イタリア

2011年5月 8日 (日)

カルタジローネのスカーラ

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シチリア島カルタジローネはイタリアンマジョリカの生産地として知られる。通りにはボッテガが併設されたマジョリカ焼きの店舗が並び、色鮮やかな壷や皿が所狭しと置かれている。バルコニーの手摺や橋の欄干、公園の柵に看板と至る所にマジョリカタイルが使用されている様子はいかにも焼き物の町といった風情で見ていて楽しい。中でも有名なのは市庁舎広場からサンタ・マリア・デル・モンテ教会へ登って行くこのスカーラ(階段)である。

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スカーラの段数は全部で142段。蹴上げ部分に草花紋や幾何学紋など様々な模様のタイルが嵌め込まれ、階段を美しく飾っている。イタリアのバロック的な町並みにイスラームの色彩が混じる。文明の十字路と言われるシチリアならではの風景だ。

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蹴上げの装飾は一段ごとに異なる。142段全てにおいて同じデザインは無いようだった。

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描かれているものは、建物や動植物・人物など多岐に渡っている。

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イスラームやヨーロッパのこういったタイルの使い方にはいつも驚かされる。日本では一部の例外を除いて、タイルは風呂場や台所等の水周りの壁に使われる程度という貧弱なタイル文化の中で育って来たのだから無理も無い。

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多彩なタイルで作品を彩ったモデルニスモの建築家アントニオ・ガウディは一般に『ガウディの装飾論』と呼ばれる覚書の中で「装飾は、過去がそうであったように、現在も未来も彩色されるであろう」と書いている。おそらく古来より人には着色したいと言う願望が東西を問わずあったのだろう。イスラームではこのようなタイルによって、ギリシャ・ローマやビザンチンでは石のモザイクによって建物の壁面や床、場合によっては屋根が彩色された。ヨーロッパでも大理石が豊富に産出されないアルプス北部の国ではタイルが使用されたそうである。

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イタリアについて言えば、南部では古い時代にはローマやビザンチン文化の残した石のモザイクが、その後にはタイルが使用されるようになっていったようである。タイルの方が安価であったのだろうこととスペイン王家縁のナポリ王国があったことが大きな影響を与えていると思われる。一方フィレンツェ等トスカーナでは、色大理石のパネルによる優しい色合いのモザイクが主流であるが、これは質の良い大理石が豊富に入手できたからだろう。フィレンツェでもマジョリカタイルのボッテガは繁栄していたが、こちらの地方では皿や壷といった焼き物が主流であり、建物に使用されることはなかったようである。

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スカーラの上からの眺めも美しい。

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町の外れから中心部を見上げる。海辺のリゾート地の印象が強いシチリアだが、カルタジローネは山間にある。

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2011年3月22日 (火)

サンタ・キアーラ教会クラリッセ キオストロ

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イスラーム建築好きはニアイコールでタイル好きと思っていいと思うが、私も多分に漏れない。ナポリにタイルをふんだんに使用したキオストロ(回廊)があると知って、是非とも見てみたくなった。お目当ての教会があるのはスパッカ・ナポリと呼ばれる旧市街。ドゥオモからジェズ・ヌオーヴォ教会まで東西に伸びるこの地域には、ナポリで見ておくべき美しい教会が集中して建ち並ぶ。朝から沢山の観光客で賑わい、土産物屋や食べ物を扱う店も多い。何かと楽しいナポリの下町である。件のキオストロは、この地域の西端に建つサンタ・キアーラ教会クラリッセ(クララ女子修道会)にあるらしい。

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サンタ・キアーラ教会は14世紀アンジュー家の依頼により建てられたものだ。18世紀に豪華なバロック様式に改装されたこともあったらしいが、20世紀の戦火の中で全て消失し、現在はバシリカ式プランの簡素な教会となっている。クラリッセのキオストロへは教会を一旦出て向かって左奥の建物から入る。イタリアらしいフレスコ画で飾られたゴシック式のキオストロは14世紀レオナルド・デ・ヴィートが設計したものだろうか。かなりの損傷が見られるが、それでもやはり美しい。中庭を囲むアーチの基壇部分はマジョリカタイルが張られている。

