住居・邸宅

2010年1月31日 (日)

ネクラノヴァ通りの集合住宅

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ホホルの最高傑作と言われる集合住宅はヴィシェフラト地区ネクラノヴァ通りにある。ヴィシェフラト地区はキュビズムが多く見られる地域で、コバジョヴィチ邸やラシーン堤防の三世帯住宅もこの近くに建てられている。ラシーン堤防の三世帯住宅ではまだ過去の様式を引きずっていたホホルも、ネクラノヴァ通りの集合住宅ではすっかり吹っ切れたように見える。鋭角的なコーニスの凹凸をはじめ、真っ白な壁体に結晶形が連続する様子はとても印象的だ。坂道に立つその立地も建物の持つシャープな印象に一役買っている。鋭いコーナーの角度は70度、随分変則的な敷地である。

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坂側のエントランス。ダイヤモンド型に飛び出した庇がおもしろい。1Fはレストランになっているようだが、元旦のこの日は勿論定休日。

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鋭角に波打つコーニス

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水平な通りのエントランス

キュビズム建築が建てられたのは1911年から1914年なので、1913年~1914年に建てられたネクラノヴァの集合住宅はホホル最後のキュビズム建築にあたるのだろうか。1914年は第一次世界大戦の始まった年である。大戦は建築の世界にも大きな変化をもたらした。これ以降、キュビズムやアール・ヌーヴォーは建てられなくなり、代わってロンド・キュビズムやアール・デコが現れる。と言っても、ロンド・キュビズムはチェコのアール・デコなので、キュビズムで独自の歩みを進めたチェコもここで西洋建築の大きな流れの中に還って行くことになる。ホホルはと言うと、ロンド・キュビズムではなく、ロシア構成主義へと進んで行った。ホホルの理知的で禁欲的なデザインを見ているとそれはとても自然なことに思えた。

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2010年1月16日 (土)

ヴィシェフラトの三世帯住宅

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コヴァジョヴィチ邸をもう少し南へ進むと同じくホホルの手によるキュビズム建築に出会う。施主の名前が知られていないためか、ヴィシェフラトの三世帯住宅とかラシーン堤防の三世帯住宅とか地名で呼ばれている。このブルタバ川沿いの住宅は1912~13年コヴァジョヴィチ邸に先立って建てられた。ホホル最初のキュビズム建築である。大きなペディメントが目を引くこの住宅は、最初に手掛けたキュビズムというだけに古典様式のモチーフがキュビズムに展開されていく様子がよくわかる。

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窓のあたりはコヴァジョヴィチ邸によく似ている。

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北側のファサード。1番上の写真と同じ住宅とは思えない。

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ホホルがキュビズム建築を建てたこの当時は新古典主義の建築が主流だったが、キュビズムの結晶形のデザインを採用することは古典様式の建築にゴシック的要素を付加するような効果があった。ホホルは西洋建築様式の二大潮流を意図して融合させたんだろうか。やってみたらなんだかゴシックっぽくなった・・・と言う程度のことではないんだろうか。いずれにしても、新しい何か、特別な何かを生み出そうとしたキュビズムではあるが、最初から矛盾をはらんでいたということになるだろうか。

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2009年11月27日 (金)

コヴァジョヴィチ邸

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キュビズム建築なるものがあることを知ったのはほんの2、3年前。西洋建築様式史の本の中でも殆ど触れられることのないキュビズム建築は、チェコにしかない、チェコ独自の建築様式なのだそうだ。古くは12世紀ゴシックの時代から様々な建築様式を共有してきたヨーロッパにおいて、ましてや交通手段の発達からさらにユニバーサルな建築へと突き進んで行くこの時代において、全くどこにも広がりを見せることのなかったこの様式はそれだけでミステリアスな感じがする。

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プラハ旧市街から南へ約3km、ヴィシェフラトと呼ばれるこの地区は、プラハ発祥の伝説の残る場所である。小高い丘の上に7世紀の城砦跡が残り、その麓にキュビズム建築が点在している。旧市街からブルタヴァ川を南下して一番初めに出会うのが、コヴァジョヴィチ邸である。チェコ・キュビズムを代表する建築家の一人であるJ・ホホルの1913年の作品だ。

