ウルバーネクハウス

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ナ・プシーコピエ通りからナーロドニー通りへ抜けるあたりでロンド・キュビズムで有名なアドリア宮殿の威風堂々たる姿が見えてくる。そこを南へ折れるとユングマノヴァ通りである。目指すウルバーネクハウスはアドリア宮殿の斜め向かいにその威圧的な様子とは対照的にひっそりと立っている。J.コチュラ、1912年の作品で、プラハにおけるモダニズムの萌芽と言われている。直線のみで構成された赤煉瓦壁の建物は劇場・店舗・住宅からなる複合施設。ファサードは上へ行くに従って微妙にセットバックしており、装飾らしい装飾はファサードを3分割する付柱くらいだが、こちらも上へ行くに従って厚みを増すようにつくられている。過剰ともいえるほど装飾に溢れた当時のプラハにおいて、シンプルなコチュラのこの建物はさぞや貧弱に見えたことだろう。

現在は違うだろうが、チェコでは装飾のない近代建築は兎小屋と言われた。日本の住宅もその小ささ故に兎小屋と揶揄されたが、コチュラの場合は何の装飾もない粗末な建物と言う意味だったろう。周囲のこれまでの建築事情を見れば無理もない。古くはルネサンス時代の絵画建築、新しくはファンタやポリーフカの華やかなアール・ヌーヴォー建築が陸続と建てられたプラハの街である。当然といえば当然の反応だっただろう。これまで構造材として使われていた煉瓦を意匠として全面的に使用した斬新さも、当時の人々にはいかにも粗末なと言う印象に一役買ったかもしれない。精神的に参っていた時期もあったようで、ワグナーシューレの仲間であるオルブリッヒに悲嘆にくれた手紙を送ったりしていたようである。コチュラの実作が少ないのは時代に受け入れられなかった故ということなのだろうか。

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ペテルカ館カでも書いたようにコチュラはチェコ近代建築の祖と呼ばれている。オットー・ワグナーに合理主義を学び、自らも1909年コチュラ自邸やライヒテルハウス、1912年ウルバーネクハウスと既にモダニズムと言っていい建築を建てている。アメリカのフランク・ロイド・ライトやイギリスのマッキントッシュ、オランダのベルラーヘ等世界の建築家にも興味を持ち、チェコの建築界に紹介もしている。プラハについて多数著作のある京都精華大学の田中充子助教授によると、そんなコチュラの根底にあったのは「芸術は必要によってつくられる」というモダニズムのあくなき追求だったのではないかということである。モダニズムと言えば誰もが真っ先に思い浮かべるのはル・コルビュジェだが、ル・コルビュジェが有名なドミノ・システムを発表したのは1914年のこと。そのころ既にJ・コチュラはモダニズム建築を建てている。スイス人のル・コルビュジェがフランスで活躍したように、チェコ人のミュシャがフランスに行ってメジャーになったように、コチュラの活躍の場がフランスであったら・・・と考えなくもないが、逆にコチュラがチェコにいなければ「建築博物館」と言われるプラハの町もかなり色あせたものとなったかもしれない。

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ペテルカ館

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ヴァーツラフ広場に面して立つペテルカ館は、ヤン・コチュラのプラハ帰国後最初の作品である。店舗と住宅の複合建築で、大きなガラスが嵌め込まれたプラハ最初の建物だと言う。男女の彫刻、花をモチーフにした化粧漆喰、鋳鉄の窓装飾を持つファサードはとても控えめな印象で、装飾性の高いプラハのアール・ヌーヴォー建築の中では異色の存在である。

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ヤン・コチュラはチェコ近代建築の父と言われる建築家である。1894年~1897年までウィーンのオットー・ワグナーの下で学んでいる。ワグナーの講座は「ワグナー・シューレ」と呼ばれ、ドイツのJ・M・オルブリッヒ、モラヴィアのJ・ホフマン、スロベニアのJ・プレチュニクといった傑出した建築家を輩出しており、コチュラもその一人である。コチュラはウィーンに招聘されたオーマンの後継者としてプラハの工芸美術学校で教鞭を振るった(このブログでも取り上げたホテル・セントラルの建設途中でオーマンがウィーンに招聘され、後を弟子の二人に引き継いだあのときのことである)。このペテルカ館は1899~1900年の作品なので帰国後早々に建てられているが、コチュラの実作は実際にはかなり少なく10件ほどしかないのだそうだ。建築家というよりも教育者としての功績の方が大きく、チェコは彼の門下生の手により近代化を進められて行くのである。