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アーチ下のタイル

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フレスコ画で覆われたキオストロの壁。イタリアのゴシック様式は本場フランス・イギリスのゴシックに比べ、穏やかでふくよかだ。

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キオストロに囲まれた中庭は、18世紀ドメニコ・アントニオ・ヴァカッロの手によるもの。マジョリカタイルの装飾は、ジュセッペ・マッサとドナート・マッサが担当した。優しいベビーブルーが印象的な中庭の装飾は、イベリア半島のマジョリカ・タイルとはかなり趣が異なることに驚かされた。これらのタイルはイタリアン・マジョリカと呼ばれ、スペインのマジョリカタイル(スパニッシュ・マジョリカ)とは区別されているのだそうだ。

マジョリカタイルはイスラーム支配下のスペイン、マラガが発祥の地である。イスラーム教徒のイベリア半島進出とともに、彼らのモスクを飾るタイルも海を渡ってきたのだ。マジョリカの名前は、産地のマラガがなまったものとも輸出するタイルがマヨルカ島のパルマを経由するためとも言われているが、私はマヨルカ島から来たものだからマヨルカ(マジョリカのスペイン語読み)と呼ぶ後者の説の方が自然な気がする。因みに、パルマを経由する理由は通行税をかけるためだそうだ。ともかく、もともとイスラーム文化から発展してきたマジョリカタイルは幾つかの変遷を経て、スパニッシュ・マジョリカへと発展して行く。詳細は省くが、最初は一つ一つのピースごとに造るモザイクタイル、二番目にタイルの表面に凹凸をつけて色が混じり合わないように工夫したクエンカタイルやクエルダ・セカと呼ばれるもの、そして3番目にタイルに直接手書きで絵を書くスパニッシュ・マジョリカである。タイルの種類が全てスパニッシュ・タイルに変わったという訳ではなく、用途によっては他の種類のタイルも使われるが手書きタイルが主流になったという理解でいいかと思っている。また、マジョリカタイルと言って一般的に想像されるのは、スパニッシュ・タイルよりもクエルダ・セカの方である。アルハンブラ宮殿に多用されているからかもしれない。

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イタリア人はこのマヨルカ島から輸入されるスペインのタイルに自国の技術を織り込んで、名高いイタリアン・マジョリカを作り上げた。この二つのマジョリカの細かい違いは私にはわからないが、一目でわかる大きな特徴は使用する色数の違いである。スパニッシュ・タイルが緑・暗褐色・淡黄色の3色程度しか使われないのに対して、イタリアン・マジョリカでは濃黄色や藍色等多様な色味が追加されている。そのためスペインの歴史的なタイル建築を見慣れた目には、このサンタ・キアーラ教会クラリッセのキオストロのタイルは、とても明るく軽やかで新鮮だ。南イタリアの風土によく馴染んでいる感じがする。

最後にこのキオストロには隣接する博物館があり、発掘されたローマ時代の浴場跡や教会の歴史に関する展示品等なかなか興味深い。時間にゆとりを持って訪れることをお勧めする。

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2011年3月 1日 (火)

ガレリア・プリンチペ・ディ・ナポリ

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ナポリのもう一つのガレリア、プリンチペ・ディ・ナポリ。ウンベルト1世のガレリアより早く1870年から1883年にかけて造られた。設計はニコラ・ブレグリアとジョバンニ・デ・ノヴェリス。

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こちらは「ナポリの王子」という名前なだけに上品で可愛らしい感じ。

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プリンチペ・ディ・ナポリというのが誰か特定の個人を指すのかどうかは不明。広場やお菓子の名前にも使われているので、何かあるのかも。 

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ガレリア・プリンチペ・ディ・ナポリは博物館地区、国立考古学博物館のすぐ前にある。

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2011年2月22日 (火)

