ティーン教会

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旧市街広場はプラハ観光の中心とも言える場所。その広場の東側に特徴のある二つの尖塔を持つゴシックの教会が見える。ティーン教会である。正式名称はティーン(税関)の前の聖母マリア教会という。教会の裏に税関があったからだそうだ。この教会を思い出すときいつも尖塔しか思い出せず、確かゴシックだったなーと思うのだ。別に私の物覚えが悪い訳ではない(と思う)。教会のファサードを遮ってカフェやレストランが建っているのだから仕方がない。初めて雑誌を見たときファサードを隠して閉まっているこの建物郡を見て残念に思った。当時ティーン教会は反カトリック系であるフス派穏健派(プロテスタントのさきがけ)の拠点であった。ビーラーホラの戦いの敗北により、この教会もカトリック教会に変えられることになり、それに抵抗したフス派穏健派の人達が中に入れないように教会の前に建物を建てて塞いでしまったとのことだった。そんなことができるのかと驚いたが、実際にあるのだからやってしまったのだろう。この今はカフェやレストランになっている辺りの土地までが教会の持ち物だったため可能となった所業だったようだが、30年戦争の発端となった窓外放り投げ事件と言い、プラハには不思議なエピソードが多くなんだか興味深かった。特にイタリア大好きな私はヨーロッパの歴史をいつもカトリック側から見ていたため、反カトリック側から見た歴史を意識したのは初めてのことだった。

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ティーン教会はそういう訳だから、何処から入るのか知らなければわかりくい。前を塞ぐ店舗群の真ん中に妙に人の出入りの激しいところがあり、そこがこの協会の入り口となっている。どう見てもレストランに入って行くようにしか見えないが、入り口アーチをくぐり進んでいくと教会の入口扉に辿り着く。前の建物と教会の距離が近いのでやはりファサードの様子はあまり見えない。教会の中は最近まで改装中で入れなかったらしいが、私の行った年末はもう見学可能となっていた。中は外観からの予想に違い、バロックで装飾されている、内装を改装したのはいつの頃なのだろう。フス派穏健派の人々の抵抗を考えると、なんだかとても残念な気持ちになった(以前も書いたが、バロックはカトリックの表現なのだ)。

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こうやって見ると、まだまだロマネスクのどっしり感を残しているティーン教会。この素朴な外観の内に、豪華なバロックの装飾が隠れているとはとても思えない。私としては、未熟だったかもしれないがこの外観から想像されるような素朴なロマネスクとゴシックの過渡期の状態の内部空間であった方が美しかったのではないかと思ってしまうのだ。

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ティーン教会の印象的な尖塔。私の中のプラハのイメージは、まさしくこの尖塔に代表される。

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マーチャーシュ教会

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漁夫の砦のすぐ後ろにカラフルなタイル葺きの屋根が印象的なネオゴシックの教会が建っている。名をマーチャーシュ教会というこの建築は、ロマネスク、ゴシック、バロックと幾度かの改修を重ね姿を変えているらしいのだが、世界遺産の割には情報が少なく、しかも見るものによって記述に差があり、何が本当のことなのかわからなくなってしまった。私なりに調べた結果そうであろうと思うところを書くと、この教会の起源は聖イシュトヴァーンが建てさせた聖母マリア聖堂に求められ、13世紀ベーラ4世によりロマネスク様式に改修、その後ゴシックへとさらなる改修が行われ、15世紀にはマーチャーシュ王が今日も見ることができる立派なゴシック様式の塔を増築した。それ以降この教会はマーチャーシュ教会と呼ばれるようになる。マーチャーシュ王の死後まもなくハンガリーはオスマントルコに占領され、この教会もモスクとして150年の間使用された。その当時は、キリスト教の聖人像や絵はすべて排除され、アラベスク文様が壁一面に描かれたという。そして、ハプスブルク家がトルコからハンガリーを奪回した折にバロック様式に改修され、フランツ・ヨーゼフとエリザベートのハンガリー王・王妃としての戴冠式が行われた。これが1867年のこと。その後1874年からフリジェシュ・シュレクによる改築工事が行われ、全面的にネオ・ゴシック様式に改修された。タイル葺きの屋根もこのときにかけらたものである。

一般的には、この教会はベーラ4世が建てさせたものを始まりとすることが多いようだ。ベーラ4世が建て替えた以前の建物については、言及するには及ばないという見解なのだろうか。また、このベーラ4世がゴシックに改修したとする説もある。13世紀という時期を考えるとロマネスクというよりはゴシックに改修する方が(そしてイシュトヴァーンが建てさせたとされる11世紀の教会がロマネスクだったという可能性も)自然な気もするのだが、何分情報が少なくてよくわからない。

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ロマネスクの重量感が色濃く残るファサード。背の高い向かって右側の塔は15世紀ハンガリー王室の黄金期を築いたマーチャーシュ王が建てさせたものである。マーチャーシュ王は14歳のときにここで戴冠式を挙げ、生涯で二度の結婚についてもこの教会で式を挙げている。しかし、この教会ほどファサードの影が薄い建築も珍しい。ジョルナイタイルの屋根があまりに有名なせいだろうか。

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教会の横にはマーチャーシュ教会と漁夫の砦の模型が置いてある。教会の全体像を把握して中に入ろう。

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中への入口は西正面ではなく、南側にある。上の写真はその入口の上部のタンパンで、西正面よりもゴシックらしい装飾。

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いかにも中世ゴシック的な入口から中へ入ると、思いがけない異質な空間に驚かされた。押さえた色調のフレスコ画が壁や天井を一面に覆い尽くしている。キリスト教の教会なので人物も多数描かれておりそれは非常に美しいのだが、この空間を支配しているのは寧ろ、柱やリブを覆い尽くす幾何学模様や草花紋の存在である。中世ゴシック教会はよく石の森に例えられるが、森の持つひそやかな囁きのようなものはこの教会には感じられない。感じるのは音もなく伸びてゆく草花のしなやかさ、そして土の香り。西欧の深遠な森ではなく、アジアの広大な平原を想わせる。トルコの支配を経験したハンガリーなのでイスラームの影響がこのよう形で表れるのかとそのときは思った。趣が少し違って見えるが、それはイスラームと西洋の文化が混じりあった結果なのだろうと・・・。