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キュビズム建築のデザイン的特徴はファサードが斜めの線と斜めの面で構成されていることににある。ギリシャ・ローマ様式やゴシックという西洋の二大潮流の範囲の中で多角柱や多角錐、結晶形モチーフを使ったものとという言い方もできるようだが、斜線と斜面で分割されていると考える方がわかりやすいような気がする。ホホルのコヴァジョヴィチ邸も窓枠やコーニス、扉等様々なところで斜線や斜面が使われており、建物の表面に深い陰影を与えている。波打つファサードはバロックとは違い感情に直接訴えるようなダイナミズムではなく、知的な謎かけをされているような印象だ。綺麗とかカッコイイとか、見た目の麗しさを基準とするならば、好みはあるとしても一般的にあまり魅力的とは言い難いかもしれない。キュビズム建築の魅力はおそらくそんなところにはないのだろうと思う。ピカソが「アヴィニョンの娘たち」でルネサンス以来の遠近法を否定して20世紀の美術を切り開いたように、チェコキュビズムも何かを否定して何かを生み出そうとした。言葉にすると陳腐だけれど、その建築家達の時代への抵抗とか新しいものへのチャレンジといったものが、建物の造形から強く感じられる。だから例えそのデザインに共感できなくても、キュビズム建築の前を素通りすることが出来ない。綺麗とも素敵とも思わないけれど、何故キュビズムで建築をつくろうとしたのか、何故僅かな期間で消え去ってしまったのか、何故他への広がりを見せなかったのか・・・何だか気になって仕方がないのである。

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裏通りの扉口

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庭もキュビズムでデザインされている。

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門のデザインも勿論キュビズム

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2009年7月20日 (月)

ペテルカ館

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ヴァーツラフ広場に面して立つペテルカ館は、ヤン・コチュラのプラハ帰国後最初の作品である。店舗と住宅の複合建築で、大きなガラスが嵌め込まれたプラハ最初の建物だと言う。男女の彫刻、花をモチーフにした化粧漆喰、鋳鉄の窓装飾を持つファサードはとても控えめな印象で、装飾性の高いプラハのアール・ヌーヴォー建築の中では異色の存在である。

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ヤン・コチュラはチェコ近代建築の父と言われる建築家である。1894年~1897年までウィーンのオットー・ワグナーの下で学んでいる。ワグナーの講座は「ワグナー・シューレ」と呼ばれ、ドイツのJ・M・オルブリッヒ、モラヴィアのJ・ホフマン、スロベニアのJ・プレチュニクといった傑出した建築家を輩出しており、コチュラもその一人である。コチュラはウィーンに招聘されたオーマンの後継者としてプラハの工芸美術学校で教鞭を振るった(このブログでも取り上げたホテル・セントラルの建設途中でオーマンがウィーンに招聘され、後を弟子の二人に引き継いだあのときのことである)。このペテルカ館は1899~1900年の作品なので帰国後早々に建てられているが、コチュラの実作は実際にはかなり少なく10件ほどしかないのだそうだ。建築家というよりも教育者としての功績の方が大きく、チェコは彼の門下生の手により近代化を進められて行くのである。

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全体に垂直性の高いすっきりとした印象のファサードがウィーン分離派らしい。

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2009年1月28日 (水)

ボヘミアン・スタイルの家

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最初のキュビズム建築として名高い「黒いマドンナの家」からオヴォツニー・トゥルフに入ってすぐのところで、随分と美しい建物を見つけた。ベイウィンドウに描かれた印象的な図柄が一際目を引くそれは、後から調べてみるとJ・ファンタやO・ポリーフカに並ぶチェコ・アールヌーヴォーの代表的な建築家B・オーマンの作品だった。オーマンはチェコ初のアールヌヴォー建築と言われる「カフェ・コルゾ」の設計者で、この「ボヘミン・スタイルの家」はそれに先立つ作品である。チェコの伝統的様式とアール・ヌーヴォーの融合を目指したオーマンの意図が読み取れるような作品である。