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全体に垂直性の高いすっきりとした印象のファサードがウィーン分離派らしい。

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プラハ保険会社

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ポリーフカのチェコ国立銀行のあるナ・プシコピェ通りを南西に進みヴァーツラフ広場を通り過ぎたところで、ナーロドニー通りという大きな通りに出る。都市整備の一環として整備されたナ・プシコピェ通りは経済成長期のプラハで新興ブルジョワジーのお洒落な散歩道となったが、そこを散歩するのはドイツ系市民ばかりでチェコ人はその先に続く通りを散歩したと言われている。そのためかナ・プシコピェ通りの続きのように見えるこの通りはナーロドニー、国民通りと呼ばれている。このナーロドニー通りをさらに西へ進むとそこはもうブルタヴァ川で、アールデコの内装で有名なカフェ・スラヴィアや国民劇場に辿り着く。その一角に至る少し前に柔らかな色彩のレリーフが印象的なポリーフカ設計のプラハ保険会社が立っている。1907年の作品である。レイアウトこそ左右対称であるが梟の彫刻やアルファベットに縁取られた窓等遊び心溢れるファサードは一際人目を引く。装飾になみなみならぬ力を注いだポリーフカらしい賑やかさだ。

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軒下のアップ。PRAHAと書かれている。チェコ国立銀行ではボヘミアンスタイルの半円装飾が並んでいたが、プラハ保険会社ではこんなお茶目な装飾に。

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中央の入口

この扉の奥に美しいステンドグラスの扉が続いている。

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アールヌーヴォーらしい扉口の文字

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中央の出窓の上の梟

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2階壁面はすべてレリーフで覆われている。

プラハにはポリーフカの建築が多く残されており、ポリーフカが如何に人気の建築家だったかよくわかる。このプラハ保険会社にしろ、ウ・ノバークの家にしろ、ポリーフカの建築は私にはかなり奇抜に見える。プラハは「百塔の街」「石畳の街」と呼ばれており、この呼び名はつまりプラハが中世の街並みをよく残す街であることを示す証拠だと思うのだが、そういう街でこのような奇抜な建築がよく受け入れられたものだと不思議でならない。市民会館はさすがに美観を損ねるとの抗議もあったらしいが・・・。

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チェコ国立銀行

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火薬塔が市壁の一部であったことは前回も書いたが、取り壊された市壁はその周りを囲んでいた濠を埋めるのに使用された。1760年のことである。火薬塔からヴァーツラフ広場を繋ぐナ・プシコピェ通り(お濠の上通り)がそれで、今ではプラハ随一のビジネス街となっている。そのナ・プシコピェ通り20番にポリーフカ1896年の作品であるチェコ国立銀行がある。ネオ・ルネサンス様式で軒下の装飾が美しいが、自己主張の少ないその建物は街並みに溶け込んでともすれば通り過ぎてしまいそうになる。過度に装飾的なポリーフカも初期にはこのよな落ち着いたデザインのものを手掛けていたのだと興味深く思った。

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軒蛇腹に半円形の装飾を並べる伝統的なデザイン

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繊細な草花文様はよく見ると絵ではなく漆喰装飾だった。手が込んでいる。モザイクはチェコの自然や伝説をテーマにしたミクラーシュ・アレの下絵をもとにしてつくられた。

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銀行の入口。赤いテレジア時代の番地と青いチェコ・スロバキアになってからの番地が左右についている。

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要石のレリーフ

この銀行は内部が非常に美しい。上の写真の小さな扉を入ると大きな階段ホールに出る。その階段を上がった先が銀行窓口のある部屋なのだが、この階段室の天井が品よく美しい。イタリアのバロックの宮殿を彷彿とするような本格派古典建築の風情である。優雅な階段を登りきり銀行窓口のある部屋へ入るとそこはガラス天井のアールヌーヴォー的空間が広がっている。銀行なので写真撮影はできないが、両替ついでに見学をすることは可能。好みはあるが抑制のきいたデザインのこの銀行は、いくつか見たポリーフカの作品の中で私は1番好きな作品である。