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調べてみたところ、これらのフレスコ画は19世紀末、高名なロマン主義の画家セーケイ・ベルタランとロッツ・カーロイによって描かれた。ロマン主義は古典主義の対概念とされる18世紀末から19世紀頃の精神運動である。好まれる主題の中に「はるかなるもの」というものがあり、これは特に自分達の精神的故郷、古代文化をさしている。一方この頃ハンガリーでも盛んだったアールヌーヴォーは、原マジャール的な民芸、伝統的なモチーフを取り入れ民族回帰に結びついた独自の様式を作りだしていた。フスカという人がトランシルバニアに残るフォークアートを収集・研究し多くの芸術家に影響を与えたというが、そのフスカが残した多数のモチーフの絵を見ているとこの教会の柱やリブの模様と繋がるものが感じられる。私がイスラームの影響だと思ったものは、実はハンガリーの民族的なものだったのだ。オーストリアからの事実上の独立に湧くこの時期を体現する装飾。中途半端な知識でものを判断してはいけないのである・・・。

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ちなみにセーケイとロッツはオペラ座の内装にも携わっており、歴史に残る偉大な「マスター」と称されているらしい。ロッツ・カーロイは他にも国会議事堂やブダペストの東駅のフレスコ画も描いている。

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ステンドグラスも独特

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説教壇も独特

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キリスト像の置かれた小礼拝堂

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後陣と中央祭壇

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ヴォールトに描かれたフレスコ画。中央についている人物像がかわいらしい。

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再び外へ。マーチャーシュ王が建てさせた豪華なゴシックの塔。フリジェシュがこの教会をネオゴシックで建替えたのは(一つには時代性なのだろうが)、もしかするとハンガリーの黄金期の姿に戻したかったからではないだろうか。力強く高く聳える塔を見ているとなんとなくそんな気がした。

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サント・ジュヌビエーヴ聖堂(パンテオン)

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パリには何度か来ているのに一度も訪れたことのなかったサント・ジュヌヴィエーヴ聖堂(一般にはパンテオンとして知られている)。リュクサンブール公園前の三叉路から両側にカフェの並ぶスフロ通りに入ると、突き当たりに壮麗なポーティコとと高いドームが印象的な新古典主義の建物が見える。ローマのサン・ピエトロ寺院へのアプローチを小さくしたような感じだ。

サント・ジュヌヴィエーヴ聖堂はルイ15世の病気の回復を記念して復興された。設計を担当したのはスフロ。長さ110m、幅83m、ギリシャ十字形プランがそのまま外部に現れ、ギリシャの純粋性とローマの壮麗さを併せ持つといわれている。フランス新古典主義の傑作とされている建築だ。

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ドームは直径25m、高さ115m。イギリスのセント・ポール大聖堂(クリストファー・レンによる)を模範として建てられたが、構造的にはパリのアンヴァリッドのドームに倣っている。しかしながら、新古典主義の建築にありがちなこのドームのデザインは、ローマにあるブラマンテのテンピエットにまで遡ることができる。これはサン・ピエトロ・イン・モートーリオ聖堂にある小神殿で、ルネサンス建築の頂点と言われおり、後に造られた古典主義のドームに多大な影響を与えた。

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聖堂内に展示されている断面図。このドームは1780年スフロがなくなった後数学者ロンドレに引き継がれ完成された。薄肉構造の三重殻ドームで、初めて静力学と材料力学が適用された例と言われている。

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ドームの見上げ

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ドームの下の様子。ドームを支える4本のピアのうちの一つ。

スフロはサント・ジュヌヴィエーヴ聖堂の設計にあたり、ローマの壮麗さとゴシックの構造的軽快さの結合を目指したという。当初の案では8本の円柱だけでドームを支える予定だったが、これはアカデミーの反対により4本のピアに変更され、それでも尚1778年にひび割れが生じたため柱を厚くせざるを得なくなった。この改造は材料と構造の知識に定評のあったロンドレが担当している。何となくバベルの塔を思い起こすような話であるが、ボーヴェの大聖堂然り、より薄く、より高くと求めて行くならばこのようなことも起こリ得るだろう。ガイドブックにおいて、ギリシャ・ゴシック様式の神殿と紹介されているこの建物だが、現在この聖堂を見てもゴシック的な要素は殆ど感じられない。

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ギリシャ十字の腕の部分にも浅いドームが掛かっている。

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ドームの模様と呼応するような床のデザインも美しい。

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フーコーの振り子。何故これがあるのかわからない。

サント・ジュヌヴィエーヴ聖堂は1755年着工、1791年に完成された。聖ジュヌヴィエーヴに捧げる教会堂だったが、大革命後の国民議会において国民的偉人を祀る記念堂とすることに決定し、それ以来「パンテオン」の名で知られるようになった。そもそもパンテオンとはギリシャ語で「すべての神々」という意味なのだそうだ。古代ギリシャは多神教なので、ゼウス神殿やアポロン神殿等個々の神を祀る神殿と全ての神に捧げる神殿があり、後者の神殿をパンテオンと呼んだらしい。それがルネサンス期のキリスト教世界に導入され、キリスト教は一神教であったため転じて偉人達を祀る記念堂とされるようになった。いかにも、ギリシャ好みのルネサンス人らしい話で、なんだか微笑ましい。

このパンテオンには、ビクトル・ユゴーやキュリー婦人、アレクサンドル・デュマ、ルソー等が眠っている。そして、勿論この聖堂を手掛けたスフロも・・・。

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ルーアン・ノートルダム大聖堂

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フランス、ノルマンディ地方ルーアンのノートルダム大聖堂。モネが光の移り変わる様を描いた実験的な一連の絵画で知られており、夏の夜にはモネの色彩を大聖堂の上に再現する光のショーなるものまで行われる。何故モネがこの大聖堂を題材に選んだのかは知らないが、刻々と移り行く光の姿を捉えようとし、その瞬間の光を(作品を)描き続ける行為は、ゴシックが光の聖堂であり、変容し続ける「生成の聖堂」であることを思うとある種ゴシック的と言えるかもしれない。

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この冬の旅行が期せずしてフランスになってしまい、気分はすっかりイタリアだったのでどこに行きたいとも思うことなくフランスのガイドブックをパラパラとめくっていてふと目に留まったのがこの薔薇窓とその周辺の彫刻郡。何とも骨骨しい・・・。勿論そんな日本語はないのだが、そう形容したくなる程の見事なガイコツぶり。そういえば、フランスのゴシックってこういうのだよねと思い出し、何となく今回の旅は「ゴシックのルーツを求めて」がテーマになってしまった。

