ヴァナキュラー建築

2013年2月16日 (土)

チェスキー・クルムロフ

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チェスキー・クルムロフに着いたのは夜だった。翌朝から町の散策に出かけ、チェスキー・クルムロフ城のある小高い丘から川向こうにある町を眺めた。朝のぼんやりした光の中を、家々の煙突から幾筋もの煙が立ち上っていた。冷たい冬の空気の中で町全体が呼吸をしているように見えた。
旅行をしていて冬に来て良かったなぁと思うことは少ない。というより、寒いし、風は強いし、空はどんよりしていることが多いし、ヨーロッパの冬は最も観光に適さない季節である。それでもごく稀に、冬もいいなと思う瞬間がある。キーンと切れるような冷えきった空気の中で凍えそうになりながら見るのがよいという景色もたまにはあるのだ。

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チェスキーは「ボヘミアの」、クルムロフは「湾曲した牧草地」という意味で、ドイツ語の「Krumme Aue」に由来するのだそうだ。

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チェスキー・クルムロフはその名の通り蛇行するヴルタヴァ川のS字部に開かれた町で、豊かな緑に囲まれた赤い屋根の美しい街並みは「ボヘミアのシエナ」とも言われている。

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チェスキー・クルムロフは14~16世紀の間ボヘミアの有力貴族であるローゼンバーグ家の下に手工業と交易により繁栄した。ルネサンス様式の華やかな町並みは最も繁栄を極めたこの16世紀に造られたものだ。

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建物の壁に石積みを描くような騙し絵はチェスキー・クルムロフでもよく見かける。これも16世頃ボヘミア全土に広がったもの。

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しかし町の繁栄とは裏腹にローゼンベルグ家の財政は破綻を来たしており、チェスキー・クルムロフは借金の抵当にされ、1601年には神聖ローマ皇帝ルドルフ二世の手に渡ってしまう。その後町の支配者は転々とし、1622年にエッゲンベルグ家、1719年シュヴァルツェンベルク家へと変わって行くが、シュヴァルツェンベルク家も19世紀にはチェスケー・ブディェヨヴィツェ北4kmのフルボカー城へと居城を移した。主要な鉄道網からも外れ近代化の波に乗れなかったため町は徐々に寂れて行き、第一次世界大戦前にはチェスキークルムロフ縁の画家であるエゴン・シーレが町がなくなってしまうと危惧するほどだったという。

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しかしながら近代化の波に取り残されたことにより、チェスキー・クルムロフには繁栄した当時のルネサンスの町並みがそのまま保存されることとなった。1989年ビロード革命以降歴史的景観の価値が見直され旧市街の修復が進められた。現在ではユネスコ世界遺産にも登録される美しい町並みが蘇り、世界で最も美しい町の一つと言われている。幸いにもシーレのそれは杞憂に終わったようだ。

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2013年2月 1日 (金)

アムステルダムは北のヴェネツィア?

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運河の町アムステルダムは時に北のヴェネツィアとも形容される。どちらも無数の基礎杭の上に立つ町で、アムステルダムに「住民は鳥のように枝の上で暮らしている」という言葉があるように、ヴェネツィアにもヴェネツィアをひっくり返すと森になる」という言葉がある。物理的には似ているはずのこの二つの都市は、訪れてみるととても似ていない。何が違うのか。

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アムステルダムとヴェネツィアでは、運河の体感され方が違う。アムステルダムでは運河を超える度に、今自分が町のどのあたりにいるのか大体の見当がつく。幾何学的に運河が敷設されているため、町の大雑把な地図を頭に描きやすいのだ。南に運河を○本超えたからもうすぐ目的地に着くよねといった風な目安になる。例えるなら京都の碁盤の目のようなもので、非常に透明性の高い街並みになっている。

一方ヴェネツィアでは適当に通りを歩いているとすぐに袋小路につきあたってしまう。行き止まった原因は大抵運河である。ヴェネツィアでは運河はまるで迷路をつくりだす装置のように感じられる。場所が認識できる運河はカナル・グランデくらいで、あとはもう何が何だかわからない。まさしく迷宮都市である。

