は古く、15世紀の半ば頃にはほぼ完成していたようである。ユトレヒトの司教がアムステルダムに二つ目の教区教会を許可したのが1408年(そのため以前からあったものを旧教会、後にできたものを新教会と呼び分けている)。この頃はアムステルダムの繁栄が始まった時期にあたり、豊富な資金がこの教会建設を可能にしたと想像される。この教会では代々、王(女王)の戴冠式が行なわれており、現在のベアトリクス女王もここで即位している。2002年には皇太子の結婚式が行なわれ、この教会の格式の高さが伺える。しかし、実際に入ってみると想像していた教会とは程遠いものだった。

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新教会の内部はかなり雑然としていた。ウェディングドレスと思しきものがごちゃごちゃと展示されている。通常舞台裏に隠されているような台なども側廊に放置されていおり、美術館の展示準備中に足を踏み入れてしまったとうな感じだった。そんな状態だったから建築自体あまりよく見ることができず、雰囲気もよくない。しかも、そんな状態でありながら入場料は10ユーロとかなり高い。他の国で10ユーロ払えば、どれほどの質と量の美術品を見られるかということを考えるとこれは驚くべき金額だ。

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ガイドブックをよく読んで見ると、この新教会はイベント会場として使用されているらしく、イベント開催時だけ入場でき、金額も催しによって異なるとのことだった。また、今回高価だった(内容に対して)入場料もミュージアム・イヤーリーカルトというパスを持っていれば無料か割り引きを受けられたようだ。やはり、ガイドブックをちゃんと読んでそれなにりに計画をたてないとダメだなぁと反省する。

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毎回思うことではあるが、私も連れも旅の準備をすることが苦手だ。荷造りといった物理的な準備もそうだが、何処に行こうか何をしようかと計画を練ることも嫌いだ。その時間が一番楽しい時じゃないの?と人に問われ、そういうものかしらとふと考えた。

実は私は結構旅行前になると、マリッジブルーならぬトラベルブルーに陥ることが多い。本当にその行き先でよかったのか、家でぬくぬくしていた方がよかったんじゃないかとなんだか憂鬱な気持ちになってくる。エアの予約を取ってしまうまであんなに楽しみだったのに、この変わりようはナンなのか?自分でも不思議である。

沢木耕太郎が「旅の力」という本で、旅の準備は永遠の引き算をしているようだったと書いている。それは長く過酷になるであろう旅の持ち物の準備についての言葉ではあるが、なににつけ準備をするということは「永遠の引き算」なのではないだろうか。

私が準備が嫌いなのは生来の怠惰な性格故であることも確かだが、この「引き算」をすることが嫌なんじゃないかとも思う。エアを予約してしまうまで、私には色々な可能性があった。パリのパサージュでカフェオレを飲んでいる私も、クロアチアの国立公園でトレッキングをしている私も、ブダペストで温泉につかりながらチェスをしている私も、色んな私があり得た。その「沢山の可能性を持っている私」という状態が楽しいのである。だから、その中から一つに限定してしまった時点で憂鬱な気分が襲ってくる。あそこの方が良かったのでは、家でぬくぬくしていた方が幸せなのでは・・・と不安になってくる。

旅行の計画をきちんと立てるのが嫌いなことも、理由は同じだ。時間は限られているから、どこかに行けばどこかには行けなくなる。計画を立てることは、行けない所をどんどん引き算して行く過程でもある。

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こんな風に書くと物凄くマイナス思考に見えるが、こんな私も旅立ってしまえば結局楽しい。実は帰ってきてからも楽しい。旅行中に見たことや感じた疑問について、自分なりに調べて知識を増やして行くことは非常に楽しい。そういうことならもっとこういう所も見ておけば良かったと思うことも多々あるが、またいつか行ってみようと次のモチベーションへ繋がるので問題ない。そうやって次の旅行が決まるまで、いつまでもふわふわと旅をしている気分でいられる。だから私について言うならば、旅行前より旅行後の方が断然楽しい。

