サッカーのワールドカップフランス大会以来日本でも有名になったサン・ドニは、パリ郊外といっても地下鉄で行ける便利なところにある。ここにゴシックの誕生と爛熟を同時に体験することができるサン・ドニ大修道院付属教会堂、現大聖堂が聳えている。
伝えるところでは、二人の仲間とともにパリに伝道に来たサン・ドニは現在のモンマルトルの丘で斬首されたが、そのまま自分の首を持って歩き続け、5キロほど離れたところで力尽き殉教した。その首が置かれたところに建てられたのが、サン・ドニ修道院なのだそうだ。それ以来この修道院はサン・ドニと二人の聖人の聖遺物を納める修道院として巡礼の地となり、また代々のフランス王家の菩提寺として、特殊な地位を占めることとなる。因みに、このサン・ドニはパリの初代司教とされている。
西正面扉口のタンパン。静的な表現がゴシックらしい。
以前の老朽化した修道院と聖堂の建替えに着手したのは、当時の修道院長のシュジェ(シュジェール、スゲリウスとも表記)という人物だった。シュジェは極貧の生まれながらサン・ドニの修道院長となり、政治的にもルイ7世の摂政を務めるなど類い稀な能力の持ち主であったらしい。彼は幼い頃より、荒廃著しいこの修道院を王室修道院に相応しいものに立て直したいと考えていたと言う。修道院長になったシュジェは、1137年にまず西正面の改修に着手した。このファサードではまだゴシック的要素は薄く、薔薇窓が採用されて一つのデザイン的方向性が示された程度に留まる。その後、後陣を含む内陣の工事に着手し、1144年に完成。この年を持ってゴシックが誕生したと言われている。
何故にこの年がゴシック誕生のときとされているのかという問いは、ゴシックとは何かという問いに繋がる訳だが、フライング・バットレス、尖頭アーチ、リブヴォールトが総合的に使用されていることとされることが多い。この考え方は19世紀の構造的解釈によっているが、この時点のサン・ドニではまだ実現されていない。尖頭アーチをもってゴシックの誕生とする説もあるが、そうであればサン・ドニよりも遡ることになる(尖頭アーチと言えばゴシックの専売特許のように言われているが、ロマネスク建築の中にも僅かながら使用例が見られる)。また、線状要素こそゴシックの本質とする考えもあるが、それは確かに一つの特徴ではあるが最終的な目的ではないだろうと思われる。重い壁体を細いシャフトやリブで覆い隠す装飾は、石の持つ重量感を消失させると同時に木の幹から枝が伸びやかに広がる様を想起させる。ゴシック建築がよく石の森と例えられるのは、まさにこの上昇志向を体現するシャフトとそこから分岐するリブヴォールトの繊細な広がりによるのだ。ただ、この特徴はイギリスにおいてより顕著に発展する。エクセターのスラリと何本にも伸びるリブ、バースやグロスター大聖堂などで見られる天井を覆いつくすファン・ヴォールトは、まさしく木々の繁茂する様子を写し取っているように見え(って、実物は見たことないけど)、かつて破壊していった森林の姿をその木々の囁きを、石の教会堂の中に創造したと思われるのだ。先程線状要素は最終的な目的ではないと書いたが、ことイギリスにおいてはゴシックの発展と共に求める本質に変化があったのかもしれない。
話を元に戻そう。フランス、このサン・ドニ内陣でも無骨ながら森を想像させるような変化はあったが、それはむしろ大きな開口部を持つために技術的に採用されたものだった。シュジェが求めたのはその大きな開口部がもたらす光の空間、天への扉であると同時に地上での神の家を体現するものであったのだ。この光の空間を持ってしてゴシックの誕生とされている。

身廊部のステンドグラス