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二つの都市の運河の違いにはそれなりの理由があるようだ。

一つはヴェネツィアの属する文化圏だろう。イスラーム圏やエーゲ海の島々等地中海世界に迷路のような街並みが多いことはよく知られている。イタリアでも早くから海洋国家として知られている街には迷宮性の高いものが多く、ヴェネツィアもその一つである。

また、ヴェネツィアは小島が集まってできているため、道よりも水上での移動の方が重要だった。運河は自然な水の流れに沿って整備され、それに従って島の形が微調整された。そうなると運河は自然と複雑に曲がったり、歪んだりしたものになる。ヴェネツィアが技術的にも経済的にもまだ成熟していなかった中世の早い時期に作られたことも一因になっているだろう。普通に考えて交通網を作るならまっすぐに引こうと思うものだが、この時期のヴェネツィアに都市計画はなかった。

それに比べてアムステルダムは都市計画の申し子のような都市である。

アムステルダムには二つのシンゲルという名の運河があり、通常、中央駅から近い方をSingel(シンゲル)、遠い方をSingelgracht(シンゲル運河)と区別している。シンゲルとはオランダ語で「囲む」という意味で、シンゲルは1480~1585年までの外堀。シンゲル運河は17~19世紀までの外堀となっている。16世紀アムステルダムは、衰退していくアントワープに代わる中継貿易拠点として繁栄し17世紀にそのピークを迎えるが、急増する人口と都市の防衛に対応する必要が生じた。16世紀末に3万だった人口が17世紀半ばには22万、約1世紀の間に7倍以上に膨れ上がったのだからもの凄い。そのため17世紀初め都市計画が立案され、アムステルダムはシンゲル運河まで拡張される。特徴的な扇状に広がる運河はこの時点で完成されたのである。余談ながら運河の敷設工事は北から南へ一本一本造られていったように思いがちだが、実は西から東へと進められたのだそうだ。必要に応じて運河を増設していったのではなく、整然とした都市計画の下に工事が行われていたことが伺い知れる。その結果、アムステルダムはよく手入れされた公園のような景観の都市になった。

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よくわからないが、ヴェネツィアは見通しがきかず、内奥になにか隠し持っていそうなミステリアスな中世都市で、アムステルダムは人の理性で見事に制御された透明性の高い近世都市、といったところだろうか。あくまで見た目の話であるが、アムステルダムはなんだか「新しい」のである。先鋭的とか最先端とかそういう意味ではなく(ウォーターフロントにはそういう建築も多いが)、日本人観光客が思うヨーロッパの古い街並みよりずっと「新しい」のである。通りに並ぶ建物は伝統的な形をしているにも関わらずこの感覚は拭えない。あまりにも完璧な街造りの結果だろう。それは悪く言うと、綺麗だけれど素っ気ないという意味でもある。公園のような景観は美しいけれど意外性がない。ヨーロッパ好きな日本人観光客がここに来ると、「求めていたイメージと違う」と感じる人も少なくないのではないだろうか。むしろこのような整備の行き届いた景観は日本人より西欧人好みなのかもしれない。オランダはヨーロッパでは人気の高い観光地だと聞く。日本庭園と西欧庭園の違いを考えると、あながち見当はずれでもないような気がしてきた。

それにしても、この都市計画が17世紀のものだったとは・・・。都市計画で有名なパリやローマと比較してもなんと斬新なことだろう。好き嫌いは別にしても、これほど凄いと思った都市は他にないかもしれない。

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2013年1月25日 (金)

アムステルダム

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アムステルダムほど航空写真がおもしろい都市は少ないのではないだろうか。中央駅を中心に5本の運河が扇状に広がる様子は、さながら幾重にも堀を巡らせた巨大な要塞のようだ。街の輪郭がはっきりと見える。そういう街は魅力的だ。オランダには「世界は神が創りたもうたが、オランダはオランダ人が創った」という言葉がある。確かにこれほど巨大に、それでいて精緻に人の手が行き届いた都市は他にないかもしれない。

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アムステルダムの歴史は13世紀に遡る。もとは小さな漁村であったところを、アムステル川をダムで堰き止め町を築いた。それがそのまま町の名前の由来となっている。それ以来、海面より低い土地を北海から守るため、砂丘や堤防、ダム、基礎杭、水門といった施設をつくり(利用し)、湿地帯や湖を干拓するために風車や蒸気機関といった技術的な研究が推進された。アムステルダムの歴史は海との戦いの歴史だったのである。今もアムステルダムでは人口の60パーセントがN.A.P.(通常アムステルダム水準)より低い土地に住んでいる。N.A.P.とはポルダー(干拓地)の標高を図るための水準である。そのような水準があること自体が既に驚きである。