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ボヘミアン・ルネサンスの破風にベイウィンドウ、建物の全体に美しい図柄が描かれている。

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一見石積みのように見えるが、描かれたものである。一種のトロンプ・ルイユ(騙し絵)だ。プラハにはこのようなトロンプルイユの石積みの家をたくさん見かける。遠くから見ると、ペインティングなのか本当の石積みなのか判別に困る。

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ルネサンス風の破風

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ベイウィンドウ横の図柄

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ベイウィンドウの図柄、線の美しさに驚く。

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出窓の出っぱりの下の装飾もプラハでは見所の一つ。

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2007年9月10日 (月)

エリザベス・ベイ・ハウス

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この日はボンダイ・エクスプローラーに乗ってビーチでゆっくりする予定の日だった。冬だから泳げるわけではないのだが、ビーチサイドのお洒落なカフェでまったりするのもいいですよ、との旅行会社の人の言葉に乗せられて出かけることにしたのだ。このエリザベス・ベイ・ハウスはボンダイ・エクスプローラーの2番目のバス停近くにあるので、ちょっと立ち寄ることにした。

エリザベス・ベイ・ハウスは、植民地長官アレキサンダー・マクレイの住居として建てられた。設計はジョン・バージ、グリーク・リバイバルの建築だ。ファサードは均整のとれた左右対称のデザインで、ペディメントとポーティコを持つ。古典主義の要素を取り入れながらもアシンメトリーなデザインにしてしまう傾向のあるシドニーにおいて、この建物はともすると素っ気無いと感じるくらい見事に整理されている。

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エリザベス・ベイ・ハウスからの眺め。毎朝起きてこんな景色が見えたら幸せだろうな。

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玄関を抜けると、吹き抜けの楕円形ホールに出る。これは天井を見上げたところだが、この楕円のドームは外からは見えなかった。

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内部装飾はアールデコ様式。楕円のホールを囲むように、優美なカーブを描いて階段が降りてくる。

個人の家なので、当時の暮らしぶりに興味がなけらばそう見るところはないかもしれない。言ってみれば、神戸の異人館めぐりをしているような感じだった。

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2007年6月19日 (火)

大谷石の倉

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つい一週間ほど前、栃木県の石の倉が落雷により火災にあったとのニュースを見た。人的被害がなかったようだったのは不幸中の幸いだった。

一般的に有名なのかどうかは知らないが、栃木県には石の倉がたくさんある。この春、氏家の駅から馬頭広重美術館にバスで向かった折、切石積みの倉を見つけて日本にも地域に密着した石の建物があるんだと驚いた。しかも不思議な風合いの妙な色の石。微妙に不自然な緑色。倉という日本的な建物には不釣合いな洋風素材。それはイタリアのバーリ付近でトゥルッリを見つけたときのような驚きだった。これはこの土地特有の倉に違いない、きっとこの一戸だけはなく一杯あるんだ、と思った。そして案の定たくさんあった。美術館までの約1時間、保存の良い物からそうでもないものまで普通の民家の横にちょこんと建っている。これはスゴイ。

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後で調べたところによると、この倉に使われている石は大谷石で宇都宮近郊の大谷で取れる石らしかった。大谷石の説明は後に大谷石資料館について書く予定があるので、ここでは控える。

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こういった石の倉は一体いつ頃から建てられたのかと思っていたら、案外歴史は浅く切り石積みのものは明治時代からのようだった。もともと木造の倉に防犯・防火の問題から江戸時代に石のパネルを貼るようになり、明治になって本格的な切り石積みの倉ができるようになったのだそうだ。正直なところ、漆喰で目地があるものは張り石とわかるけれど、そうでなければ積んであるのか貼ってあるのかは表面から見ただけではわからない。窓や切妻のデザインはなかなか凝ったものがあって、見ていて飽きない。日本でもこんなヴァナキュラーな建築があったのだな、と嬉しくなった。