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さて、今年もいよいよ終わり。年末になって毎年思う。何故こんなに使ってないものがあるんだろう。昨年も断捨離したはずなのに。生活をして行くことにあまり沢山のものは必要ないとわかっているのに何故かどんどん増えていく。「引き算」が苦手な影響は日々の生活にも顕著に現れる。来年こそは断捨離元年になりますように・・・。

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2011年3月22日 (火)

サンタ・キアーラ教会クラリッセ キオストロ

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イスラーム建築好きはニアイコールでタイル好きと思っていいと思うが、私も多分に漏れない。ナポリにタイルをふんだんに使用したキオストロ(回廊)があると知って、是非とも見てみたくなった。お目当ての教会があるのはスパッカ・ナポリと呼ばれる旧市街。ドゥオモからジェズ・ヌオーヴォ教会まで東西に伸びるこの地域には、ナポリで見ておくべき美しい教会が集中して建ち並ぶ。朝から沢山の観光客で賑わい、土産物屋や食べ物を扱う店も多い。何かと楽しいナポリの下町である。件のキオストロは、この地域の西端に建つサンタ・キアーラ教会クラリッセ(クララ女子修道会)にあるらしい。

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サンタ・キアーラ教会は14世紀アンジュー家の依頼により建てられたものだ。18世紀に豪華なバロック様式に改装されたこともあったらしいが、20世紀の戦火の中で全て消失し、現在はバシリカ式プランの簡素な教会となっている。クラリッセのキオストロへは教会を一旦出て向かって左奥の建物から入る。イタリアらしいフレスコ画で飾られたゴシック式のキオストロは14世紀レオナルド・デ・ヴィートが設計したものだろうか。かなりの損傷が見られるが、それでもやはり美しい。中庭を囲むアーチの基壇部分はマジョリカタイルが張られている。

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アーチ下のタイル

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フレスコ画で覆われたキオストロの壁。イタリアのゴシック様式は本場フランス・イギリスのゴシックに比べ、穏やかでふくよかだ。

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キオストロに囲まれた中庭は、18世紀ドメニコ・アントニオ・ヴァカッロの手によるもの。マジョリカタイルの装飾は、ジュセッペ・マッサとドナート・マッサが担当した。優しいベビーブルーが印象的な中庭の装飾は、イベリア半島のマジョリカ・タイルとはかなり趣が異なることに驚かされた。これらのタイルはイタリアン・マジョリカと呼ばれ、スペインのマジョリカタイル(スパニッシュ・マジョリカ)とは区別されているのだそうだ。

マジョリカタイルはイスラーム支配下のスペイン、マラガが発祥の地である。イスラーム教徒のイベリア半島進出とともに、彼らのモスクを飾るタイルも海を渡ってきたのだ。マジョリカの名前は、産地のマラガがなまったものとも輸出するタイルがマヨルカ島のパルマを経由するためとも言われているが、私はマヨルカ島から来たものだからマヨルカ(マジョリカのスペイン語読み)と呼ぶ後者の説の方が自然な気がする。因みに、パルマを経由する理由は通行税をかけるためだそうだ。ともかく、もともとイスラーム文化から発展してきたマジョリカタイルは幾つかの変遷を経て、スパニッシュ・マジョリカへと発展して行く。詳細は省くが、最初は一つ一つのピースごとに造るモザイクタイル、二番目にタイルの表面に凹凸をつけて色が混じり合わないように工夫したクエンカタイルやクエルダ・セカと呼ばれるもの、そして3番目にタイルに直接手書きで絵を書くスパニッシュ・マジョリカである。タイルの種類が全てスパニッシュ・タイルに変わったという訳ではなく、用途によっては他の種類のタイルも使われるが手書きタイルが主流になったという理解でいいかと思っている。また、マジョリカタイルと言って一般的に想像されるのは、スパニッシュ・タイルよりもクエルダ・セカの方である。アルハンブラ宮殿に多用されているからかもしれない。