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16世紀の人文主義者エラスムスはおもしろい言葉を残している。

「アムステルダム市民は鳥のように樹木の頂上で暮らしている」

アムステルダムはヴェネツィアと同じように脆弱な地盤に建設するため、無数の基礎杭が打たれている。オランダらしい切妻の3~4階建ての家並は16世紀頃から建てられはじめたが、立派な煉瓦造に見えるのは外観だけで内部は木造というものが多かったらしい。本格的な石造建築になると重量も余計にかかるので、それだけ杭の本数も増えることになる。有名なものでは、
  中央駅       8687本
  マグナプラザ   4650本
 
  王宮        13659本
  コンセルトヘボウ 2186本(のちに400本の金属チューブに移転)
王宮より立派とよく言われるマグナプラザであるが、こうやって比較すると王宮の方が断然立派であることが証明されるのである。

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アムステルダムの街並みのもう一つの特徴は、大きく発展したルネサンス風破風を持つ細長い中層建築だろう。間口の幅で税金を決められたために縦に細長く造られたと言われている。もともとは中世フランスと同じく窓の数で課税されていたらしいが、16世紀になって間口税が導入されたのだそうだ。この窓税や間口税は外観で判断できるためプライバシーを侵害されないというメリットがある。実はなかなか合理的な方法だったようだ。

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間口の狭い家では大型荷物を滑車で釣り上げ直接窓から入れることになる。そのため大抵の家の破風に棒状の滑車軸がつけられている。こうした特徴はベルギーやドイツ、チェコでも見られるので、アムステルダムの特徴というよりも北ヨーロッパによく見られるものと言った方がいいかもしれない。
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中央駅前のダムラックは、もともとはアムステルダムの中心的な港だった。今は駅に塞がれてしまい、運河クルーズの発着所の一つとなっている。

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2011年2月16日 (水)

プローチダ島ポルト・グランデ

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プローチダ島へはナポリから船で40分~1時間。どの会社を利用しても船は全てこのグランデ港へ到着する。言わばプローチダ島の玄関のようなところ。プローチダ島と言えばコッリチェッラのイメージだが、ポルト・グランデの家並みもかなり可愛らしい。この港の山を挟んだ反対側がコッリチェッラになり、山も高くないので道さえ迷わなければ歩いて行けそうに思えた。プローチダ島はとても小さい。

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コッリチェッラはどの家も壁が美しく塗りかえらていたが、こちらは結構薄汚れた感じ。一年に一回の塗り直しが義務付けられてはいないということか。こう言ってはなんだけど、こういうくすんだ感じも味があっていいなと思う。なんか、イタリアっぽい(笑)

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プローチダ島は何故か半トンネル・ヴォールトの使用率が高い。

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上の家へと登って行く階段。この階段の天井も半トンネル・ヴォールトになっている。狭い場所に高さを確保するための工夫なのかな。建物のファサードに半トンネルヴォールトが多いのは、ファサードを横切るように付けられた階段との収まりの関係かと思っていたのだけど・・・。気になる。

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2011年2月 8日 (火)

プローチダ島コッリチェッラ

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1950年代ナポリ沖の小島を舞台にした「イル・ポスティーノ」という映画がある。チリの国民的英雄で詩人のパブロ・ネルーダが亡命しこの島にやってくる。島の貧しい若者マリオが世界中から詩人に送られてくるファンレターの専属配達人になる。はじめは愚鈍とさえ言えるようなマリオが恋をし、詩人と接して行くうちに徐々に心の目を開かれて行く様子が微笑ましく、年齢も環境も全く異なる二人の交流がイタリアの自然の中でほのぼのと描かれるいい作品だった。この映画の舞台になっている小島というのが、このプローチダ島である。

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ナポリからの船が着くグランデ港からのバスはこの教会前の見晴台に着く。教会横の階段を降りれば映画のロケに使われたコッリチェッラの浜だ。因みにこの教会も映画にチラリと登場する。