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内部は四層式に見えるのだが、二層目のそれは、トリビューンのように見えて実はトリビューンではない。側廊で天井を見上げるとトリフォリウムの高さまで天井がないことがわかる。何故このようなつくりになっているのだろうか。

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光塔はアングロ・ノルマンゴシックの特徴。

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交差廊から後陣をのぞむ。

ルーアン大聖堂も正式名称はノ-トル・ダム大聖堂という。Notre-Dameとは英語で言えばOur Ladyのことであり、私達のご夫人、つまり聖母マリア様のことを意味している。パリ、シャルトル、ランスにアミアン・・・ノートル・ダムの名を冠する大聖堂は非常に多い。ゴシックの大聖堂が建てられたこの時期、何故聖母マリアに捧げるものが多く造られたのか。この問いには、今2作目が話題の映画「ナルニア」の第一章「ライオンと魔女」が答えてくれる。

「ナルニア国物語」は全7巻、「ライオンと魔女」はその1作目にあたる作品で、愛する女性のその息子に聞かせるために書いた作品だと作者C・Sルイスの伝記的映画で見た気がする(もうあまり覚えていない)。初めから7作という構想があったのではなく、1作目が大ヒットしたためにシリーズ化されたと言われており、「指輪物語」「ゲド戦記」と並ぶ三大ファンタジーに数えられている。私にとっても子供の頃に最も好きだった本であり、自分の行動規範をこの本から学んだ部分も少なからずあるように思う。

イギリスのみならず世界的に大好評を博したナルニア国物語だが、その一方でキリスト教のプロパガンダという謗りを受けることもしばしばあったようである。子供の頃は全くわからなかったが、大人になって改めてこの映画を見てみると、キリスト教以外の何者でもない世界観がそこにあった。子供の頃に感じた違和感は、まさにこのキリスト教の世界観が日本古来の価値観や道徳観に合わなかったために生じたものだったようだ。

さて、第一作「ライオンと魔女」のあらすじはというと、イギリスに住む4人の子供達が人間の言葉を話す不思議な動物達の暮らすナルニアという国に偶然迷い込むことから始まる。そこは冷酷な白い魔女の治めるクリスマスの来ない永遠の冬に閉ざされた国で、子供達は偉大な力を持つライオンのアスランや動物達と共に戦い、白い魔女からナルニアを開放するという物語である。物語の事細かな部分は取り上げる必要はないが、このあらすじの意味するところは、白い魔女=地母神に支配されていた恐怖と無知に満ちた世界を、偉大なライオン=イエスがうち滅ぼし世界に春をもたらしたと読み取れるのである。白い魔女は、女性であること、ナルニアを冬に閉じ込めるということから自然との強い繋がりが感じられること。「クリスマスの来ない冬」つまりキリストの生誕を祝わない環境であること。これらのキーワードから、未だキリスト教化されず地母神を信仰していた時代に対するキリスト教の勝利の時期、つまりゴシックの黎明期ととることができるのである。(子供達が4人と福音書の著者の数と同じなのも単なる偶然ではないだろう。)

ゴシック大聖堂が建てられはじめた12~13世紀の北フランスは、農業改革が進む中、農村で余剰となった労働力が森林を伐採し開墾したり、農村を離れて都市集落へと移動し他の職業についたりといったことが顕著にあらわれた時代だった。都市集落は、地縁・血縁で繋がった農村とは違い、様々な場所から集まった異なる職業、異なる風習を持つ人々の集まりであったため、人々はそれまでにない不安を抱えることになった。そんな中その不安を解消する為に新たな共生の原理が必要になったのは必然的な成り行きだったと思われる。様々な地域から集まった元農民達はそれぞれの土地に伝わる地母神を信仰していた。そこで母性を備えた新たな共通の信仰の対象として聖母マリアが選ばれたのである。母性と結びつくことにより、自然との繋がりを保持しようと努めたのであった。実際キリスト教の教えや記念日には自然に深く関わるものが多い。キリストや聖母マリアの復活憚は自然の冬から春に向けての再生そのものであるし、日照時間が逆転する冬至の日(当時の暦で12月25日)は昔から異教で重要な祝い事の日とされていたが異教撲滅の為キリストの誕生日とされた。ケルト信仰で最重要視された新年の11月1日の次に再生のはっきりと現れる日として5月1日が重要視されたが、「聖アンナによる聖母の無原罪懐胎」の祝日はその翌日に設定されている。

ナルニア国物語の中で地母神に打ち勝つのは聖母マリアではなくイエス(=アスラン)であるところが実際とは異なるが、聖母マリアはキリストの母であり絶対的な神ではない(神はイエス)ので、神学者であるC・Sルイスとしてはここで聖母マリアを持ち出すわけにはいかなかったのであろう。

ともあれ、そのような訳でゴシック期には聖母マリアに捧げるノートルダム大聖堂が多く建てられることとなったのである。ちなみに私はキリスト教徒でもなければ、キリスト教に共感したからナルニア国物語が好きだったわけでは決してない。

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ジャンヌ・ダルク教会

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ルーアンの旧市場広場は、ジャンヌ・ダルクが魔女として断罪され火刑に処せられた場所である。その広場に彼女を偲ぶ教会が建てられている。名前はジャンヌ・ダルク教会、設計者不明、竣工日不明、現代建築なのでそう古くはないのだろうけれど・・・。

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旧市場広場、左の1番大きな屋根がジャンヌ・ダルク教会。右の小さな漣は市場の屋根だ。市場が先にあって、市場にあわせるように教会が出来たと聞いたように思う。ちなみにこの屋根は海のイメージなのだそうだ。

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集中式プランの内部は広々としてすっきりした空間。目のように見えた細長い開口部(1番上の写真)は中から見ると魚が2匹泳いでいるように見える。

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この教会の1番の見所はサン・ヴァンサン教会から移された16世紀のステンドグラス。

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壁一面がステンドグラスに覆われている様は圧巻。16世紀と古いものなのにとてもスタイリッシュ。

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この教会のもう一つの見所はこの天井。まるで船底を見ているようだが、この地の造船技術を活かして造ったものだそうだ。

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ステンドグラスとの接合点

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ジャンヌ・ダルクの像

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ろうそく立ても現代的

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サン・ドニ大修道院付属教会堂

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サッカーのワールドカップフランス大会以来日本でも有名になったサン・ドニは、パリ郊外といっても地下鉄で行ける便利なところにある。ここにゴシックの誕生と爛熟を同時に体験することができるサン・ドニ大修道院付属教会堂、現大聖堂が聳えている。