ウンベルト1世のガレリア

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ナポリ、ウンベルト1世のガレリア。1884年コレラ流行後荒廃した街の美化のため、1887年~1890年にかけて造られた。ミラノのヴィットリオ・エマニュエーレ2世のガレリアより約10年ほど遅い。よく似ていると思ったら、V.,エマニュエーレ2世のガレリアを模して造られたのだそうだ。パサージュ・ギャルリーと言えばパリのイメージが強いが、パリのそれらが街の中に自然に溶け込んでいるのに対して、イタリアのガレリアは極めて豪華でシンボリックである。

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ミラノのガレリアと比べるとガラスと鉄の天井部はこちらの方がこなれた感じがする。

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ペンデンティブの装飾がとても美しい。

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床のモザイクは意外にシンプル。

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海側のエントランス。緩やかにRを描くファサードは広場の噴水とともにバロック的な町並みを作り出す。

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ファサードのポルティコ

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ポルティコの格間天井。どこを見ても美しいこのガレリアは、王宮やサン・カルロ劇場、ヌォーボ城が林立する豪華な一画にある。

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2011年2月16日 (水)

プローチダ島ポルト・グランデ

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プローチダ島へはナポリから船で40分~1時間。どの会社を利用しても船は全てこのグランデ港へ到着する。言わばプローチダ島の玄関のようなところ。プローチダ島と言えばコッリチェッラのイメージだが、ポルト・グランデの家並みもかなり可愛らしい。この港の山を挟んだ反対側がコッリチェッラになり、山も高くないので道さえ迷わなければ歩いて行けそうに思えた。プローチダ島はとても小さい。

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コッリチェッラはどの家も壁が美しく塗りかえらていたが、こちらは結構薄汚れた感じ。一年に一回の塗り直しが義務付けられてはいないということか。こう言ってはなんだけど、こういうくすんだ感じも味があっていいなと思う。なんか、イタリアっぽい(笑)

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プローチダ島は何故か半トンネル・ヴォールトの使用率が高い。

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上の家へと登って行く階段。この階段の天井も半トンネル・ヴォールトになっている。狭い場所に高さを確保するための工夫なのかな。建物のファサードに半トンネルヴォールトが多いのは、ファサードを横切るように付けられた階段との収まりの関係かと思っていたのだけど・・・。気になる。

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2011年2月 8日 (火)

プローチダ島コッリチェッラ

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1950年代ナポリ沖の小島を舞台にした「イル・ポスティーノ」という映画がある。チリの国民的英雄で詩人のパブロ・ネルーダが亡命しこの島にやってくる。島の貧しい若者マリオが世界中から詩人に送られてくるファンレターの専属配達人になる。はじめは愚鈍とさえ言えるようなマリオが恋をし、詩人と接して行くうちに徐々に心の目を開かれて行く様子が微笑ましく、年齢も環境も全く異なる二人の交流がイタリアの自然の中でほのぼのと描かれるいい作品だった。この映画の舞台になっている小島というのが、このプローチダ島である。

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ナポリからの船が着くグランデ港からのバスはこの教会前の見晴台に着く。教会横の階段を降りれば映画のロケに使われたコッリチェッラの浜だ。因みにこの教会も映画にチラリと登場する。

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外階段とカラフルな壁が特徴的なプローチダの町並み。

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個々の家が思い思いの色を塗っているのは、遠くへ出ていた漁師が戻ってきたときに海からでも自分の家がすぐに見分けられるようにということなのだそうだ。

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ここがマリーナ・コッリチェッラ。右手の高台に見えるのはヴァスチェッロ城。城の手前にある見晴台からのコッリチェッラの眺めはとても美しい。城の向こう側にも海に向かう見晴台があり、「イル・ポスティーノ」のようにプローチダの自然の音に耳を傾けるのもいい。

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映画の舞台となったベアトリーチェのバール。「レストラン イル・ポスティーノ」として今も営業中。パラソルが邪魔になって特徴的な階段がよく見えないが、何度も出て来るこの入口のカットがとても印象的だった(二つ下の写真のような感じ)。店の中には主演のマッシモ・トロイージをはじめ映画に関連する写真が幾つも飾られている。店の方に写真をお願いすると快く引き受けてもらえた。頼まなくても写真が飾られた壁面がわざわざバックに入るように撮ってくれたりとても親切だったので、この映画のファンの方は是非ともここでお食事を。