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外階段とカラフルな壁が特徴的なプローチダの町並み。

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個々の家が思い思いの色を塗っているのは、遠くへ出ていた漁師が戻ってきたときに海からでも自分の家がすぐに見分けられるようにということなのだそうだ。

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ここがマリーナ・コッリチェッラ。右手の高台に見えるのはヴァスチェッロ城。城の手前にある見晴台からのコッリチェッラの眺めはとても美しい。城の向こう側にも海に向かう見晴台があり、「イル・ポスティーノ」のようにプローチダの自然の音に耳を傾けるのもいい。

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映画の舞台となったベアトリーチェのバール。「レストラン イル・ポスティーノ」として今も営業中。パラソルが邪魔になって特徴的な階段がよく見えないが、何度も出て来るこの入口のカットがとても印象的だった(二つ下の写真のような感じ)。店の中には主演のマッシモ・トロイージをはじめ映画に関連する写真が幾つも飾られている。店の方に写真をお願いすると快く引き受けてもらえた。頼まなくても写真が飾られた壁面がわざわざバックに入るように撮ってくれたりとても親切だったので、この映画のファンの方は是非ともここでお食事を。

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レストランの横には映画のロケ地を示す看板が掛かっている。「マッシモ・トロイージの遺作」と書かれている。トロイージはこの映画の撮影中既に心臓病を患っており、完成直後に41歳の若さで亡くなった。

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プローチダは階段の在り方がとても特徴的。ファサードを横切る階段の下に玄関や窓といった開口部が造られる。映画の中でバールの営業終了後、ベアトリーチェが店内の階段から二階へ上がり、まだ店にいる母に見つからないよう店の入口上を横切る外階段からこっそり降りて外出するシーンがあるが、この町ならではといったところ。

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プローチダ島は人気のリゾート地ではあるが、アマルフィ海岸などと比べるとまだまだ人も少なく静かである。洒落たカフェやショップは期待できないが、何もしないでただ空や海を愛でるのもきっと幸せな一日。

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2011年1月27日 (木)

アマルフィ

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イタリア、カンパーニャ州のアマルフィは、織田裕二主演映画「アマルフィ 女神の報酬」で日本でも一躍有名になった。私が見たのは飛行機の中だったのだが、それでもアマルフィの遠景が映し出されるシーンは音楽の効果も手伝ってとても壮大で美しかった。大きなスクリーンで見なかったことが悔やまれた。

アマルフィを訪れたのは八年前のことだ。ちょうどヴァナキュラー建築とイスラーム建築に強く興味を持っていた頃で、その旅行でプーリアとアマルフィ海岸を見る予定だった。特にアマルフィは山と海に挟まれた猫の額ほどの土地にしがみつくように広がる町の姿とその中心に聳えるイスラーム風の教会が当時の私の気分にマッチしていた。

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アマルフィはギリシャ神話の英雄ヘラクレスが作った町なのだそうだ。ヘラクレスは愛した妖精の死を悼んで世界で最も美しい地に亡骸を埋めて町を造った。町はその妖精の名前を取って「アマルフィ」と名付けられたという。この話で面白いのは「世界で一番美しい町だから」ではなく「世界で一番美しい土地」に造られた町だからアマルフィは美しいのだということだ。自然に対する深い敬意と感謝が感じられるこの話は、何となく親近感を起こさせる。ギリシャ神話という多神教の神話が名前の由来になっているように、日本で言うところの八百万の神のような海の神、太陽の神といった様々なものに神が宿るという感覚がこの町には残っているのかもしれない。因みに「アマルフィ」の小説の方ではこの町の謂れを紗江子が話す件で、眺めは素晴らしいがイタリアにはよくある港町というクールな黒田らしい感想が挿まれる。確かにイタリアにはチンクエテッレやプロチーダ島のコリチェッラなどよく似た風景を持つ港町が多い。イタリアはヴァナキュラー建築の宝庫だ。

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今では隠れ家的人気リゾート地の印象が強いアマルフィもかつてはヴェネツィア・ジェノヴァ・ピサと肩を並べる海洋都市だった。陸側を険しい山に囲まれた陸の孤島のような立地であったため、海へと意識が向かったことは自然なことだったに違いない。アマルフィは9世紀頃から高度な造船技術と優れた航海技術を持ち、いち早くアラブやビザンチン帝国との貿易を開始した。ヨーロッパで初めて羅針盤を使用したのもアマルフィの船だったそうだ。10世紀末には絶頂期を向かえ、その後はシチリアとの関係やジェノヴァ・ヴェネツィアの台頭により次第に衰えていった。

