商業施設

2012年9月28日 (金)

マグナ・プラザ

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アムステルダムにはいくつか見てみたい建築があったが、マグナ・プラザというショッピングモールもその一つだった。ダム広場から王宮と新教会の間を西へ抜けると、正面にその豪華なファサードが見えてくる。交互に赤と白を配したオランダらしい華やかさと、繊細な装飾が印象的な二つの塔.。設計者のペーテルスはネーデルラント・ルネサンス様式を参照したというが、それはフロアを仕切るコーニスや窓の形に表れているものの、建物のシルエットや表層を覆う装飾は見る者の視線を垂直方向へ奪い、最終的にゴシック的印象を強く残す。

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マグナ・プラザは19世紀の郵便局を改修したものだ。設計はC.H.ペートルス、1899年の作品だ。ほぼ1世紀の間郵便局として使用され、1993年にショッピングモールに転用された。

中へ入ると3階吹き抜けの大空間が待っている。四方を美しいギャラリーと砂岩のアーケードが囲む。王宮の裏にあるためか、しばしば「王宮より豪華」と比較の対象になるが、その内部はむしろロマネスクの修道院のような静かで安定したムードが支配している。外観とのギャップに少なからず驚かされる。

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二色使いの連続アーチは形の違いはあれどコルドバのメスキータを彷彿とさせるが、この時期のオランダでよく使われた装飾のようだ。円柱は上階に上がるにつれ細く軽くなり、全体に安定感を与えている。柱間のスパンも変わるためアーチの形状も変化を見せる。これらの円柱やアーチは改修時に新しく付加されたものもあり、それらは改修工事期間の短縮を図るため(おそらくは費用の削減も)、鉄骨に予め設計当初の柱と調和するように準備したコンクリートを被せたものを使用している。近距離でよほど注意して見ない限り殆ど気付かない。

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ガラスのドームは19世紀のオリジナル。

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このような歴史的な建築物の中にも近代的でスタイリッシュなエレベーターが設置されいる。


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マグナ・プラザの建築様式についてイギリスの国会議事堂と同じネオゴシックとする記事が散見されるが、建築の第一印象だけに頼った少々乱暴な見方かもしれない。中世キリスト教建築と古典主義建築を折衷するこの時期のオランダの気分は、イギリスのリチャード・ノーマン・ショウが好んだフリークラシックスタイルに通ずるものではないだろうか。

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2010年3月 6日 (土)

ダンスするビル

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ブルタヴァ川沿いでダンスしているビルがある。

写真で見たことはあったのだが、実物はもっと踊っていた・・・可愛い。ダンスするビルは、1995年ハヴェル大統領のお墨付きで建てられたプラハ唯一のポストモダン建築。設計はフランク・O・ゲーリーとウラジミール・ミルニッチ。工事の途中は「環境破壊」「プラハの汚点」とさんざん非難されたという。パリのエッフェル塔しかり、ルーブルのガラスのピラミッドしかり、よくある話である。竣工後市民の大半には評判が良かったようなのだが、知識人には受け入れられなかった。これもよくある話。私からすれば、ポリーフカよりよほど奇抜ではない気がするのに、実に不思議・・・。

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微妙に高さの違う窓。中から見るとどんな感じなのかな。

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ゲーリーはこのビルに、往年のダンスコンビ、ジンジャー・ロジャースとフレッド・アステアにちなんで「ジンジャーとフレッド」とニックネームをつけていた。上の写真はジンジャーのドレスの下から外を見たところ。

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ブルタヴァ川が眺められる1階のカフェ。元旦のこの日はやはりお休み。

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2010年2月27日 (土)