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イタリア人はこのマヨルカ島から輸入されるスペインのタイルに自国の技術を織り込んで、名高いイタリアン・マジョリカを作り上げた。この二つのマジョリカの細かい違いは私にはわからないが、一目でわかる大きな特徴は使用する色数の違いである。スパニッシュ・タイルが緑・暗褐色・淡黄色の3色程度しか使われないのに対して、イタリアン・マジョリカでは濃黄色や藍色等多様な色味が追加されている。そのためスペインの歴史的なタイル建築を見慣れた目には、このサンタ・キアーラ教会クラリッセのキオストロのタイルは、とても明るく軽やかで新鮮だ。南イタリアの風土によく馴染んでいる感じがする。

最後にこのキオストロには隣接する博物館があり、発掘されたローマ時代の浴場跡や教会の歴史に関する展示品等なかなか興味深い。時間にゆとりを持って訪れることをお勧めする。

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2011年1月19日 (水)

マルティーナ・フランカの教会

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バロックの町マルティーナ・フランカ。狭い路地のあちこちから壮麗なバロックの教会が顔を覗かせている様子を見るとこの町が18世紀に栄えたのだろうということが想像できるが、その繁栄の土台は14世紀フィリップ・ダンジューが打ち出した都市建設の政策にあったのだという。宿屋や食料品店、公共のかまど等町での生活に必要な設備を整え、長期の借用権や信用貸しの繰り延べ、他地域で犯した罪の免除等寛大な条件により住民を増やした。最も有名なものが税金の免除でこれは町の名前の由来にもなっている。マルティーナ・フランカのフランカはイタリア語でFREEという意味で、「TAX FREEのマルティーナ」ということなのだそうだ。因みに、3世紀後セルヴァ(現在のアルベロベッロ)のジイロラモも免税以外のこの政策を試み、町の人口増加に成功している。

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ところで、マルティーナ・フランカとアルベロベッロの間でこんな話が残されている。アルベロベッロのトルッリが当時のセルヴァの領主ジイロラモの脱税行為の産物であったことはよく知られているが、この脱税行為を周囲の領主は当然快く思っていなかった。1644年マルティーナ・フランカの公爵フランチェスコ1世はこの行為をスペイン裁判所に訴え出た。このときはジイロラモがスペイン王の税査定官が到着する前に建物を壊すことができたため事なきを得たが、5年後スペイン王フィリップ4世に裁判所への出頭を命じられ、遂に罪に問われることとなる。彼はしばらくスペインに拘留された後友人の助けにより許されたが、その帰途バルセロナにて客死、再度プーリアの地を踏むことはなかったということだ。マルティーナ・フランカの公爵にしてみれば自領地の民を免税にしつつもきちんと税を納めていたのだからはらわたの煮えくり返るような思いだったのだろう。ただ、セルヴァの脱税に関する政策はジイロラモの死後も後継者に引き継がれたので、マルティーナ側が溜飲を下げられたのはほんの一時のことだったかもしれない。とはいえ、18世紀には天才建築家ベルニーニに宮殿を建てさせるほどの繁栄を見せることになったのだから、最終的には正直者がバカを見るというようなことにはならなかったと言えるだろう。今は静かなプーリアの町にも色々な物語があって面白い。

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バロックの教会は柱頭のデザインも凝っている。

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プレビシート広場にあるサン・マルティーノ教会

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サン・マルティーノ教会扉上の彫刻。同じ南イタリアのバロックでもレッチェのようにファサードを彫刻で覆い尽くすようなことはしないようだ。

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西の端にあるカルミネ教会のドーム。6角形の格間が美しい。この教会横の公園は見晴台になっており、遠くにロコロトンドが望める。

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2010年10月24日 (日)