伝えるところでは、二人の仲間とともにパリに伝道に来たサン・ドニは現在のモンマルトルの丘で斬首されたが、そのまま自分の首を持って歩き続け、5キロほど離れたところで力尽き殉教した。その首が置かれたところに建てられたのが、サン・ドニ修道院なのだそうだ。それ以来この修道院はサン・ドニと二人の聖人の聖遺物を納める修道院として巡礼の地となり、また代々のフランス王家の菩提寺として、特殊な地位を占めることとなる。因みに、このサン・ドニはパリの初代司教とされている。

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西正面扉口のタンパン。静的な表現がゴシックらしい。

以前の老朽化した修道院と聖堂の建替えに着手したのは、当時の修道院長のシュジェ(シュジェール、スゲリウスとも表記)という人物だった。シュジェは極貧の生まれながらサン・ドニの修道院長となり、政治的にもルイ7世の摂政を務めるなど類い稀な能力の持ち主であったらしい。彼は幼い頃より、荒廃著しいこの修道院を王室修道院に相応しいものに立て直したいと考えていたと言う。修道院長になったシュジェは、1137年にまず西正面の改修に着手した。このファサードではまだゴシック的要素は薄く、薔薇窓が採用されて一つのデザイン的方向性が示された程度に留まる。その後、後陣を含む内陣の工事に着手し、1144年に完成。この年を持ってゴシックが誕生したと言われている。

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何故にこの年がゴシック誕生のときとされているのかという問いは、ゴシックとは何かという問いに繋がる訳だが、フライング・バットレス、尖頭アーチ、リブヴォールトが総合的に使用されていることとされることが多い。この考え方は19世紀の構造的解釈によっているが、この時点のサン・ドニではまだ実現されていない。尖頭アーチをもってゴシックの誕生とする説もあるが、そうであればサン・ドニよりも遡ることになる(尖頭アーチと言えばゴシックの専売特許のように言われているが、ロマネスク建築の中にも僅かながら使用例が見られる)。また、線状要素こそゴシックの本質とする考えもあるが、それは確かに一つの特徴ではあるが最終的な目的ではないだろうと思われる。重い壁体を細いシャフトやリブで覆い隠す装飾は、石の持つ重量感を消失させると同時に木の幹から枝が伸びやかに広がる様を想起させる。ゴシック建築がよく石の森と例えられるのは、まさにこの上昇志向を体現するシャフトとそこから分岐するリブヴォールトの繊細な広がりによるのだ。ただ、この特徴はイギリスにおいてより顕著に発展する。エクセターのスラリと何本にも伸びるリブ、バースやグロスター大聖堂などで見られる天井を覆いつくすファン・ヴォールトは、まさしく木々の繁茂する様子を写し取っているように見え(って、実物は見たことないけど)、かつて破壊していった森林の姿をその木々の囁きを、石の教会堂の中に創造したと思われるのだ。先程線状要素は最終的な目的ではないと書いたが、ことイギリスにおいてはゴシックの発展と共に求める本質に変化があったのかもしれない。

話を元に戻そう。フランス、このサン・ドニ内陣でも無骨ながら森を想像させるような変化はあったが、それはむしろ大きな開口部を持つために技術的に採用されたものだった。シュジェが求めたのはその大きな開口部がもたらす光の空間、天への扉であると同時に地上での神の家を体現するものであったのだ。この光の空間を持ってしてゴシックの誕生とされている。

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身廊部のステンドグラス

先にも書いたようにシュジェが求めたのは光の空間である。それも無色透明な硝子からくる光ではなく、多彩な色ガラスを通過した宝石の如く煌く光である。シュジェは光というかその光輝性に執着したが、その理由は偽ディオニュシオスの位階論に求めることができる。それによると、神と人間の魂との間(最高に純粋な精神世界と最低レベルに物質的な世界との間)には位階が存在している(二分論は存在しない)。神より注ぎ込まれた照明の段階(アナロギア)のみが存在し、その到達の段階(位階)に応じて、神の姿に似たものとなっていくのだという。最高の英知、父なる神は『光の父』であり、キリストはその父を世界に掲示した『最初の放射』とされる。サン・ドニにはディオニュシオスが記した偽書の翻訳版が古くから伝えられており、シュジェはこれに強い影響を受けていたと考えられる。シュジェは「愚鈍な心は物質的なものを通して真理に昇る「と碑文に残しているが、この根拠も偽書に求められる。神と人間の魂との間は二分法ではなく照明の段階であるということなので、その段階が最も低いものであっても何らかの神の照明は受けているのである。そして、位階を上がって行くためには、さらに上の光の導き、神の英知である『真の光』を映し出すところの物質的な光の導きを必要とする。つまり、「人の心は物質的なものの手引きによってのみ物質的でないところのものに上昇しうる」というのである。シュジェは、同時代の聖ベルナールとは異なり愚かな者の中に世俗の者のみならず自分や修道士達も含めて考えていたようであり、かくして偽書はシュジェの煌びやかなものを求めることへの免罪符となるのである。

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北の薔薇窓

聖ベルナールはシトー派の修道院クレルヴォーの修道院長だった人で、よくシュジェと比較される。二人は最大のライバルであると同時に終生の友人でもあったようだ。禁欲・清貧・服従を旨とするシトー会の中で指導的立場にあった聖ベルナールは、シトー会の精神をそのまま反映したすべての虚飾を削ぎ落としたストイックな建築様式を生み出している。その代表的なものにはプロヴァンスの三姉妹と呼ばれるル・トロネ、セナンク、シルヴァカーヌやフォントネー等があり、近代の建築家にも影響を与えている。聖ベルナールにとって修道院とは、禁欲の場・祈りの場・神と人が対峙する場所であって、地上における神の家を体現するものではないのである。聖ベルナールは、建築や芸術の物質的な光輝さ壮麗さは修道の妨げになると考えておりクリュニー修道会を激しく非難していた。仲間の修道院長に宛てた書簡において、サン・ドニを『ヴァルカンのアトリエ、サタンのシナゴーグ』と強く非難したことは有名な話である。もっとも、シュジェは内面的純粋さだけではなく外面的な光輝性によっても神に仕えるべきとして姿勢を変えず、サン・ドニはパノフスキー曰く「サタンのシナゴーグであることをやめたとはしても、以前にも増してヴァルカンのアトリエとなっていった」のであった。シトー会は祈りの場として精神的な建築空間を求めたが、クリュニー会は建築を祈りの対象そのものと考えていた。クリュニーの生んだゴシックの様式は(磯崎新が著書『神の似姿』でゴシックの章のタイトルとしたように)、『示現の装い』なのである。