先にも書いたようにシュジェが求めたのは光の空間である。それも無色透明な硝子からくる光ではなく、多彩な色ガラスを通過した宝石の如く煌く光である。シュジェは光というかその光輝性に執着したが、その理由は偽ディオニュシオスの位階論に求めることができる。それによると、神と人間の魂との間(最高に純粋な精神世界と最低レベルに物質的な世界との間)には位階が存在している(二分論は存在しない)。神より注ぎ込まれた照明の段階(アナロギア)のみが存在し、その到達の段階(位階)に応じて、神の姿に似たものとなっていくのだという。最高の英知、父なる神は『光の父』であり、キリストはその父を世界に掲示した『最初の放射』とされる。サン・ドニにはディオニュシオスが記した偽書の翻訳版が古くから伝えられており、シュジェはこれに強い影響を受けていたと考えられる。シュジェは「愚鈍な心は物質的なものを通して真理に昇る「と碑文に残しているが、この根拠も偽書に求められる。神と人間の魂との間は二分法ではなく照明の段階であるということなので、その段階が最も低いものであっても何らかの神の照明は受けているのである。そして、位階を上がって行くためには、さらに上の光の導き、神の英知である『真の光』を映し出すところの物質的な光の導きを必要とする。つまり、「人の心は物質的なものの手引きによってのみ物質的でないところのものに上昇しうる」というのである。シュジェは、同時代の聖ベルナールとは異なり愚かな者の中に世俗の者のみならず自分や修道士達も含めて考えていたようであり、かくして偽書はシュジェの煌びやかなものを求めることへの免罪符となるのである。
北の薔薇窓
聖ベルナールはシトー派の修道院クレルヴォーの修道院長だった人で、よくシュジェと比較される。二人は最大のライバルであると同時に終生の友人でもあったようだ。禁欲・清貧・服従を旨とするシトー会の中で指導的立場にあった聖ベルナールは、シトー会の精神をそのまま反映したすべての虚飾を削ぎ落としたストイックな建築様式を生み出している。その代表的なものにはプロヴァンスの三姉妹と呼ばれるル・トロネ、セナンク、シルヴァカーヌやフォントネー等があり、近代の建築家にも影響を与えている。聖ベルナールにとって修道院とは、禁欲の場・祈りの場・神と人が対峙する場所であって、地上における神の家を体現するものではないのである。聖ベルナールは、建築や芸術の物質的な光輝さ壮麗さは修道の妨げになると考えておりクリュニー修道会を激しく非難していた。仲間の修道院長に宛てた書簡において、サン・ドニを『ヴァルカンのアトリエ、サタンのシナゴーグ』と強く非難したことは有名な話である。もっとも、シュジェは内面的純粋さだけではなく外面的な光輝性によっても神に仕えるべきとして姿勢を変えず、サン・ドニはパノフスキー曰く「サタンのシナゴーグであることをやめたとはしても、以前にも増してヴァルカンのアトリエとなっていった」のであった。シトー会は祈りの場として精神的な建築空間を求めたが、クリュニー会は建築を祈りの対象そのものと考えていた。クリュニーの生んだゴシックの様式は(磯崎新が著書『神の似姿』でゴシックの章のタイトルとしたように)、『示現の装い』なのである。
北袖廊と後陣部
13世紀ピエール・ド・モントルイユの手による内陣。
政治活動でも多忙だったシュジェは、身廊部の工事までは着手できなかった。この美しい身廊は13世紀の名匠ピエール・ド・モントルイユよる爛熟期のゴシックである。トリフォリウムは暗い帯ではなくステンドグラスに変えられている。
フライングバットレス
マリーアントワネットとルイ16世の記念碑。墓は地下にあり、黒い大理石の簡素な銘盤が置いてあるだけである。

代々のフランス王家の墓なので、このように豪華なものも多い。サン・ドニは修道院ということだけではなく、フランス王室の菩提寺として世俗的な側面も持つため、聖ベルナールも自分の求める精神性に程遠いサン・ドニの装飾性についてある程度許容せざるを得なかったようである。
ゴシックというと、初めての国際的建築様式であることもあり、生みの親であるシュジェの豪華好みと名誉欲の強さもあり、実際権威を競うかのように高く尊大な建築が陸続と建てられたという後の経緯もあり、権威の象徴として豪華に飾り立てられたというイメージが強いが、シュジェが主張したように、光という物質による愚鈍な心の導きや外的光輝性による神への奉仕という志も本当だったのだろうと私は思っている(免罪符になっているとか書いたけど)。壮麗さに憧れたのも本当、それが神への奉仕に繋がると考えたのも本当。そんな風に思いながら、サン・ドニの内陣で天から降ってくる光に包まれていると、それはただの太陽光なのではなくてもっと意味の深い光に取り巻かれているような気がした。
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