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島国である日本も海とともに生きてきた国だが、その関り方は大きく違う。古くから海洋貿易で栄えたアマルフィにはエキゾチックな美しい町並みが残された。特に目を引くのは広場奥の高台にたつドゥオモとその鐘楼である。ドゥオモは10世紀にロマネスク様式で建てられ、18世紀にバロックに改装された。ファサードだけは19世紀の装飾で、ビザンチンやアラブ・ノルマンの影響が色濃く引き継がれている。鐘楼(上から3番目の写真)は13世紀に建てられたもので、その尖塔の連続交差アーチとその色合いはシチリア、パレルモ近郊モンレアレのドゥオモの装飾との類似を示している。この鐘楼の10年ほど前には「天国の回廊」という真っ白な尖頭形連続アーチの連なるアラブ風回廊が作られており、この小さな国が如何に開かれた国であったことかと驚かされる。建築は時に過去への様々な手掛かりを残す。キラキラ光るビザンチン風モザイクを見ながら在りし日を想像するのも楽しい。

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2011年1月19日 (水)

マルティーナ・フランカの教会

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バロックの町マルティーナ・フランカ。狭い路地のあちこちから壮麗なバロックの教会が顔を覗かせている様子を見るとこの町が18世紀に栄えたのだろうということが想像できるが、その繁栄の土台は14世紀フィリップ・ダンジューが打ち出した都市建設の政策にあったのだという。宿屋や食料品店、公共のかまど等町での生活に必要な設備を整え、長期の借用権や信用貸しの繰り延べ、他地域で犯した罪の免除等寛大な条件により住民を増やした。最も有名なものが税金の免除でこれは町の名前の由来にもなっている。マルティーナ・フランカのフランカはイタリア語でFREEという意味で、「TAX FREEのマルティーナ」ということなのだそうだ。因みに、3世紀後セルヴァ(現在のアルベロベッロ)のジイロラモも免税以外のこの政策を試み、町の人口増加に成功している。

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ところで、マルティーナ・フランカとアルベロベッロの間でこんな話が残されている。アルベロベッロのトルッリが当時のセルヴァの領主ジイロラモの脱税行為の産物であったことはよく知られているが、この脱税行為を周囲の領主は当然快く思っていなかった。1644年マルティーナ・フランカの公爵フランチェスコ1世はこの行為をスペイン裁判所に訴え出た。このときはジイロラモがスペイン王の税査定官が到着する前に建物を壊すことができたため事なきを得たが、5年後スペイン王フィリップ4世に裁判所への出頭を命じられ、遂に罪に問われることとなる。彼はしばらくスペインに拘留された後友人の助けにより許されたが、その帰途バルセロナにて客死、再度プーリアの地を踏むことはなかったということだ。マルティーナ・フランカの公爵にしてみれば自領地の民を免税にしつつもきちんと税を納めていたのだからはらわたの煮えくり返るような思いだったのだろう。ただ、セルヴァの脱税に関する政策はジイロラモの死後も後継者に引き継がれたので、マルティーナ側が溜飲を下げられたのはほんの一時のことだったかもしれない。とはいえ、18世紀には天才建築家ベルニーニに宮殿を建てさせるほどの繁栄を見せることになったのだから、最終的には正直者がバカを見るというようなことにはならなかったと言えるだろう。今は静かなプーリアの町にも色々な物語があって面白い。

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バロックの教会は柱頭のデザインも凝っている。

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プレビシート広場にあるサン・マルティーノ教会

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サン・マルティーノ教会扉上の彫刻。同じ南イタリアのバロックでもレッチェのようにファサードを彫刻で覆い尽くすようなことはしないようだ。

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西の端にあるカルミネ教会のドーム。6角形の格間が美しい。この教会横の公園は見晴台になっており、遠くにロコロトンドが望める。

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2010年12月27日 (月)