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北袖廊と後陣部

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13世紀ピエール・ド・モントルイユの手による内陣。

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政治活動でも多忙だったシュジェは、身廊部の工事までは着手できなかった。この美しい身廊は13世紀の名匠ピエール・ド・モントルイユよる爛熟期のゴシックである。トリフォリウムは暗い帯ではなくステンドグラスに変えられている。

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フライングバットレス

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マリーアントワネットとルイ16世の記念碑。墓は地下にあり、黒い大理石の簡素な銘盤が置いてあるだけである。

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代々のフランス王家の墓なので、このように豪華なものも多い。サン・ドニは修道院ということだけではなく、フランス王室の菩提寺として世俗的な側面も持つため、聖ベルナールも自分の求める精神性に程遠いサン・ドニの装飾性についてある程度許容せざるを得なかったようである。

ゴシックというと、初めての国際的建築様式であることもあり、生みの親であるシュジェの豪華好みと名誉欲の強さもあり、実際権威を競うかのように高く尊大な建築が陸続と建てられたという後の経緯もあり、権威の象徴として豪華に飾り立てられたというイメージが強いが、シュジェが主張したように、光という物質による愚鈍な心の導きや外的光輝性による神への奉仕という志も本当だったのだろうと私は思っている(免罪符になっているとか書いたけど)。壮麗さに憧れたのも本当、それが神への奉仕に繋がると考えたのも本当。そんな風に思いながら、サン・ドニの内陣で天から降ってくる光に包まれていると、それはただの太陽光なのではなくてもっと意味の深い光に取り巻かれているような気がした。

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パリ・ノートルダム大聖堂

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随分前、まだ私が建築に興味を持って間もない頃、パリのノートルダム大聖堂のファサードを見て不思議に思ったことがある。ゴシックと言えば上へ上へと異常なまでに垂直性を追求するヒステリックな建築だと思っていたのに、随分と端正で静謐なファサードだなぁと思った。大きく聳える双塔には頂塔もなく、ピナクルもない、薔薇窓の上には半円アーチ、さすがに扉口を覆うアーチは尖塔アーチだが、上昇志向を感じるのはそれくらいのもので全体的にはまだまだ石の量感を残している。これはゴシックのファサードとしてどうなんだろう?

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パリ大聖堂は1163年着工、初期のゴシックに分類される。それゆえまだゴシック的要素は薄いのだ。とはいえ、大雑把に認識するとフランスゴシック大聖堂のファサードは、大体このような形をしている。普通に考えて垂直性を追求するなら塔のシルエットは細い方がいいに決まっている。何故頂塔ではないのか?何故、林立させようともしないのか?ゴシックをゴート族の野蛮な建築だと言って(これがゴシックの語源になっている)嫌ったイタリアならまだしも。フランスはゴシックの本場じゃないかと思うだけに不思議だったのだ。

何をもってしてゴシックとするかという問題はあるが、 美学者ヴォーリンガーはフランスのゴシックはラテンの香りが漂っていて純粋ではないと言っている。ヴォーリンガーによるとドイツの建築にゴシックの本髄があるというのだ。確かにファサードを含む外観のデザインの垂直性はドイツの方が顕著かもしれない。日本におけるゴシック研究の第一人者前川道郎はフランスゴシックは内部の空間においてのみ垂直性を求める建築なのではなないかと指摘する。磯崎新は、他国に比較してフランスゴシックは時代を経てもバランス感覚を失わないと言う。ラテンの香云々は私にはわからないが、フランスではゴシックというカテゴリーの中でさえ『行き過ぎ感』はあまりないような気がする。パリ大聖堂のファサードは初期ゆえの量感はあるものの、あるべくしてあの姿なのだろうとやはり思う。

とはいえ、この大聖堂もご多分に漏れず何度かの修復を経て今に至っている。この修復について、ヴィクトル・ユゴーは『ノートルダム・ド・パリ』でこのように語っている。

『この建築(パリ大聖堂)の表皮にシワだの、イボだのを作ったのは時間の仕業だし、この芸術に暴行だの、蛮行だのを加えて、打撲傷だのを蒙らせたのは、ルターからミラボーに至るまでの諸々の革命のやった仕事なのである。また<修復>というとんでもない名のもとにこの芸術の骨組みをばらばらにしたり、脱臼させてしまったりしたのは、ウィトルウィウスやヴィニョーラを師とした先生方の所業なのである。ギリシャ・ローマ式などと呼んでいるが、その実、これは野蛮至極な改廃に他ならない。』

ウィトルウィウスはローマの建築家で『ウィトルウィウス建築書』により後のルネサンスの建築家に大きな影響を与えた理論家だ。ヴィニョーラは後期ルネサンス期に活躍した建築家でミケランジェロ亡き後、彼の作風が流行を博した。彼の著書『5つのオーダーの規則』は後の建築家の教科書となっている。つまり、この大聖堂に被害を与えた要因は種々あるが、最も質の悪い被害を与えたのは古典主義の名の下に行われた改悪工事だと言うのである。因みにこの大聖堂を脱臼させたとして非難されているのは、パンテオンを建てたことで有名なスフロである。スフロは王の行列を通りやすくするために、扉の中央柱を撤去し、タンパンを尖塔アーチ状に繰り抜いてしまった。今では考えられないような改修ではあるが、当時修復作業は『自ら描いていた夢を実現することだ』くらいに考えられていた時代ではあったのだ。そして、古典様式がその時代の流行でもあったということだろう。オーダーも持たないような野蛮な建築を改修することに、何のためらいも感じず、世論の非難も起こらないような・・・。

