ホテル セントラルのA・ドリヤークとB・ベンデルマイエル、二人の建築家が次に携わったのがこのグランド・ホテル・エブロパ。ヴァーツラフ広場という最高の立地に建つアールヌヴォー様式のホテルである。建物自体が建てられたのは1889年、アールヌーヴォーに改装されたのは20世紀に入ってからのことだからこの二人の建築家が関わったのはこの改装時のことだろう。
ファサードの主役はこのホテルでは漆喰ではなく、窓やバルコニーを飾るアイアンワークに譲られる。セントラルの可憐さに対してこちらは少しウィーン風な気がしたが、私は中欧もアールヌーヴォーもよく知らないので的外れな感想かもしれない。ファサードの鮮やかな黄色はこの10年か20年くらいの間に塗り替えられたものらしく、以前このホテルを見た方の中には不評の向きもあるようだが、私には別段悪いようには見えなかった。もう少し風雨に晒されればそれなりに落ち着くだろうから、それでいいのではないかと思ったりする。
入口の庇
入口の取っ手の装飾
バルコニーのアイアンワーク
バルコニーのアイアンワーク
フロントの方にお願いして中を見せてもらった。これは2F。
五線譜に縁取られたような階段。踊り場には蝶のような照明が軽やかに浮かんでいる。
階段手摺のアイアンワーク
階段の照明。羽のような影を落とすのは二つのライトを吊り下げるワイヤー。
階段を見下ろす
家族で写真を見ていた折父がこの階段の写真を見て「なんと無駄な」と感想を漏らした。人には好みがあるのでアールヌヴォーが気に入らないのは仕方がないのだが、憎んででもいるかのような顕な嫌悪感はなんなのだろうと驚いた。父はもともと色々な意味で「飾る」ということが嫌いな性質だ。そういう意味では父はアドルフ・ロースのような人だと言える。そこまでポリシーがあるかどうかは別にして。(ちなみにロースは装飾は犯罪だと主張した人である。)
建築は簡単に言うと、機能・技術といった理性的な面と装飾や造形・象徴といった情緒的な面と相対する二極の側面を持つ芸術である。よくはわからないが、父にとって建築とは理性によって造られるべきものであり、建築の歴史とは装飾を削ぎ落とす過程でなければならないのかもしれない。建築的にはル・コルビュジェの近代建築五原則やミース・ファン・デル・ローエの「レスイズモア」に代表される20世紀のモダニズムの中で、社会的にも高度経済成長期の日本を生きた世代の父にしてみれば、その価値観はある種当然な気もしてくる。実際、私が子供の頃はアール・ヌーヴォーはまだ悪趣味の代名詞として使われていたし、異形の建築、世紀末の産み落とした鬼子、徒花といった表現も建築関係の本ではよく目にするのである。
階段の見上げ
アールヌーヴォーとはフランス語で新しい芸術という意味である。1895年に画商ビングがパリで開いたギャラリーの名前に由来している。ビングのギャラリーはヨーロッパやアメリカの最新の芸術やアフリカ・東洋の珍しい品を取り扱い、この時代のパリで一種の情報センターのような役割を果たしており、その店の名前がそのまま世紀末芸術をさす言葉となった。そしてこの世紀末芸術と言うのが多様を極めており一筋縄ではいかない。まず世界各国で同時期に発生したため、国によって呼び方が異なる。フランス・ベルギーではアール・ヌーヴォー、ドイツではユーゲント・シュティール、オーストリアではゼゼッション、スペインではモデルニスモ、英米はモダンスタイル、イタリアはスティーレ・リベルティ、フィンランド・スウェーデン等ではナショナル・ロマンティシズム。ちなみにチェコはオーストリアと同じでゼツェッションと呼ばれている。これらの名称の違いはただ国の違いを表わすわけではなく、表現方法の違いでもあり、政治的信条の違いでもあり、地域固有の素材やモチーフの違いでもあるから難しい。例えば、このホテルとレヒネルの時にお菓子の家と表現されるシペキ邸もアール・ヌーヴォーに分類されるが、その表現方法や形状の中に様式的規範を見つけようとすると私などは途方にくれてしまう。