マルティーナ・フランカ

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アルベロベッロから電車で約10分ほど行くとバロックの町マルティーナ・フランカに到着する。この町にはバロックのフィレンツェと呼ばれるレッチェからの電車もあるので、南イタリアバロックめぐりをするのもいい。イタリアンバロックと言えばローマを思い浮かべがちであるが、シチリアやプーリアのバロックはこれはこれで独特のムードがありこちらの方が好みだと言う人も結構いるようだ。

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マルティーナ・フランカもプーリアらしい白い町。素朴な白い漆喰の壁に凝ったバロック装飾の窓や扉が現れる。

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こんなに美しい町なのに観光客は殆どいない。オストゥーニやロコロトンドの方が観光地化されている。この後人恋しくなってアルベロベッロに寄り道したら、そこの土産物屋の人に「何も無かったでしょう」と笑われた。

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石灰プラスターの白壁にこの装飾的な窓はやはり意外な組み合わせ。

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木製の扉も美しい。

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何と表現していいかわからないのだが、他のプーリアの町と違い街路や壁の線が直線的ですっきりしている。表現を変えると、石灰の家に見られる丸みがない。逆にそんなところもマルティーナ・フランカの魅力になっている。

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プーリアの町を歩いているとふとした瞬間にデ・キリコの絵の中に迷い込んでしまったような錯覚に陥ることがある。別段デ・キリコの絵に詳しいわけではなく、何故そんな印象を受けるのか自分でも不思議なくらいだ。大体デ・キリコを思い出すならモデナやフェラーラじゃないのかとも思う。

太陽の光に晒されてまぶしいくらいに真っ白な路地を歩いていると、通りの奥に暗いトンネルがあり、さらにその奥に真っ白な階段が覗いていたりする。その奥に見える階段は「その階段」「あの階段」といった具体的な物質性を伴うことなく、その機能だけを抽出され、彫像のような無機質さでそこに置かれている。階段は確かなどこかに繋がっているようでもあるし、何処へも行かないようでもある。ただ漠然と何らかの「予感」だけがある。例えば心の中にある風景から重要でないものを順番に消して行ったら最後に残るのは迷路のような白い路地と階段だけで「ほら、これがモノゴトの本質だよ」と言われたようなそんな感じがする。

自分が思い浮かべているものが何という絵だっただろうかと調べてみると、「通りの神秘と憂愁」というタイトルだった。モデナのような柱廊と輪っかで遊んでいる少女、何者かの影だけが描かれている、懐かしいようでありながら空虚で不安感を抱かせる絵だ。描かれている物も色合いも全く異なるのに、タイトルだけはぴったりで笑ってしまった。

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こういうところは他のプーリアの町と変わらない。

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旧市街の中心プレシヴィート広場の裏にあるインマコラータ広場。円形に展開されるアーチが美しい。

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2010年12月20日 (月)

ロコロトンド

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その名の通り丸い町ロコロトンド(ロコは場所・ロトンドは丸い)。ロコロトンドの町に着いたのはほんの偶然だ。アルベロベッロからチステルニーノへ行こうとして乗り換えの駅を間違えたのだ。アルベロベッロのホテルでチステルニーノへの行き方を訊ねたところ、Sud-estの路線図を見ながら「ロコロトンドで乗り換えて2駅だね」と教えてくれた。しかし、ロコロトンドで駅員の方に訊ねると「チステルニーノ行きの電車はここには停まらないから、マルティーナ・フランカまで行ってそこで乗り換えだね」と言われてしまった。次の電車まで時間があったので、駅員さんに荷物を預かってもらってさらっと町を見学することにした。思えばよい時代だった。例のテロ以来個人的に荷物を預かってくれるなどあり得ない話である。因みにSud-estの駅はどれも非常に小さくコインロッカーや手荷物預かり所はほぼない。

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こう見えてもロコロトンドはなかなかの観光地で、駅から町の中心への道もすぐにわかる。

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町のつくりは他のプーリアの町に比べると単純で力強い印象がある。

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小さな窓辺には鉢植えが置かれ、白い壁に映えて美しい。

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旧市街へ入る前の広場にあった教会。ロコロトンド旧市街にはバロック様式の立派な教会もあるが、心に残ったのはこの小さなロマネスクの教会。石の量感が素朴な美しさを感じさせてプーリアらしい。

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上の写真の教会の薔薇窓。何の飾り気もないファサードに、こんな凝った装飾が施されているのには驚く。