パリ大聖堂は後に、ゴシック建築を構造合理主義的に解釈したことで有名なヴィオレ・ル・デュクの修復を受けることとなる。この修復はラシュスとの協同案で応募し当選したものだが、ラシュスの死後ヴィオレ・ル・デュクの行き過ぎた修復が問題となる。この頃になると修復も考古学的歴史学的意義が考えられるように時代も変化していたからだ。彼は、応募当時は『芸術家は、その趣味、好みを完全に忘れ去り・・・』と厳しい自己規制を約束していたのだが、実際には、18世紀に取り壊された交差部の尖塔を復元したり、その周囲に彼自身やスタッフをモデルとした彫像を付加したりして、考古学的立場を取る学者や知識人から大きな非難を浴びた。自分をモデルにした彫像等は確かに行き過ぎの非難を浴びても仕方がないが、尖塔の復元自体はどうだろうか。この尖塔は落雷で度々炎上し、結局修復の手立てなく18世紀に取り壊されたという経緯がある。復元案は、ガルヌレーのデッサンをもとにヴィオレ・ル・デュクがデザインをしたようだが、当初のものより10m以上高く、装飾も華美になっていたようである。修復の難しいところは、一つにはいつの時代の姿に戻すのかということでもある。果たして18世紀の姿に戻せばよかったのか、それより以前の姿に戻すのが良かったのか・・・。そしてもう一つの問題、デザインの変更はアリなのかナシなのか、正確に戻す以外の修復は許されないのか。ヴィオレ・ル・デュクは修復について新しい理論を持ち込んだ人でもある。曰く『修復する場合は、その建築が当初さまざまな理由により実現できなかった本来の姿を取り戻すべきである』そして、彼の修復は後世にこれまでの何よりも最大の罪悪と非難の対象となっていった。彼の修復には、修復の枠を超えて好き放題やってしまったものもあるようなので罪悪云々についてはどうとも言えないのだが、パリの空に高く聳える塔を見て、『パリだー!ゴシックだー!』と思ったのも本当で、美しいのだからいいのではないかと思ってしまったりもするのだった。

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問題の交差部の尖塔とフライングバットレス

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レイヨナン式の見事な薔薇窓。北翼廊だったと思うが、もう随分前のことなのでわからない。

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ラン・ノートルダム大聖堂

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ランスからさらに北へ電車で30分、西フランク王国の首都であったランに到着する。ここはシャンパーニュ、ピカルディ、ノルマンディの3地方の中央にあたる。今回の旅行でとても楽しみにしていたのがこのランの大聖堂である。SNCFの駅を出ると小高い丘の上にある大聖堂が見える。駅前の通りの直線上に、まっすぐに大聖堂の方角へ伸びる長い階段があり、私達は徒歩でそこから登ってみたがかなりヘヴィだった。登った後で気づいたが、小さな登山電車のようなものが町から出ているようで、普通はその電車かバスを利用するようだった。

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あいにく、大聖堂の西正面は補修中で全面的に覆いが掛かっており全く何も見えなかったので絵葉書の写真で代用。

ラン・ノートルダム大聖堂は1150年代着工、初期ゴシックに分類される。ファサードのデザインは薔薇窓を覆う大アーチも3つの扉口のアーチも今だ半円アーチを使用しており、いかにもロマネスクからの過渡期の建築と感じさせる。それでも頂塔を持たない二つの塔、大きな扉口、大薔薇窓や全体のプロポーションは既に十分フランスゴシックの大聖堂らしい。

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塔の上には奇怪な怪物ではなく、可愛らしい牛の彫刻。建造工事で牛が活躍したためと言われている。

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中へ入ると奥に大きな薔薇窓が見えて、微妙な違和感を覚える。あんなところに何故薔薇窓?一瞬考えてすぐに気づいた。なるほど、シュヴェ・プラなのか。シュヴェ・プラとは平らに閉じた後陣のことで、シトー派の聖堂やイギリスでは多く見られるがフランスの大聖堂には珍しい。フランスでは内陣後部に周歩廊を配した丸く閉じるアプスが一般的である。フランスの代表的な風景となっているパリの・ノートルダム大聖堂の後姿、放射状にスラリと伸びるフライング・バットレスは、丸く閉じる後陣ならではの風景なのである。

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ヴォールトを見上げる。今だダブルベイ・システムの6分ヴォールト。シングルベイ・システムの4分ヴォールトが主流になるのは、盛期ゴシック以降のことである。

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立面は大アーケード・トリビューン、トリフォリウム、クリアストーリーからなる四層式、これも初期ゴシックの特徴だ。トリビューンとトリフォリウムの違いは非常にわかりにくいが、トリビューンは側廊の上階で身廊にに対して開かれている部分をさす(ギャラリーとも言われる)。トリフォリウムはさらにその上、トリビューンを開いている2階の上の屋根裏のような部分にあるアーケードのことである。トリビューンと違い、アーケードの後ろにはすぐに壁が来るのでめくらアーチのように見える。もともとロマネスクの建築では側壁を支える為に側廊に2階(トリビューン)を設けるのが通常であったが、ゴシック期になりフライングバットレスという技術が発達したため、徐々にトリビューンは姿を消し、盛期ゴシック期には3層式壁面へと姿を変えていくのである。

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北翼廊の薔薇窓。まだまだ素朴なデザイン。

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身廊から壁面を眺める。しっかりとした大円柱が大アーケードを支え、その柱頭からヴォールトのリヴへと繋がる小円柱に分裂している。この小円柱(シャフト)はそれぞれ3本のものと5本のものが交互に配せられている。実は、この大聖堂に来たかった理由は、このシャフトが織り成す空間にあった。この小さなリングで文節されているシャフトは、まるで天高く伸びる竹のような上昇感を私に感じさせた。ランの大聖堂のヴォールトの高さは約24m、ロマネスクの聖堂でもこれより高いものはあるのだが、この軽やかなシャフトとリングの作り出すリズム感が石の持つ物質性を覆い隠しているように感じられるのだ。しかしながら、日本人である私にはそのように見えるのだが、ドイツ人の研究家ヤンツェンはこのリングの水平性を指摘している。やはり、育った環境というのは大きいらしい。この大聖堂の工匠が竹を見たことがあるとは考えにくいので、おそらくヤンツェンの意見が正しいのだろう。このシャフトを素晴らしいと感じるのは、日本人と中国人くらいなのかもしれない。

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シュヴェ・プラの薔薇窓とランセット窓。

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交差廊部の美しい光塔。

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後陣から大聖堂を臨む。中央の三角状の塔が光塔だ。

ランの大聖堂は古典的な7塔式で完成された珍しい建築である(後に二つの塔が取り壊され、現在は5塔しか立っていない)。7塔とは、西正面と北と南のそれぞれの双塔、そして主廊と袖廊の交差部にかかる大塔(光塔)で、この形式はフランスではあまり顧みられず、ランスでは当初7塔式で設計されたものの結局西正面の双塔のみに終わり、アミアンではもともと西正面の双塔のみの設計であった。フランスでは、ノルマンディ地方などのアングロ・ノルマンのゴシックに大塔への執着が見られるようだ。むしろこの伝統はイギリスのゴシックの特徴となって残って行く。ある意味、初期ゴシックの典型であるランの大聖堂は、フランスとイギリスのゴシックの特徴を併せ持った建築のようにも思える。イギリスは、ゴシック誕生の早い時期にフランスからその技術を伝えられた第一の国であることを考えると、それは自然なことのようにも思われる。