オルヴィエートのドゥオモ

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これまで旅行した国の中でどこが一番好きかと問われればおそらくイタリアと答えるだろう。そんな自分がゴシック建築好きであることは随分な矛盾だと思う。西欧諸国の中でゴシックにこれほど冷淡な国はギリシャとイタリアくらいではないだろうか(そして私はギリシャも大好きだ)。ギリシャもイタリアも古典建築の本場だから仕方がない。大体ゴシックという言葉自体がルネサンス期に「ゴート風」と呼ばれたことに由来する蔑称だったのである。とは言っても、何でもあるのがイタリアの良いところで、このオルヴィエートのドゥオモはそんなイタリアにおいて建てられたゴシックの大聖堂なのだ。イギリスの美術史家ニコウラウス・ペヴスナーはイタリアンゴシックの中でシエナのドゥオモに並び最も美しいファサードと紹介している。

オルヴィエートのドゥオモは、13世紀末から3世紀に渡って建てられ、延べ33人の建築家、152人の彫刻家、68人の画家、92人のモザイク師が携わったと言う。最も中心となった建築家は1300年の初めに指揮を執ったシエナの建築家兼彫刻家のロレンツォ・マイターニで、そのためかこのドゥオモはシエナのドゥオモによく似ている。

ファサードは、豪華な金のモザイクと薄肉彫りの施された4本の大きな柱、繊細な装飾が美しい3枚のブロンズの扉で構成されている。特に金のモザイクは扉横のねじれ柱にも施されており、異国情緒を醸し出す。3枚の扉上は、両端の小さなものは尖塔アーチだが、正面の最も立派なタンパンは半円アーチで囲まれる。ゴシックにビザンチンやロマネスクの要素が決して控えめにではなく入り混じっている。建築は長きに渡って建てられるため色々な様式が重ねて組み込まれることは普通にあるが、このドゥオモのファサードのように完成度高く交じり合っているものは少ないのではないだろうか。

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イタリアのゴシックの薔薇窓は、ステンドグラスではなくトレーサリーが主役。周囲を囲む彫刻の装飾も見所。

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正面扉上の半円アーチと破風のモザイク。

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エブラズマンのデザイン

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ファサードの柱はエブラズマンからの流れでデザインされている。ねじれ柱の中に精緻な彫刻やモザイクが施されている。

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柱のレリーフには聖書のシーンが施されている。

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内部は残念ながら撮影禁止。バシリカ式プランの三廊式。身廊、側廊とも木の小屋組み天井がそのまま見える。ゴシックらしいリブヴォールト天井は祭壇とその前の部分のみ、身廊と側廊を隔てる大アーチは半円アーチでアーチを支える柱の柱頭はアカンサスや動物の頭部の彫刻で飾られている。側廊の壁はシエナと同様に白と黒の大理石を交互に水平に重ねている。この仕上げはトスカーナ地方の伝統的なものに根ざしたものではないかと思う。祭壇部や聖ブリッツィオ礼拝堂のフレスコ画も素晴らしく、見所は多い。

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2010年8月 9日 (月)

ベルタワー(ミコノス)

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ミコノスとサントリーニでは同じキクラデス諸島であってもベルタワーの扱いや装飾に違いが見られる。ミコノスのベルタワーはサントリーニとは異なりファサードの中央に取り付けられる。これは土着性の強いミコノスとビザンチンを受け入れたサントリーにとの教会の形の違いに起因すると言われている。

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ミコノスではサントリーニのようなホーンは見られず、脚部には石で作った節目状の装飾が見られる。

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節目の数は教会によって異なり、一つから3つくらいのものがある。

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上部は丸いアーチ状のものや切妻状で頂部を平らにしたもの等様々。

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教会の大きさと節目の数に因果関係はないようである。

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基壇を持つもの。

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横に並列しているものもある。ミコノスではサントリーニのように上へ重層していくベルタワーは造られない。

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パラポルティアニ教会のベルタワー。頂部に十字架の折れた跡が見える。もとはシンメトリーなベルタワーだったものを下部のファサードの壁面に繋げるために石で継ぎ足したかのような形をしている。というよりも壁に埋め込まれていたものを掘り起こしたようと言ったほうがよいのか。この教会どうしてこのような形なのか本当に不思議。

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2010年8月 5日 (木)

ベルタワー(サントリーニ)