アドリア宮殿

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キュビズム建築の理論的指導者であったパヴェル・ヤナーク。残念ながらヤナークのキュビズム建築をプラハで見ることはできない。ファーラ邸が有名だが、プラハから南東約75kmにあるペルジモフという町にあり今回見に行くことは叶わなかった。プラハにあるヤナーク建築と言えばアドリア宮殿が有名だ。ナーロドニー通りとユングマノヴァ通りの角にあり、とても目立つのですぐに見つけられる。施主がイタリアの保険会社「リウニオネ・アドリアティカ・ディ・シクルタ」であったためアドリア宮殿と呼ばれている。赤と白の威圧的な外観はやはり日本の帝冠様式を想わせる。上部の四角い出っ張りは中世の要塞の胸壁のようだ。イタリアでは市庁舎等の建物で胸壁を持つものを度々見かけるが、それによく似ている。ル・コルビュジェがアドリア宮殿を見て「古代オリエントのアッシリア風建築」と評したそうだ。アドリア宮殿の斜め前コチュラのウルバーネクハウスがあり、ル・コルビュジェはそこで講演を行なっている。そのときのことだろう。

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赤と白はチェコの民族カラー。ゴチャールのチェコ・スロバキア・レジオン銀行をはじめ、ロンド・キュビズムに多い配色。

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オフィス入口

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アドリア宮殿の1階はパサージュになっている。プラハにも幾つかのパサージュがあるが、魅力的なものには出会わなかった。

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ヤナークは建築だけでなく、家具や食器等のデザインも得意だったようである。ヤナークデザインの食器はブラック・マドンナ一階のショップで購入することができる。値段は1万円位したような気がするので、チェコの物価からするとかなり高価なイメージだ。デザインはなかなか可愛らしく、キュビズム自体が建築よりもっとスケールの小さなものに向いているのではないかと私は思っている。

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2010年2月21日 (日)

チェコスロバキア・レジオン銀行

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プラハ、ナ・ポリーチー通りに随分豪華な内装の銀行があると本で読んだ。銀行なので写真を撮ることはできないが別に誰でも入れるとのことだったので、両替がてら見学に行くことにした。名前をチェコスロバキア・レジオン銀行といい、最初のキュビズム建築であるブラックマドンナを建てたヨゼフ・ゴチャールの作品らしかった。ファサードを見た率直な感想は、随分いかつい建築だなぁという感じ。なんだか日本の帝冠様式を思い出すような居丈高な建築だと思った。これはキュビズムの後に起こったロンド・キュビスムという様式なのだそうだ。

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第一次世界大戦が終わりハプスブルク家の支配から、遂にチェコスロバキアが独立した。その喜びに沸くチェコで、キュビスト達が次に作り出したのがロンド・キュビズムだった。円弧や円柱の連なる彫りの深いファサードは大仰で厳めしく、そしてとても民族的に見えた。大戦後ロシア構成主義へと進んで行ったホホルはロンド・キュビズムを「インディアンの酋長の顔のようだ」と揶揄したというが、それもなんだか頷ける。そこにはシャープに光を反射する斜めの面は見当たらず、深く幾何学紋を穿たれた壁面に刺青のような影が落ちる。キュビズムもロンド・キュビズムもチェコ独自のアイデンティティを追求した建築のはずなのに、何故こうも違うのか。似ているのは一つの主題の連続性と印象は随分違うがファサードの彫りの深さ、少しとっつきの悪い厳格さといったところだろうか。 

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打って変わって内装は喚起に沸くその世相を反映して、鏡やガラスを多用した軽やかで華やかなデザインだ。スラブ神話に由来する円弧と円柱が連なる幾何学的でいながら煌びやかな世界。玄関ホールは大理石や木材、鏡を使用し、豪華で上品な感じ。床は赤と白の民族カラーで仕上げられている。さらに奥へ進むと建物の中庭に出るが、そこが所謂待合となっており、周囲を色々な業務の取り扱い窓口が囲んでいる。中でも天井は素晴らしく、3つの円弧からなるヴォールト状のガラスから明るい日差しが差し込む様は何とも美しい。ロンド・キュビズムは他に「レジオン銀行スタイル」とも呼ばれるらしく、この建築の与えたインパクトの強さを物語っている。

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国民的建築家と目されているゴチャールであるが、その地位はこの時期に確立されたようである。その人気は今も根強く、2000年春チェコで行なわれた「20世紀のベスト建築家」というコンテストで、近代建築の父ヤン・コチュラを押さえて堂々の一位だった。一般人が選んだわけではなく、建築家・歴史家・評論家が選定したということだから、この意味は大きい。近代建築の父よりキュビスストを選んだ人が多かったということに、チェコって面白い国だなぁと何となく感心してしまったのである。