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ランス・ノートルダム大聖堂

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パリからTGVで45分とすっかり便利になったランス。この街の大聖堂は、少数の例外を除いて歴代の国王の戴冠式が行われた格式高い聖堂だ。15世紀ジャンヌ・ダルクがシャルル7世をせきたてて戴冠式を挙げさせたのもこの大聖堂である。英国王ヘンリー6世に先んじ、その正当性を知らしめるためにはランスで聖別されなければならなかったのだ。

折悪しくもファサードは修復中のため右扉口が足場で塞がれていたが、この大聖堂は『フランス大聖堂の女王』と言われ、その美しさが知られている。ゴシック教会堂の修復で名高いヴィオレ・ル・デュクも、ランスのノートルダムをもとに理想のゴシック大聖堂の絵を描いている。この大聖堂はなんと言ってもバランスが良いのだ。初代建築家ジャン・ドルベの全体計画が時代を超えて一貫して尊重されたためだろう。生成の建築であるゴシック大聖は、その時代時代のデザインを反映して造られるものだから、ファサードのデザインも均整が取れていないものが多い。パリのノートルダムは端正だが、傑作と評判のシャルトルもゴシック誕生の建築として有名なサン・ドニもシャルトルと並んでフランスゴシックを代表するブールジュも、双塔の様式の相違やデザインの混乱は当たり前、その中でランスの均整の取れたファサードは実に見事である。(この辺りの感覚は几帳面な日本人にはわかりにくく、何故統一したデザインで造らないのか逆に不思議ではある。)

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繊細なレイヨナン式のバラ窓と破風の彫刻。彫刻は『聖母の戴冠』

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ランスの大聖堂で特徴的なのは、タンパンのステンドグラス化だ。

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バラ窓の横からは、フライングバットレスが透かし見え、主廊の幅が想像される。内部の様子がファサードに直接的に表現されるている。

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主扉口の彫刻『受胎告知』、主扉口は聖母マリアに捧げられており、聖母に関するエピソードの場面の彫刻で埋められている。ランスの大聖堂は彫刻の素晴らしさでも知られており、最も有名なのは『微笑みの天使』と呼ばれているものだ。右扉口のため、今回は見えなかった。残念。

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ランス建設の時期ともなると、フライングバットレスも随分細く軽やかになる。

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平面は身廊3廊式、内陣5廊式

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立面は3層式。アミアンとは違い、トリフォリウムも暗いまま、最下層の大アーチを支えるピエリ・キャントネも中心の柱の太さが目立つし、柱頭もはっきりしている。

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後陣を臨む

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身廊の写真でもわかるように、ランスでも殆どのステンドグラスは失われている。徐々に修復をしているようだが、もとの輝きを取り戻すのは一体どの位先になるのだろうか。ちなみに、後陣の下段は、シャガールが制作したものだ。作品の出来栄えは良いのだが、私はシャガールの作風はゴシック大聖堂には似合わないような気がする。

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交差部と南のバラ窓

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西正面側には、二つのバラ窓が見える。下は、タンパン部分である、一つの壁面に二つのバラ窓は初めて見た。ファサードを見たときには何故かこういう光景を想像しなかった。

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アミアン・ノートルダム大聖堂

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パリ北駅から急行で1時間10分、ピカルディ地方の首都アミアンは意外に近い。ここにはシャルトル・ランスと並び、ヤンツェン以来「3大古典大聖堂」と呼ばれてるアミアン・ノートルダム大聖堂がたっている。『古典』という敬称は、本来『存在の建築(何も足さず何も引くことのできない完全なる完成美)』である古代ギリシャ神殿の尊称であり、『生成の建築(それぞれの時期のそれぞれの様式に従って、建て続けられる永遠なる未完成)』であるゴシックの聖堂に使用されるべきではないのだが、敢えてそう呼ばれていることに意味があるのである。その中でも、ゴシック聖堂の修復で名高いヴィオレ・ル・デュクによると、最も完成度が高いのがこのアミアンの大聖堂だという。

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バラ窓と王のギャラリー

アミアンの大聖堂は1220年着工。通常教会堂は内陣部から着工されるのだが、この大聖堂は西から東へ工事が進められたという。つまり西正面から工事が始まったということであり、そのためかシャルトルよりは新しく、ランスよりは遅れた構成と感じられる。バラ窓は全体に比してまだ小さく少々稚拙に見える(但し、その様式は後期ゴシックのフランボワイヤンである)。

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タンパンとヴシュールの彫像郡。『最後の審判』が描かれている。この聖堂の扉口は、エブラズマン(抱き壁)が深く切り込まれており、ファサードに深い陰影を与えている(最上部の写真参照)。

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アミアン大聖堂は3廊式プラン。主廊のヴォールトの高さは42.5m、ボーヴェの48mに次ぐ高さを誇る。それに比して幅は14mに過ぎず、垂直性の強調が際立っている。ちなみに、他の古典聖堂は、ランスのヴォールトの高さが38m・幅13m、シャルトルは高さ37m・幅16mとなっている。

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立面は3層式。ゴシックの立面は、初期は大アーチ・トリビューン・トリフォリウム・クリアストーリーと続く四層だが、次第にトリビューンを省く3層へと変容して行く。アミアンの大アーチは異常に高く、クリアストーリーとトリフォリウムを合わせた高さとほぼ同じになっている。ほっそりとしたピエリ・キャントネ(大柱に小円柱を添えた複合柱)が、より洗練された垂直性の高い空間を創出している。

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四分ヴォールトを見上げる。残念なことにアミアンは殆どのステンドグラスが失われている。ランスも然り、ステンドグラスの織り成す光の空間を体験したいならば、シャルトルが1番だ。

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交差廊の見上げ。トリフォリウムがステンドグラス化されているのがわかる。身廊部分はトリフォリウムがまだ閉じて暗いまま(2枚上の写真)になっている。このトリフォリウムのガラス化を、古典性からの逸脱、爛熟期への第一歩と見る向きもある。

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交差廊から北袖廊を見る。

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アミアンのもう一つの見所はこのラビリントである。実際には椅子もあるし地上から見るので、このような広がりを感じることはできない。絵葉書や説明用の写真を見て想像力を働かせるしかない。