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教会には鐘楼がつきものだが、ギリシャ正教にとっても鐘は重要な役割を果たす。儀礼の度に鳴らされる鐘の音は人々にギリシャ正教徒であることを確認させ、コミュニティの結束力を高めてきたという。私達外国人観光客がベルタワーのある風景をエーゲ海の象徴的なものと感じることもあながち間違いではないようだ。

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あくまで日本語においてであるが、ヨーロッパの多くの教会の鐘を持つ建物を「鐘楼」と呼ぶのに対して、キクラデス諸島のそれは「ベルタワー」と呼ばざるをえない。「楼」という言葉が相応しいものも中にはあるが、多くのものがそう呼ぶには軽やか過ぎる。-イメロヴィグリ-

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ベルタワーの大きさは教会の大きさに比例し、鐘が重層されていく。この教会はイアの町の中程にあり、かなり大きな教会だった。この裏にバスターミナルがあるので観光客には目印にもなっている。-イア-

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ミコノスではヴァナキュラーなものが多いせいなのかベルタワーは正面にあるものが多いが、サントリーニでは位置に対する拘りは感じられない。-イメロヴィグリ スカロス先端-

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サントリーニのベルタワーの装飾には一定のスタイルがあるように見える。タワーの脚部は基本的には角型だが下部が二重の場合は中央の脚は円柱になる。角型の脚には中央に窪みのあるものが多く、凹部が着色されることもある。-イア-

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ドームとベルタワーの大きさや位置のバランスは様々で興味深い。海を背景に白いベルタワーと青いドームの教会の姿がよく絵葉書や土産物に描かれていたりするが、よく似ているがこのイアの教会ではない。残念ながらここからは海が背景にはならない。ちなみにその教会はフィロステファニにあるらしい。-イア-

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サントリーニのベルタワーは上部にホーンと呼ばれる装飾が造られる。形が牛の角に似ているためそのように呼ばれているらしい。-イア-

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サントリーニにはビザンチンのドームをモチーフとした立体的なものも多い。-イア-

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広い陸屋根の上にビザンチンのドームとベルタワーがポツンと乗っている、少し不思議。-フィロステファニ-

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立体的なベルタワー。ドームもホーンも乗っていない。-フィラ-

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シンプルなベルタワーを持つものには個人教会が多い。-イア-

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脚部に石が張られている珍しいタイプ。この前日この教会の屋根でモデル撮影が行なわれていた。モデルさんはベルタワーの真横で長い間立っていたが怖くないんだろうか。かなり高いところにあるのだけれど。-イア-

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珍しいピンクの教会-イア-

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このタイプのものはホーンがなければミコノスと変わらない。-イア-

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陸屋根に乗っているのは珍しい。-イア-

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2010年7月 6日 (火)

ミコノスの教会

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二度目のミコノス島は飛行機で到着した。旅の連れが窓の外を見て「可愛い!」と声を上げる。何かと思えばミコノス特有のトンネルヴォールトを持つ小さな教会が島のあちこちに建っているのが見えた。「可愛いけど、異常に多過ぎない?」と素朴な疑問を口にする。そういえば、昔私もそう思ったなと思い出した。

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政府観光局のHPによるとミコノス島は僅かに85k㎡。その小さな島に300以上の教会があるという。見渡したところ視界に教会が入らない場所がない、というか視界の中に幾つも教会が入っていると言う感じだ。少し調べてみたところ、ミコノスには大きく3つの種類の教会があり、一つはファミリーの礼拝堂、二つ目は司祭のいる教区教会、三つ目は神々に捧げられた教会、なのだそうだ。多すぎると思ったのは、各家族ごとに教会があるからで、ミコノスには現在265のファミリーがあるというから当然の結果だった。

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このような蒲鉾型の屋根の教会がミコノスにはたくさんある。

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家族の礼拝堂にはイコンや蝋燭台が置かれ、祖先の骨が床や壁に埋められている。収容しきれなくなると上の写真のように新しい礼拝堂が増設される。墓地のような意味合いがあるため、、血縁者を引き寄せる役割を果たしている。家族所有の礼拝堂なので勿論管理はその家族が行なう。300強の教会に265の家族なので、ミコノスの教会の殆どがこの家族の礼拝堂に該当する。