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2009年11月 3日 (火)

ウルバーネクハウス

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ナ・プシーコピエ通りからナーロドニー通りへ抜けるあたりでロンド・キュビズムで有名なアドリア宮殿の威風堂々たる姿が見えてくる。そこを南へ折れるとユングマノヴァ通りである。目指すウルバーネクハウスはアドリア宮殿の斜め向かいにその威圧的な様子とは対照的にひっそりと立っている。J.コチュラ、1912年の作品で、プラハにおけるモダニズムの萌芽と言われている。直線のみで構成された赤煉瓦壁の建物は劇場・店舗・住宅からなる複合施設。ファサードは上へ行くに従って微妙にセットバックしており、装飾らしい装飾はファサードを3分割する付柱くらいだが、こちらも上へ行くに従って厚みを増すようにつくられている。過剰ともいえるほど装飾に溢れた当時のプラハにおいて、シンプルなコチュラのこの建物はさぞや貧弱に見えたことだろう。

現在は違うだろうが、チェコでは装飾のない近代建築は兎小屋と言われた。日本の住宅もその小ささ故に兎小屋と揶揄されたが、コチュラの場合は何の装飾もない粗末な建物と言う意味だったろう。周囲のこれまでの建築事情を見れば無理もない。古くはルネサンス時代の絵画建築、新しくはファンタやポリーフカの華やかなアール・ヌーヴォー建築が陸続と建てられたプラハの街である。当然といえば当然の反応だっただろう。これまで構造材として使われていた煉瓦を意匠として全面的に使用した斬新さも、当時の人々にはいかにも粗末なと言う印象に一役買ったかもしれない。精神的に参っていた時期もあったようで、ワグナーシューレの仲間であるオルブリッヒに悲嘆にくれた手紙を送ったりしていたようである。コチュラの実作が少ないのは時代に受け入れられなかった故ということなのだろうか。

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ペテルカ館カでも書いたようにコチュラはチェコ近代建築の祖と呼ばれている。オットー・ワグナーに合理主義を学び、自らも1909年コチュラ自邸やライヒテルハウス、1912年ウルバーネクハウスと既にモダニズムと言っていい建築を建てている。アメリカのフランク・ロイド・ライトやイギリスのマッキントッシュ、オランダのベルラーヘ等世界の建築家にも興味を持ち、チェコの建築界に紹介もしている。プラハについて多数著作のある京都精華大学の田中充子助教授によると、そんなコチュラの根底にあったのは「芸術は必要によってつくられる」というモダニズムのあくなき追求だったのではないかということである。モダニズムと言えば誰もが真っ先に思い浮かべるのはル・コルビュジェだが、ル・コルビュジェが有名なドミノ・システムを発表したのは1914年のこと。そのころ既にJ・コチュラはモダニズム建築を建てている。スイス人のル・コルビュジェがフランスで活躍したように、チェコ人のミュシャがフランスに行ってメジャーになったように、コチュラの活躍の場がフランスであったら・・・と考えなくもないが、逆にコチュラがチェコにいなければ「建築博物館」と言われるプラハの町もかなり色あせたものとなったかもしれない。

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2009年7月20日 (月)

ペテルカ館

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ヴァーツラフ広場に面して立つペテルカ館は、ヤン・コチュラのプラハ帰国後最初の作品である。店舗と住宅の複合建築で、大きなガラスが嵌め込まれたプラハ最初の建物だと言う。男女の彫刻、花をモチーフにした化粧漆喰、鋳鉄の窓装飾を持つファサードはとても控えめな印象で、装飾性の高いプラハのアール・ヌーヴォー建築の中では異色の存在である。