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レストランの横には映画のロケ地を示す看板が掛かっている。「マッシモ・トロイージの遺作」と書かれている。トロイージはこの映画の撮影中既に心臓病を患っており、完成直後に41歳の若さで亡くなった。

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プローチダは階段の在り方がとても特徴的。ファサードを横切る階段の下に玄関や窓といった開口部が造られる。映画の中でバールの営業終了後、ベアトリーチェが店内の階段から二階へ上がり、まだ店にいる母に見つからないよう店の入口上を横切る外階段からこっそり降りて外出するシーンがあるが、この町ならではといったところ。

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プローチダ島は人気のリゾート地ではあるが、アマルフィ海岸などと比べるとまだまだ人も少なく静かである。洒落たカフェやショップは期待できないが、何もしないでただ空や海を愛でるのもきっと幸せな一日。

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2011年1月27日 (木)

アマルフィ

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イタリア、カンパーニャ州のアマルフィは、織田裕二主演映画「アマルフィ 女神の報酬」で日本でも一躍有名になった。私が見たのは飛行機の中だったのだが、それでもアマルフィの遠景が映し出されるシーンは音楽の効果も手伝ってとても壮大で美しかった。大きなスクリーンで見なかったことが悔やまれた。

アマルフィを訪れたのは八年前のことだ。ちょうどヴァナキュラー建築とイスラーム建築に強く興味を持っていた頃で、その旅行でプーリアとアマルフィ海岸を見る予定だった。特にアマルフィは山と海に挟まれた猫の額ほどの土地にしがみつくように広がる町の姿とその中心に聳えるイスラーム風の教会が当時の私の気分にマッチしていた。

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アマルフィはギリシャ神話の英雄ヘラクレスが作った町なのだそうだ。ヘラクレスは愛した妖精の死を悼んで世界で最も美しい地に亡骸を埋めて町を造った。町はその妖精の名前を取って「アマルフィ」と名付けられたという。この話で面白いのは「世界で一番美しい町だから」ではなく「世界で一番美しい土地」に造られた町だからアマルフィは美しいのだということだ。自然に対する深い敬意と感謝が感じられるこの話は、何となく親近感を起こさせる。ギリシャ神話という多神教の神話が名前の由来になっているように、日本で言うところの八百万の神のような海の神、太陽の神といった様々なものに神が宿るという感覚がこの町には残っているのかもしれない。因みに「アマルフィ」の小説の方ではこの町の謂れを紗江子が話す件で、眺めは素晴らしいがイタリアにはよくある港町というクールな黒田らしい感想が挿まれる。確かにイタリアにはチンクエテッレやプロチーダ島のコリチェッラなどよく似た風景を持つ港町が多い。イタリアはヴァナキュラー建築の宝庫だ。

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今では隠れ家的人気リゾート地の印象が強いアマルフィもかつてはヴェネツィア・ジェノヴァ・ピサと肩を並べる海洋都市だった。陸側を険しい山に囲まれた陸の孤島のような立地であったため、海へと意識が向かったことは自然なことだったに違いない。アマルフィは9世紀頃から高度な造船技術と優れた航海技術を持ち、いち早くアラブやビザンチン帝国との貿易を開始した。ヨーロッパで初めて羅針盤を使用したのもアマルフィの船だったそうだ。10世紀末には絶頂期を向かえ、その後はシチリアとの関係やジェノヴァ・ヴェネツィアの台頭により次第に衰えていった。

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島国である日本も海とともに生きてきた国だが、その関り方は大きく違う。古くから海洋貿易で栄えたアマルフィにはエキゾチックな美しい町並みが残された。特に目を引くのは広場奥の高台にたつドゥオモとその鐘楼である。ドゥオモは10世紀にロマネスク様式で建てられ、18世紀にバロックに改装された。ファサードだけは19世紀の装飾で、ビザンチンやアラブ・ノルマンの影響が色濃く引き継がれている。鐘楼(上から3番目の写真)は13世紀に建てられたもので、その尖塔の連続交差アーチとその色合いはシチリア、パレルモ近郊モンレアレのドゥオモの装飾との類似を示している。この鐘楼の10年ほど前には「天国の回廊」という真っ白な尖頭形連続アーチの連なるアラブ風回廊が作られており、この小さな国が如何に開かれた国であったことかと驚かされる。建築は時に過去への様々な手掛かりを残す。キラキラ光るビザンチン風モザイクを見ながら在りし日を想像するのも楽しい。