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ウ・ノバークの家

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ヴォデツォコーヴァ通りを歩いているとギマール風の美しい扉口の館に出会った。建物を見上げると華やかな色合いの壁画とベイウィンドウ下にムンクの「叫び」を思い出すような異様な表情の人の顔の装飾を見つけた。O・ポリーフカのウ・ノヴァークの家(1902~1904年)である。ポリーフカはジーテク教授のもと古典建築を学び、そのキャリアをルネサンス様式からスタートさせている。ポリーフカのファサードを飾る絵画はボヘミアン・ルネサンスからのものと思われ、そのためか保守層からも受け入れられプラハの公共建築を多数手掛けている。ウ・ノヴァークの家を建てた頃から、派手な装飾が目立ってきたようだ。

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ファサード中央を飾る花の女神フローラはJ・プレイスレルの手によるもの。時代を反映して商業と工業がテーマらしいのだが、言われないとわからない。

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ベイウィンドウ下の装飾。ウ・ノバークと言えばコレ!

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窓の下に張り付くカエル。ウ・ノバークにはカエルのモチーフがいくつか見られる。

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アイアンワークも凝っている。

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ギマール風入口の装飾

ちなみに、ウ・ノヴァークの家はヴォデツォコーヴァ通り30番。扉のステンドグラスが見事だけれど、昼間は開いているので気付かずに通り過ぎてしまうかも。

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トーネット・ハウス

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ブダペスト一の繁華街と言われるヴァーツィ通り。お土産でも買おうかと思い来てみたけれどめぼしいものはなく、ハンガリーって本当にお買い物は楽しくない国だわと少し淋しい気持ちになる・・・。そんな時ふと目に留まったのがこの建物。バルコニーの手摺や外壁のタイル、浮き彫りレリーフがなかなか美しい。後で調べてみるとこれもレヒネル・エデンの作品だった。1888年から89年にかけて建てられたもので、レヒネルスタイル確立前の作品だ。

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中世的なモチーフに装飾的なタイルの外装、過渡期の建築っぽい。

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屋根の曲線も美しい。

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3Fバルコニーの手摺

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2Fバルコニー

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ここはもともとトーネット家具のショールームだったのだそうだ。現在は化粧品か何かのショップですっかり改装されていたようだった。

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オ・プランタン

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オ・プランタンは1865年創業とパリで2番目に古い百貨店。設計はポール・セディーユ、アール・ヌーヴォー様式の丸い屋根が印象的なこの建物は歴史的建造物に指定されている。写真は夜のイルミネーション、隣接するギャルリー・ラファイエットに比較するとかなり地味で尚且つピンクのライトアアップってどうなんだろうという疑問が・・・。ピンクという色に対するイメージが日本人とフランス人では違うのかしら。

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入口の装飾。とても綺麗で足を止める人も多かった。

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ファサードの前の屋根下の装飾。雪の結晶と丸いオーナメントが可愛らしい。

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「ブラッスリー プランタン」1923年ブリエールにより作られたアール・ヌーヴォーのドームが一際目を引く。

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3185のピースからなるステンドグラス。凹凸のある曲面が美しい。

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ギャルリー・ラファイエット

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ギャルリー・ラファイエット・オスマン店のイルミネーションは年末年始、パリの観光名所。繊細な幾何学模様の光は賑やかなパリにあっても一際目を引く。ギャルリー・ラファイエットは創業1893年、当初はリボンや手袋といったファッション小物を扱う小さな店だったが、サン・ラザール駅がオープンしたため集客に恵まれ順調に発展していった。1906年ジュルジュ・セダンとフェルディナン・シャヌに新しいオスマンの店舗のデザインが依頼されたが、それがこのオスマン店のようだ。

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古い町並みの建物の間から覗くこのイルミネーションは物凄く目立つ。

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向かいの通りに建つ別館も綺麗。

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ギャルリー・ラファイエットの見所はなんと言ってもこのドーム。いかにもベル・エポックな感じで実に優美。

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ドーム部分は大きな吹き抜けになっている。各フロアにはまるでオペラ座の桟敷席のように優雅なバルコニーが並んでいる。

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ドームの下はこんな感じ。ちなみにこのドームの場所はドームの絵の表示が出ているのですぐにわかる。たくさんの人がやってきては、写真を撮っていた。

ところで、1893年創業と言えば随分古いと思うのだが、パリで最も古いのはセーヌ左岸にあるル・ボン・マルシェで創業1852年、世界最初の百貨店だそうだ。

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関係ないけど、ランス店のエレベーター。オスマン店と違い建物自体は大して美しくないのだが、エレベーターだけは綺麗だった。

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