しかしながら、この多様な名称の間には深い共通点があると大原美術館の高階秀爾館長は著書「世紀末芸術」の中で指摘している。第一の共通点は、これらの名称の生まれてくる背景だ。フランス・ベルギー・イタリアでは美術商の名前(リベルティはイギリスのリバティ商会からきている)、ドイツ・スペインにおいては当時の芸術家達が創設した美術雑誌(この本の中では、スペインの世紀末芸術の名称は「アルテ・ホベン」と説明されている。今ではモデルニスモが一般的だが、アールヌーヴォーは同じ国においても沢山の別称を持っている。ちなみに「アルテ・ホベン」はピカソが1901年に創刊した雑誌である)、英米では工芸・建築運動の名前が由来となっている。これは近代芸術の他のグループとは大きく異なる特徴で、印象派やキュビズムのように外部から与えられた名前でもなく、ロマン主義・古典主義のように後世の歴史家によって採用されたものでもない、その運動を推進した芸術家達自身によって選ばれた名称なのだということである。
第二の共通点はその意味する内容である。「アール・ヌーヴォー=新しい芸術」「ユーゲント・シュティール=青春様式」「スティーレ・リベルティ=自由美学」「アルテ・ホベン=若い芸術」「モダン・スタイル=近代様式」これらの言葉は「なにものにも捕らわれないみずみずしい精神、若々しい情熱を意味するものにほかならない」というものである。そして、「芸術」「様式」「美学」というように、絵画運動や建築様式のような一部に関わるのではなくあらゆる領域にわたる総合的な言葉が使用されている。
つまり、アール・ヌーヴォーの芸術家達は、過去からの決別を高らかに宣言したのである。
建築の世界だけの話に戻るが、アール・ヌーヴォーが生まれる前19世紀前半の西洋の建築事情はパリのメトロの駅を書いた折にも触れたが、この頃の西洋建築は過去の様式を安易に模倣するだけで新しいものを生み出さなかった。建物の外観に如何に巧みに過去の様式を取り入れるかだけが当時の建築家の命題でったのである。アール・ヌーヴォーの芸術家達はその硬直した西洋建築の歴史に一石を投じたのであった。これこそがアール・ヌーヴォーの功績なのだと近年では認められているようだ。
ガラス天井の吹き抜け
アール・ヌーヴォーは建築に限って言えば1893年に始まり第一次世界大戦の勃発とともに終焉を迎える。その間僅かに四半世紀。その理由は、アール・デコに取って代わられたためとか、あくまで装飾の様式であって構造の様式ではなかったためとか言われている。あるいは個人的な建築が中心だったこの様式は発注主と建築家の一対一の関係から造られるため抑制が効かなくなり自己崩壊してしまったとの説もある。そう説明すると、父は人類の正常な美的感覚に安堵したようだった。父ではないが私も3番目の説に賛同したい。肥大化するエゴの中で華やかに自爆していったと考える方が新しい芸術の幕開けを強烈に主張したアール・ヌーヴォーの終焉に相応しいような気がするのである。
グランド・ホテル・エヴロパは風格ある佇まいながらも中級ホテルに区分される。物価の安いチェコにあってホテル代だけは高いので、安い宿泊先を探すときにオススメのホテルのようだ。古いホテルなので部屋もあまりキレイではないらしい。シャワー共有の部屋はかなり安いと聞くが、もう今の私にはそういうキビシイ旅行はできない(苦笑)
ちなみに1Fにはカフェ・エヴロパというアールヌーヴォー様式のカフェがあり、こちらの設計には広島の原爆ドームで日本でも御馴染みのヤン・レツルが担当したらしい。
http://www.evropahotel.cz/
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