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2011年1月19日 (水)

マルティーナ・フランカの教会

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バロックの町マルティーナ・フランカ。狭い路地のあちこちから壮麗なバロックの教会が顔を覗かせている様子を見るとこの町が18世紀に栄えたのだろうということが想像できるが、その繁栄の土台は14世紀フィリップ・ダンジューが打ち出した都市建設の政策にあったのだという。宿屋や食料品店、公共のかまど等町での生活に必要な設備を整え、長期の借用権や信用貸しの繰り延べ、他地域で犯した罪の免除等寛大な条件により住民を増やした。最も有名なものが税金の免除でこれは町の名前の由来にもなっている。マルティーナ・フランカのフランカはイタリア語でFREEという意味で、「TAX FREEのマルティーナ」ということなのだそうだ。因みに、3世紀後セルヴァ(現在のアルベロベッロ)のジイロラモも免税以外のこの政策を試み、町の人口増加に成功している。

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ところで、マルティーナ・フランカとアルベロベッロの間でこんな話が残されている。アルベロベッロのトルッリが当時のセルヴァの領主ジイロラモの脱税行為の産物であったことはよく知られているが、この脱税行為を周囲の領主は当然快く思っていなかった。1644年マルティーナ・フランカの公爵フランチェスコ1世はこの行為をスペイン裁判所に訴え出た。このときはジイロラモがスペイン王の税査定官が到着する前に建物を壊すことができたため事なきを得たが、5年後スペイン王フィリップ4世に裁判所への出頭を命じられ、遂に罪に問われることとなる。彼はしばらくスペインに拘留された後友人の助けにより許されたが、その帰途バルセロナにて客死、再度プーリアの地を踏むことはなかったということだ。マルティーナ・フランカの公爵にしてみれば自領地の民を免税にしつつもきちんと税を納めていたのだからはらわたの煮えくり返るような思いだったのだろう。ただ、セルヴァの脱税に関する政策はジイロラモの死後も後継者に引き継がれたので、マルティーナ側が溜飲を下げられたのはほんの一時のことだったかもしれない。とはいえ、18世紀には天才建築家ベルニーニに宮殿を建てさせるほどの繁栄を見せることになったのだから、最終的には正直者がバカを見るというようなことにはならなかったと言えるだろう。今は静かなプーリアの町にも色々な物語があって面白い。

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バロックの教会は柱頭のデザインも凝っている。

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プレビシート広場にあるサン・マルティーノ教会

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サン・マルティーノ教会扉上の彫刻。同じ南イタリアのバロックでもレッチェのようにファサードを彫刻で覆い尽くすようなことはしないようだ。

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西の端にあるカルミネ教会のドーム。6角形の格間が美しい。この教会横の公園は見晴台になっており、遠くにロコロトンドが望める。

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2010年12月27日 (月)

マルティーナ・フランカ

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アルベロベッロから電車で約10分ほど行くとバロックの町マルティーナ・フランカに到着する。この町にはバロックのフィレンツェと呼ばれるレッチェからの電車もあるので、南イタリアバロックめぐりをするのもいい。イタリアンバロックと言えばローマを思い浮かべがちであるが、シチリアやプーリアのバロックはこれはこれで独特のムードがありこちらの方が好みだと言う人も結構いるようだ。

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マルティーナ・フランカもプーリアらしい白い町。素朴な白い漆喰の壁に凝ったバロック装飾の窓や扉が現れる。

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こんなに美しい町なのに観光客は殆どいない。オストゥーニやロコロトンドの方が観光地化されている。この後人恋しくなってアルベロベッロに寄り道したら、そこの土産物屋の人に「何も無かったでしょう」と笑われた。