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ヤン・コチュラはチェコ近代建築の父と言われる建築家である。1894年~1897年までウィーンのオットー・ワグナーの下で学んでいる。ワグナーの講座は「ワグナー・シューレ」と呼ばれ、ドイツのJ・M・オルブリッヒ、モラヴィアのJ・ホフマン、スロベニアのJ・プレチュニクといった傑出した建築家を輩出しており、コチュラもその一人である。コチュラはウィーンに招聘されたオーマンの後継者としてプラハの工芸美術学校で教鞭を振るった(このブログでも取り上げたホテル・セントラルの建設途中でオーマンがウィーンに招聘され、後を弟子の二人に引き継いだあのときのことである)。このペテルカ館は1899~1900年の作品なので帰国後早々に建てられているが、コチュラの実作は実際にはかなり少なく10件ほどしかないのだそうだ。建築家というよりも教育者としての功績の方が大きく、チェコは彼の門下生の手により近代化を進められて行くのである。

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全体に垂直性の高いすっきりとした印象のファサードがウィーン分離派らしい。

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2009年5月20日 (水)

プラハ保険会社

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ポリーフカのチェコ国立銀行のあるナ・プシコピェ通りを南西に進みヴァーツラフ広場を通り過ぎたところで、ナーロドニー通りという大きな通りに出る。都市整備の一環として整備されたナ・プシコピェ通りは経済成長期のプラハで新興ブルジョワジーのお洒落な散歩道となったが、そこを散歩するのはドイツ系市民ばかりでチェコ人はその先に続く通りを散歩したと言われている。そのためかナ・プシコピェ通りの続きのように見えるこの通りはナーロドニー、国民通りと呼ばれている。このナーロドニー通りをさらに西へ進むとそこはもうブルタヴァ川で、アールデコの内装で有名なカフェ・スラヴィアや国民劇場に辿り着く。その一角に至る少し前に柔らかな色彩のレリーフが印象的なポリーフカ設計のプラハ保険会社が立っている。1907年の作品である。レイアウトこそ左右対称であるが梟の彫刻やアルファベットに縁取られた窓等遊び心溢れるファサードは一際人目を引く。装飾になみなみならぬ力を注いだポリーフカらしい賑やかさだ。

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軒下のアップ。PRAHAと書かれている。チェコ国立銀行ではボヘミアンスタイルの半円装飾が並んでいたが、プラハ保険会社ではこんなお茶目な装飾に。

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中央の入口

この扉の奥に美しいステンドグラスの扉が続いている。

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アールヌーヴォーらしい扉口の文字

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中央の出窓の上の梟

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2階壁面はすべてレリーフで覆われている。

プラハにはポリーフカの建築が多く残されており、ポリーフカが如何に人気の建築家だったかよくわかる。このプラハ保険会社にしろ、ウ・ノバークの家にしろ、ポリーフカの建築は私にはかなり奇抜に見える。プラハは「百塔の街」「石畳の街」と呼ばれており、この呼び名はつまりプラハが中世の街並みをよく残す街であることを示す証拠だと思うのだが、そういう街でこのような奇抜な建築がよく受け入れられたものだと不思議でならない。市民会館はさすがに美観を損ねるとの抗議もあったらしいが・・・。

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2009年5月17日 (日)

チェコ国立銀行

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火薬塔が市壁の一部であったことは前回も書いたが、取り壊された市壁はその周りを囲んでいた濠を埋めるのに使用された。1760年のことである。火薬塔からヴァーツラフ広場を繋ぐナ・プシコピェ通り(お濠の上通り)がそれで、今ではプラハ随一のビジネス街となっている。そのナ・プシコピェ通り20番にポリーフカ1896年の作品であるチェコ国立銀行がある。ネオ・ルネサンス様式で軒下の装飾が美しいが、自己主張の少ないその建物は街並みに溶け込んでともすれば通り過ぎてしまいそうになる。過度に装飾的なポリーフカも初期にはこのよな落ち着いたデザインのものを手掛けていたのだと興味深く思った。

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軒蛇腹に半円形の装飾を並べる伝統的なデザイン

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繊細な草花文様はよく見ると絵ではなく漆喰装飾だった。手が込んでいる。モザイクはチェコの自然や伝説をテーマにしたミクラーシュ・アレの下絵をもとにしてつくられた。

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銀行の入口。赤いテレジア時代の番地と青いチェコ・スロバキアになってからの番地が左右についている。