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トンネルヴォールトが二つ並ぶ。

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ミコノスで最も有名なパラポルティアニ教会。昔、要塞の裏門(パラポルティ)のあったところに建てられたためこの名で呼ばれているらしい。だからこんな海ギリギリの町の外れにあるのかと妙に納得。意外なことに、この教会も家族の礼拝堂なのだそうだ。非常に有機的なフォルムが特徴的で、5つの礼拝堂が集合したものとのこと。ル・コルビュジェのロンシャン教会堂はこの教会に影響を受けたと言われている。

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パラポルティアニ教会の裏はミコノスの教会の典型的な形をしている。

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これも家族の礼拝堂。基壇の上に建てられており階段で上がるようになっているところを見ると、比較的新しいものなのだろうか。街中の古いものは床の高さが道路よりも低い場合が多い。

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教区教会というのがどれのことだったのか、全くわからない。メインストリート沿いにあるヴォールト屋根の規模の大きい教会とのことだが、ミコノスはどこも道が狭くてどこがメインストリートなのだか・・・。上の教会など少し大きくて広い通りに面していたような?教区教会では、先礼式・結婚式・葬式といった通過儀礼や日曜のミサが行なわれるのだそうだ。

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港のすぐそばにあるアギオス・ニコラス。ギリシャ正教とともにギリシャ神話の神々が生きていると言われるミコノス、この教会で祭られているのは船乗りの神様セント・ニコラス、ギリシャ神話で言えば海神ポセイドンだそうだ。屋根の色もミコノスには珍しく青色(サントリーニ島のイメージでエーゲ海の島の教会は青い屋根と思われがちだが、ミコノスは赤が普通)。もとはミコノスらしいトンネルヴォールトの教会だったが、1932年の港の整備の折に交差ヴォールトの上にドームが乗る現在の形に建て直された。あまりにも海の近くにあるその立地に驚くが、当初は海上に建っていたらしい。

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ドームの天井には星が描かれている。船から見る空と同じ?

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こちらも交差ヴォールトの上にドームの教会。

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レストランの多いヴェネティア地区の教会。中心式プランで可愛い。

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ドームを上から見る。

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2010年5月24日 (月)

聖バルバラ大聖堂

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クトナーホラのバルバラ大聖堂はとてもインパクトの強い外観をしている。ゴシックの大聖堂と言えば多かれ少なかれ外観はパターン化されているものだが、この大聖堂はあまりそれに当てはまっていない。何と言っても塔らしい塔を持っていないのがユニークだ。ヴィオレ・ル・デュクが推奨する7塔どころかフランスのようなファサードの双塔もなく、イギリスのような光塔もない。その代わりにテントのようにツンと尖がった屋根が3つ並んでいる。その黒褐色の屋根の周囲をフライングバットレスがぐるりと囲んでいる様子はかなり壮観だ。

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バルバラ大聖堂はホール型教会堂で翼廊が省略されている。そのため西正面以外の三方を途切れることなくフライングバットレスが囲む。さらに塔がないためフライングバットレスのの高さが強調されることになり、他のゴシックではあまり見ることのない独特のスタイルを作り出している。

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薔薇窓も彫刻もない淡白なファサード。サイドのフライングバットレスも剥き出しの素朴なデザイン。

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この大聖堂の建設は1388年から始まった。当初のプランはヴィート大聖堂やカレル橋の設計で有名なペトル・パルレーシュのもので、その後息子のヤン・パルレーシュが引き継いだ。ひとまずの完成を見たのは1558年、完成までには幾人もの著名な建築家が携わったという。

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内部で特に目を引くのは凝った作りのヴォールトである。大輪の花が咲いているかのような華やかなヴォールトはプラハ城のヴラスチラフホールによく似ている。後で調べてみると同じ建築家の手によるもので、ベネディクト・リートというドイツ人だそうだ。ぺヴスナーの建築辞典では「建築家兼ヴォールト技術者」と紹介されている。