ゴシックの聖堂に行った折、このような迷路模様があるのに気づいたことがある方も多いかと思う。このラビリントは、エルサレムへの巡礼路を描いたものであり信者が跪いて歩いたとする説やクレタ島クノッソス宮殿地下にミノタウロスを閉じ込める為に造られた『迷宮』に因んで工匠を讃えるためのものとする説等がある。

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ラビリントの中心にある銘版。この聖堂の建築に関わった4人の工匠の名前が記されているという。

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後陣にある嘆きの天使像。私には天使版考える人に見えた。ファサードの王のギャラリーやタンパン、扉口まわり台座の12ヶ月の労働カレンダーなど、アミアンには美しい彫刻がたくさんある。

前にも書いたように、アミアンの大聖堂は殆どのステンドグラスを失っている。そのため後陣は素っ気無いほど明るい。ゴシックとは何かという問いには様々な回答があるが、その中の一つに『光の空間』という答えがある。この『光の空間』というのは明るければ良いというのではなく、色ガラスを通した宝石のように光る壁、『神としての光』に満ちた空間のことなのである。アミアンで透明なガラスから入る自然光(つまり神秘性のない)に満ちた堂内を見ていると、ゴシックの創造者シュジェの『光輝く壁』への固執がとても重要であることに嫌でも気づかせられる。だからと言って、この大聖堂がつまらいというのでは勿論ない。ここでは、ヴィオレ・ル・デュクの褒め讃える、ゴシック建築としての構成のおもしろさを堪能して帰ろう。

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セビーリャカテドラルとヒラルダの塔

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「中世が秋を迎える時、ゴシックも秋を迎える。しかも華やかな秋である。」丹下敏明著『スペイン建築史』の後期ゴシックの章はこのように始まる。その始まりを告げるのが、このセビーリャのカテドラルだ。カテドラルは普通大聖堂と訳されるが、これは文字通りの意味ではない。規模の大小ではなく、司教座のある聖堂を大聖堂という。とは言いながら、このセビーリャ大聖堂は規模としても世界第三位を誇っている(因みに1位はヴァチカンのサン・ピエトロ、2位はロンドンのセント・ポール寺院)。モスクを改装して使用していた旧カテドラルを傷みが激しいため新築することに決定したのが1401年、完成したのは1519年だから約1世紀の期間を要したことになる。奥行116m、幅76m。このプランはとてもゴシックの聖堂とは思えない。

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セビーリャ大聖堂を見ていると不思議な気持ちになる。明らかにゴシック建築なのに、なんだかとても大らかなのだ。おそらく前述の広いプランのためであろうか。計画を決定した僧侶自身が、後代の者に正気の沙汰ではないと思われるだろうと言った広大なプラン。ゴシックは異常なまでの垂直性を示す建築なので、普通プランはこんなに幅広にならない。この広さはモスク跡という土地の性格をそのまま引き継いだものと言われている。また、段差の少ない階段状の身廊も垂直性の軽減に繋がっていると思われる。セビーリャ大聖堂はサロン形式の五身廊でバットレス内に礼拝堂を納め、立面的には階段状の身廊を形成する。その段差は通常のゴシック建築に比較するといかにも小さく安定感があり、ゴシックの上昇志向を和らげている。周囲にはエキゾチックなヒラルダの塔が控え、隣にはイスラームの遺構であるアルカサルの城壁が広がり、街にはパームツリーが溢れている、そういったものが渾然一体となって、この大らかさな大聖堂を造っているように私には感じられた。

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内陣前の交差廊天井。ヴォールトのリブのデザインが美しい。このタイプのデザインはスペインで多く見られる。

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聖具室のドーム。ルネサンス様式なので後の増築と思われる。

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ヒラルダの塔から見下ろす大聖堂。今は変わったかもしれないが、おそらくスーパーサッカーのオープニングに出てくる教会はこれだと思う。

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馬蹄形アーチの奥にキリスト教の聖堂がある。スペインでしかありえない光景。

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夜のヒラルダの塔。ヒラルダの塔は現在は大聖堂の鐘塔だが、もとは12世紀アルモハッド族によって建てられたイスラームのミナレット。方形プランと階段ではなくスロープの使用が北アフリカとの関係を示している。地震で崩壊した頂部を西洋の様式で増築したが、これがまた不思議なもので、ゴシックとかプラテレスコとかルネサンスだとか本によって書かれていることが違う。細部までは高くてよく見えないが、ゴシックにもプラテレスコのようにも見えないのでという非積極的理由により、ルネサンス様式じゃないかと私は思っている。

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細部の繊細なレリーフはイスラーム建築ならでは。

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この大聖堂にはコロンブスの墓がある。この4人はそれぞれ当時のスペインの4つの国、レオン・カスティーリャ・ナバラ・アラゴンの国王である。かつてコロンブスを裏切った王が今はコロンブスの棺を担いでいる。

大聖堂の中はとても暗いため、ちゃんと撮れなかった・・・。

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シナゴーグ(シドニー)

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セント・メアリーズ大聖堂を見た後、ハイドパークを横切ってタウンホールへ行こうと思ったら、公園沿いの道に不思議な建物を発見。ゴシック・・・でもない・・・ロマネスク・・・でもない?なんだか、普通の西洋建築とは違うルールに従って建てられているような・・・。何だろうと思って表示を見ると、不思議な文字が刻まれている。あぁ、シナゴーグか!残念ながら、中には入れなかった。見たかったなぁ。

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先頭アーチの中にバラ窓。周囲にはこったレリーフが施されている。

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入口の半円アーチ。鉄の柵も手が込んでいる。

シナゴーグはスペインやブダペストでも見たけれど、別段独自の様式を持っているというようには見えなかった。それぞれその土地の文脈の中で考えてよいものなのだろうか。スペインのシナゴーグはトレドとコルドバという土地柄のせいかイスラーム風だったけれど。とても気になるが、何を調べればいいのだろう?

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カトリック松が峰教会

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日本にあるとは思えないような本格的なロマネスク様式の教会がある。総武宇都宮駅から徒歩3分のところにある松が峰教会だ。組石造と思わせて実は鉄筋コンクリート構造、外装内装に板状の大谷石を貼ったものだ。設計はマックス・ヒンデル。ロマネスク建築は地方色が豊かなことが特徴の一つだが、建築家がスイス人だからなのか、素朴なドイツ風の建築となっている。

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2階のバシリカ式聖堂

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奥の半円のアプス

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貝のモチーフの・・・何?洗水盤か何かだと思っていたけれど、今見ると違うみたい・・・。

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