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石灰プラスターの白壁にこの装飾的な窓はやはり意外な組み合わせ。

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木製の扉も美しい。

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何と表現していいかわからないのだが、他のプーリアの町と違い街路や壁の線が直線的ですっきりしている。表現を変えると、石灰の家に見られる丸みがない。逆にそんなところもマルティーナ・フランカの魅力になっている。

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プーリアの町を歩いているとふとした瞬間にデ・キリコの絵の中に迷い込んでしまったような錯覚に陥ることがある。別段デ・キリコの絵に詳しいわけではなく、何故そんな印象を受けるのか自分でも不思議なくらいだ。大体デ・キリコを思い出すならモデナやフェラーラじゃないのかとも思う。

太陽の光に晒されてまぶしいくらいに真っ白な路地を歩いていると、通りの奥に暗いトンネルがあり、さらにその奥に真っ白な階段が覗いていたりする。その奥に見える階段は「その階段」「あの階段」といった具体的な物質性を伴うことなく、その機能だけを抽出され、彫像のような無機質さでそこに置かれている。階段は確かなどこかに繋がっているようでもあるし、何処へも行かないようでもある。ただ漠然と何らかの「予感」だけがある。例えば心の中にある風景から重要でないものを順番に消して行ったら最後に残るのは迷路のような白い路地と階段だけで「ほら、これがモノゴトの本質だよ」と言われたようなそんな感じがする。

自分が思い浮かべているものが何という絵だっただろうかと調べてみると、「通りの神秘と憂愁」というタイトルだった。モデナのような柱廊と輪っかで遊んでいる少女、何者かの影だけが描かれている、懐かしいようでありながら空虚で不安感を抱かせる絵だ。描かれている物も色合いも全く異なるのに、タイトルだけはぴったりで笑ってしまった。

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こういうところは他のプーリアの町と変わらない。

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旧市街の中心プレシヴィート広場の裏にあるインマコラータ広場。円形に展開されるアーチが美しい。

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2010年12月20日 (月)

ロコロトンド

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その名の通り丸い町ロコロトンド(ロコは場所・ロトンドは丸い)。ロコロトンドの町に着いたのはほんの偶然だ。アルベロベッロからチステルニーノへ行こうとして乗り換えの駅を間違えたのだ。アルベロベッロのホテルでチステルニーノへの行き方を訊ねたところ、Sud-estの路線図を見ながら「ロコロトンドで乗り換えて2駅だね」と教えてくれた。しかし、ロコロトンドで駅員の方に訊ねると「チステルニーノ行きの電車はここには停まらないから、マルティーナ・フランカまで行ってそこで乗り換えだね」と言われてしまった。次の電車まで時間があったので、駅員さんに荷物を預かってもらってさらっと町を見学することにした。思えばよい時代だった。例のテロ以来個人的に荷物を預かってくれるなどあり得ない話である。因みにSud-estの駅はどれも非常に小さくコインロッカーや手荷物預かり所はほぼない。

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こう見えてもロコロトンドはなかなかの観光地で、駅から町の中心への道もすぐにわかる。

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町のつくりは他のプーリアの町に比べると単純で力強い印象がある。

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小さな窓辺には鉢植えが置かれ、白い壁に映えて美しい。

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旧市街へ入る前の広場にあった教会。ロコロトンド旧市街にはバロック様式の立派な教会もあるが、心に残ったのはこの小さなロマネスクの教会。石の量感が素朴な美しさを感じさせてプーリアらしい。

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上の写真の教会の薔薇窓。何の飾り気もないファサードに、こんな凝った装飾が施されているのには驚く。

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駅を挟んで旧市街とは反対方向の場所にあった教会。浅く重ねられたファサードがパッラーディオのレデントーレ教会みたいで可愛らしい。

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町の展望台からはトルゥッリのある谷が見下ろせて気持ちがいい。オストゥーニ、マルティーナ・フランカからの展望もよいけれど、ロコロトンドが一番綺麗だった気がする。

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