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ヴォールトの花弁の中には紋章や人物が描かれているが、現在はところどころに残っているだけでかなりの部分は消えてしまっている。目を凝らして見てみたが、あまりのリブの複雑さに力の流れを追うことができなかった。一本の柱からは、中央の花芯に向かって交差するように2本、隣の両柱に向かって2本、その間を埋めるように斜めの角度にさらに2本づつ、計8本のリブが伸びている。普通ゴシックのリブヴォールトと言えば支柱からスラリと伸びる姿が見えるものだが、この大聖堂ではその立ち上がり部分が非常にコンパクトに押さえてある。また、立ち上がり部分は網の目状になっており、リブの作る影が薄い布を何層にも重ねたような錯覚を生む。まるで支柱が支えているのは重い石の天井ではなく、天幕をはっただけであるかのような浮遊感が生まれる。そういえばブラスチラフホールのヴォールトもふわっとした軽さがあった。リートという人のヴォールト仮構はなんだか不思議だ。

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クトナーホラの大聖堂はなかなか広く、他にも見所は沢山ある。プラハからも比較的近いので、是非とも訪れておきたいところである。

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2009年1月15日 (木)

ティーン教会

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旧市街広場はプラハ観光の中心とも言える場所。その広場の東側に特徴のある二つの尖塔を持つゴシックの教会が見える。ティーン教会である。正式名称はティーン(税関)の前の聖母マリア教会という。教会の裏に税関があったからだそうだ。この教会を思い出すときいつも尖塔しか思い出せず、確かゴシックだったなーと思うのだ。別に私の物覚えが悪い訳ではない(と思う)。教会のファサードを遮ってカフェやレストランが建っているのだから仕方がない。初めて雑誌を見たときファサードを隠して閉まっているこの建物郡を見て残念に思った。当時ティーン教会は反カトリック系であるフス派穏健派(プロテスタントのさきがけ)の拠点であった。ビーラーホラの戦いの敗北により、この教会もカトリック教会に変えられることになり、それに抵抗したフス派穏健派の人達が中に入れないように教会の前に建物を建てて塞いでしまったとのことだった。そんなことができるのかと驚いたが、実際にあるのだからやってしまったのだろう。この今はカフェやレストランになっている辺りの土地までが教会の持ち物だったため可能となった所業だったようだが、30年戦争の発端となった窓外放り投げ事件と言い、プラハには不思議なエピソードが多くなんだか興味深かった。特にイタリア大好きな私はヨーロッパの歴史をいつもカトリック側から見ていたため、反カトリック側から見た歴史を意識したのは初めてのことだった。

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ティーン教会はそういう訳だから、何処から入るのか知らなければわかりくい。前を塞ぐ店舗群の真ん中に妙に人の出入りの激しいところがあり、そこがこの協会の入り口となっている。どう見てもレストランに入って行くようにしか見えないが、入り口アーチをくぐり進んでいくと教会の入口扉に辿り着く。前の建物と教会の距離が近いのでやはりファサードの様子はあまり見えない。教会の中は最近まで改装中で入れなかったらしいが、私の行った年末はもう見学可能となっていた。中は外観からの予想に違い、バロックで装飾されている、内装を改装したのはいつの頃なのだろう。フス派穏健派の人々の抵抗を考えると、なんだかとても残念な気持ちになった(以前も書いたが、バロックはカトリックの表現なのだ)。

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こうやって見ると、まだまだロマネスクのどっしり感を残しているティーン教会。この素朴な外観の内に、豪華なバロックの装飾が隠れているとはとても思えない。私としては、未熟だったかもしれないがこの外観から想像されるような素朴なロマネスクとゴシックの過渡期の状態の内部空間であった方が美しかったのではないかと思ってしまうのだ。

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ティーン教会の印象的な尖塔。私の中のプラハのイメージは、まさしくこの尖塔に代表される。

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