余談ながら、隈研吾の「ちょっ蔵ホール」はこの土地柄故に生まれた建物だと言うことを栃木県に行ってはじめてわかった。このように曳屋をして再利用したり、新しく作られたり、現在でも倉文化が生きて利用されているのは素敵だなぁと思う。

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氏家の駅前に商業施設「さくらeプラザ」、古い農業用倉庫を改造して利用している。私が最初に見つけた倉がこれ。

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2007年4月29日 (日)

ムンディ・アニムス大塚

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梵寿鋼設計のマンションが巣鴨にもあるというので見に行ってみることにした。巣鴨の駅から徒歩5分くらい線路沿いに歩いてつきあたりを左に曲がると怪しい建物が見えてくる。「ムンディ・アニムス大塚」という名前の梵寿鋼のマンションだ。

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1F窓の下のモザイク、これは雪の結晶?

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窓の下のモザイクはそれぞれ模様が違う。これは太陽か。

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エントランスの足元には亀のモザイク。

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エントランスからのぞいたところ。こうやって見ると、ガウディのモザイクというよりもコズマーティ風な感じがするのだけれど・・・。

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上の写真の階段を上がったところ

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上の写真の階段をおりたところにあるドアのガラス部分。孔雀の姿が彫られている。奥に繊細な模様のステンドグラスが覗く。

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エントランスからからの見上げ。妖しい女性の像が宙を舞っている。「ムンディ・アニムス」というのはどこかの言葉で「精霊の家」という意味だと聞いたような聞かないような・・・。

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エントランスから微かに見える2F。どんな感じになっているのか気になる・・・。

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エントランスの吹き抜けにはルネサンス期に好まれたような古典趣味な衣装を着た女性が描かれている。この女性達も精霊なのか・・・。

それにしてもクドイ装飾のマンションである。よくわからないが、海の生物や波頭のようなモティーフ、ステンドグラスにある炎、モザイクや天井のガラス模様に描かれる太陽や星そして豊かな大地を思わせる植物の絵。「精霊の家」だから火・水・空・土といった4大元素を表しているといったところか。どんな人がこんなマンションに住んでいるのかやはり気になるところである。

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2007年4月26日 (木)

ドラード早稲田

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たまたま見た雑誌に妙な建物が載っていた。そのときは時間がなくて、東京にあるマンションだという以外何も確認できず、何となく気になる気持ちだけが残ってしまった。後でネットで検索しようにも全く手掛かりがない。どうしたものか考えた末に思いついたキーワードが「日本のガウディ」。検索してみると見事にヒット。設計したのは、梵 寿鋼(ぼんじゅこう)という建築家。本当に「日本のガウディ」と呼ばれているらしい。探している建物は、どうやら早稲田鶴巻町にあるようなのだが、詳しい場所はわからなかった。「ぷらぷらしてたらあった」という証言を頼りに、ともかく出掛けてみることにした。

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結局のところ、その変なマンションはぷらぷらしていたら見つかった。通りの向こうの方に、変な肌をした建物が見えたので近づいてみるとまさしく探していたマンションだった。ファサードのうねり具合、うろこ状の模様、バルコニーの鉄の細工、ガウディのカサ・ミラとカサ・バトリョを足して2で割ったような建物だ。

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破砕タイルの使用もガウディみたい。

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エントランス下のタイルのモザイク

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エントランスもおどろおどろしい・・・。

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エントランスから中へは細く、暗い通路を通る。ドアのデザインもおどろおどろしい。

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暗く細い通路の先のロビー。変な手のオブジェがぶら下がっている。

日本にある建築とは思えないような、おもしろいマンションだった。あまりにもガウディに酷似しているとは思うのだが、それはカタルーニャの大建築家へのオマージュと理解すればいいだろうか。それにしても、見学するのは楽しいけれど、ここで生活するのはキツイかなぁ。

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