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駅を挟んで旧市街とは反対方向の場所にあった教会。浅く重ねられたファサードがパッラーディオのレデントーレ教会みたいで可愛らしい。

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町の展望台からはトルゥッリのある谷が見下ろせて気持ちがいい。オストゥーニ、マルティーナ・フランカからの展望もよいけれど、ロコロトンドが一番綺麗だった気がする。

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2010年12月15日 (水)

オストゥーニ

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「白いオリーブの女王」と呼ばれるオストゥーニ。バーリとレッチェの丁度中程に位置しており、FS線(イタリア国鉄)でどちらの都市からも一時間ほど行くと小高い丘の上に円形に広がる白い町が姿を現す。プーリア地方らしいその光景は初めて訪れる者に一瞬目を見張らせる。

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駅前で待機していたミニバスに乗ってオストゥーニの町まで。町の中心の広場までは10分程度の道のりだ。

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オストゥーニも先に書いたチステルニーノもプーリアの町は細く曲がりくねった路地が続き、迷路のようになっているところが多い。真っ白に塗られた壁がさらにその迷宮性を高めているようにも感じられる。この迷路のような路地は一般的にはイスラームの地域に起源を求められるが、建築史家陣内秀信教授はその著作の中でイスラームというより地中海地域全般の特性ではないかと書かれている。確かにイタリアのプーリアにはイスラームの匂いは感じられない。

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このような迷路のような路地が造られた理由は、一般的には敵が攻めてきたときに町に入りにくくするためと言われている。これには異論があって、戦車や大砲等幅のあるものが通れず、曲がりくねった道ではスピードも出せないということであれば、味方についても同じことが言えるではないかというものである。そういえばそうだなぁと何の知識もない私などは簡単に納得してしまうのだが、そもそも迷路なるものは侵入者を寄せ付けないためのものなのか内部の者を外へ出さないためのものなのか、その存在の意味自体が非常にあやふやだと言わざるをえない。

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地中海と迷路(ラビリンス)の組み合わせから、ミノタウロスが住むとされるクノッソスの迷宮の物語を思い起こすのは簡単だ。愚かな人間と無慈悲な神のためにこの世に生み出された半牛半人のミノタウロスは成長するごとに増して行く凶暴性を持て余され、名匠ダイダロスの手による地下迷宮に閉じ込められてしまう。実の子や夫でさえ殺してしまうギリシャ神話においてこのミノタウロスが殺されなかったことは非常に興味深いが(王妃にとっては実の子でもミノス王にとっては他人だ)、この幽閉の仕方も実に興味深い。内部へと取り込む力の働きは明確だが、物理的完全さはない。なんとも情緒的な幽閉。曖昧な境界線。卵が先か鶏が先かはわからないが、地中海の迷路のような町並みとこの物語の精神性は無関係ではないのだろうと思われる。

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現代のファンタジーでもラビリンスを扱ったものは多い。スペイン映画の「パンズ・ラビリンス」やアメリカ映画の「ラビリンス」等は、外部からの侵入を防ぐため、ないし入ることを許可されないものを排除する機能としてのラビリンスが描かれる。いずれにしても、「内部」と「外部」の関係性によってラビリンスの存在がクローズアップされるのであるが、この感覚は日本人には無いような気がする。そのためなのか、こうした入り組んだ路地のある町並みには妙に惹かれるものがある。

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オストゥーニはチステルニーノのような外階段はあまり多くは無い。が、町の造りの複雑さは同じだ。上の写真は手前の階段が通りから降りてくる階段でそのまま個人宅への階段に続いており、通りへの階段は左へ下がったところへ降りていく。

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このようなトンネルヴォールトの多さも幻想的な魅力をつくる。

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トンネルヴォールトの上にも住居がある。

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トンネルの中へ直接繋がる階段

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階段が平行に並ぶ姿はこの町ではよく見かける。

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水平に広がる力はバットレスで支えられる。

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因みに、地中海の迷路のような町並みが町の防御に有効ではないのかという議論についてだが、やはり有効なのだそうだ。例えばエーゲ海の島では下から町を攻めるにあたっては迷路のように広がる通りが敵を混乱させるが、上から降りてくる階段は全て港へと下りるように集約されて行くからだ。上方と下方では事情が違う。なるほど、よく出来ている。

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