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要石のレリーフ

この銀行は内部が非常に美しい。上の写真の小さな扉を入ると大きな階段ホールに出る。その階段を上がった先が銀行窓口のある部屋なのだが、この階段室の天井が品よく美しい。イタリアのバロックの宮殿を彷彿とするような本格派古典建築の風情である。優雅な階段を登りきり銀行窓口のある部屋へ入るとそこはガラス天井のアールヌーヴォー的空間が広がっている。銀行なので写真撮影はできないが、両替ついでに見学をすることは可能。好みはあるが抑制のきいたデザインのこの銀行は、いくつか見たポリーフカの作品の中で私は1番好きな作品である。

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2009年5月 4日 (月)

3つの白薔薇館

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「プラハに行ったらハードロックカフェでピンズ買って来てね。旧市街広場に出来たらしいから絶対通るはずだし。」

プラハ旅行の直前、姉からメールが来た。なんでもチェコ初のハードロックカフェが最近オープンしたらしいのである(といっても08年年末の話だけど)。私の実家では海外へ行ったら必ずハードロックカフェのご当地ピンズを買って来ることになっていて、おかげで私自身も結構な数のコレクションが収集されつつある。

旧市街広場は確かに何度も通るところだが、折りしもクリスマス市が開かれているため、全く見通しが利かない。それでもハードロックカフェのことだから派手な看板が出ているはずだしそのうち見つかるだろうと鷹をくくっていたのだが一向に見つかる気配がない。散々周辺を歩き回ってみて、旧市街広場から一歩入った小さな広場(マレー広場というらしい)でやっと見つけた。

上の写真のファサードの繊細な壁画が美しいいかにもプラハの伝統的な館らしい建物が、チェコ初と噂のハードロックカフェである。情報に誤りがあったのも問題だったが、何よりもあのいつもの派手な看板がなかったのが問題だった。建物の1階入口上に小さく「HARD ROCK CAFE」と書いてあるだけなのである。あの派手なマークを探して歩いていたから余計にわかりにくかった。やはり、京都のマクドナルドのMが茶色なのと同じで、美観を損ねるという理由で許可されなかったのだろう。どうせなら、あのギターのマークで小さな標識を造ってくれれば話のネタになったのに・・・。

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この館は「3つの白薔薇館」と呼ばれているらしいが、もとはロッツ金属商会の建物だったらしい。設計はL・ノヴァークとA・オフボァーであることはわかったが、何年頃に建てられたものかはわからなかった。

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軒下に半円形のレリーフを連ねるのはボヘミアン・スタイルによく見られる装飾。

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驚くほど繊細な壁絵。建物のファサードを絵で飾る装飾はルネサンス期から始まったようだ。プラハにはこのように壁絵が美しい建築が数多く残っている。

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2009年5月 3日 (日)

ウ・ノバークの家

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ヴォデツォコーヴァ通りを歩いているとギマール風の美しい扉口の館に出会った。建物を見上げると華やかな色合いの壁画とベイウィンドウ下にムンクの「叫び」を思い出すような異様な表情の人の顔の装飾を見つけた。O・ポリーフカのウ・ノヴァークの家(1902~1904年)である。ポリーフカはジーテク教授のもと古典建築を学び、そのキャリアをルネサンス様式からスタートさせている。ポリーフカのファサードを飾る絵画はボヘミアン・ルネサンスからのものと思われ、そのためか保守層からも受け入れられプラハの公共建築を多数手掛けている。ウ・ノヴァークの家を建てた頃から、派手な装飾が目立ってきたようだ。

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ファサード中央を飾る花の女神フローラはJ・プレイスレルの手によるもの。時代を反映して商業と工業がテーマらしいのだが、言われないとわからない。

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ベイウィンドウ下の装飾。ウ・ノバークと言えばコレ!

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窓の下に張り付くカエル。ウ・ノバークにはカエルのモチーフがいくつか見られる。

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アイアンワークも凝っている。

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ギマール風入口の装飾

ちなみに、ウ・ノヴァークの家はヴォデツォコーヴァ通り30番。扉のステンドグラスが見事だけれど、昼間は開いているので気付かずに通り過ぎてしまうかも。

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