チェコ

2013年2月22日 (金)

気になる窓(チェスキー・クルムロフ)

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「眠るれる森の美女」という別名を持つチェスキー・クルムロフ。まるでお伽噺に出てくるような町並みをしているが、窓も可愛らしいものが多かった。

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上二枚の写真の家はかなり離れた場所にあったが、装飾のデザインがが同じだった。トップに扇か帆立貝のようなマークがあり、その下に二つの渦巻き模様。ルネサンス風の破風を象ったようでもあるが、何か意味があるのだろうか。

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壁の装飾は騙し絵なのに、窓枠は立体的に作られている。


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このような凝ったアイアンワークの窓もある。

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チェスキー・クルムロフの街並みが再現されている。建物の形態のバリエーションはなかなかリアルだ。

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レストランの窓にはフォークやナイフが放射状に飾られている。

冬はチェスキー・クルムロフ城の見学はできないが、町の散策だけでも十分楽しい。訪れる観光客も多く賑やかだった。

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2013年2月16日 (土)

チェスキー・クルムロフ

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チェスキー・クルムロフに着いたのは夜だった。翌朝から町の散策に出かけ、チェスキー・クルムロフ城のある小高い丘から川向こうにある町を眺めた。朝のぼんやりした光の中を、家々の煙突から幾筋もの煙が立ち上っていた。冷たい冬の空気の中で町全体が呼吸をしているように見えた。
旅行をしていて冬に来て良かったなぁと思うことは少ない。というより、寒いし、風は強いし、空はどんよりしていることが多いし、ヨーロッパの冬は最も観光に適さない季節である。それでもごく稀に、冬もいいなと思う瞬間がある。キーンと切れるような冷えきった空気の中で凍えそうになりながら見るのがよいという景色もたまにはあるのだ。

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チェスキーは「ボヘミアの」、クルムロフは「湾曲した牧草地」という意味で、ドイツ語の「Krumme Aue」に由来するのだそうだ。

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チェスキー・クルムロフはその名の通り蛇行するヴルタヴァ川のS字部に開かれた町で、豊かな緑に囲まれた赤い屋根の美しい街並みは「ボヘミアのシエナ」とも言われている。

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チェスキー・クルムロフは14~16世紀の間ボヘミアの有力貴族であるローゼンバーグ家の下に手工業と交易により繁栄した。ルネサンス様式の華やかな町並みは最も繁栄を極めたこの16世紀に造られたものだ。

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建物の壁に石積みを描くような騙し絵はチェスキー・クルムロフでもよく見かける。これも16世頃ボヘミア全土に広がったもの。

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しかし町の繁栄とは裏腹にローゼンベルグ家の財政は破綻を来たしており、チェスキー・クルムロフは借金の抵当にされ、1601年には神聖ローマ皇帝ルドルフ二世の手に渡ってしまう。その後町の支配者は転々とし、1622年にエッゲンベルグ家、1719年シュヴァルツェンベルク家へと変わって行くが、シュヴァルツェンベルク家も19世紀にはチェスケー・ブディェヨヴィツェ北4kmのフルボカー城へと居城を移した。主要な鉄道網からも外れ近代化の波に乗れなかったため町は徐々に寂れて行き、第一次世界大戦前にはチェスキークルムロフ縁の画家であるエゴン・シーレが町がなくなってしまうと危惧するほどだったという。

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しかしながら近代化の波に取り残されたことにより、チェスキー・クルムロフには繁栄した当時のルネサンスの町並みがそのまま保存されることとなった。1989年ビロード革命以降歴史的景観の価値が見直され旧市街の修復が進められた。現在ではユネスコ世界遺産にも登録される美しい町並みが蘇り、世界で最も美しい町の一つと言われている。幸いにもシーレのそれは杞憂に終わったようだ。

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2010年5月24日 (月)

聖バルバラ大聖堂

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クトナーホラのバルバラ大聖堂はとてもインパクトの強い外観をしている。ゴシックの大聖堂と言えば多かれ少なかれ外観はパターン化されているものだが、この大聖堂はあまりそれに当てはまっていない。何と言っても塔らしい塔を持っていないのがユニークだ。ヴィオレ・ル・デュクが推奨する7塔どころかフランスのようなファサードの双塔もなく、イギリスのような光塔もない。その代わりにテントのようにツンと尖がった屋根が3つ並んでいる。その黒褐色の屋根の周囲をフライングバットレスがぐるりと囲んでいる様子はかなり壮観だ。

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バルバラ大聖堂はホール型教会堂で翼廊が省略されている。そのため西正面以外の三方を途切れることなくフライングバットレスが囲む。さらに塔がないためフライングバットレスのの高さが強調されることになり、他のゴシックではあまり見ることのない独特のスタイルを作り出している。

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薔薇窓も彫刻もない淡白なファサード。サイドのフライングバットレスも剥き出しの素朴なデザイン。

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この大聖堂の建設は1388年から始まった。当初のプランはヴィート大聖堂やカレル橋の設計で有名なペトル・パルレーシュのもので、その後息子のヤン・パルレーシュが引き継いだ。ひとまずの完成を見たのは1558年、完成までには幾人もの著名な建築家が携わったという。

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内部で特に目を引くのは凝った作りのヴォールトである。大輪の花が咲いているかのような華やかなヴォールトはプラハ城のヴラスチラフホールによく似ている。後で調べてみると同じ建築家の手によるもので、ベネディクト・リートというドイツ人だそうだ。ぺヴスナーの建築辞典では「建築家兼ヴォールト技術者」と紹介されている。

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ヴォールトの花弁の中には紋章や人物が描かれているが、現在はところどころに残っているだけでかなりの部分は消えてしまっている。目を凝らして見てみたが、あまりのリブの複雑さに力の流れを追うことができなかった。一本の柱からは、中央の花芯に向かって交差するように2本、隣の両柱に向かって2本、その間を埋めるように斜めの角度にさらに2本づつ、計8本のリブが伸びている。普通ゴシックのリブヴォールトと言えば支柱からスラリと伸びる姿が見えるものだが、この大聖堂ではその立ち上がり部分が非常にコンパクトに押さえてある。また、立ち上がり部分は網の目状になっており、リブの作る影が薄い布を何層にも重ねたような錯覚を生む。まるで支柱が支えているのは重い石の天井ではなく、天幕をはっただけであるかのような浮遊感が生まれる。そういえばブラスチラフホールのヴォールトもふわっとした軽さがあった。リートという人のヴォールト仮構はなんだか不思議だ。

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クトナーホラの大聖堂はなかなか広く、他にも見所は沢山ある。プラハからも比較的近いので、是非とも訪れておきたいところである。

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2010年3月20日 (土)

パラツキー広場(クトナーホラ)

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クトナーホラのパラツキー広場。自然発生的にできたのだろう非定形で微妙な勾配を持つ広場。

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緩い上り坂にパステルカラーの家が並ぶ。

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広場の入隅とでも言おうか。道が垂直に交わらないため、視覚的には入隅のように見える。人工的に整理されていない微妙なズレ具合がいい。

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左に見える高い塔は聖ヤコブ教会。

世界で一番美しいと形容される広場は多いが、私はこういう自然な広場の方が好きだ。雪のせいもあってか人のいない静かなパラツキー広場はかなり魅力的だった。

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2010年3月13日 (土)

クトナーホラの町並み

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世界遺産のバルバラ大聖堂を見るためプラハから電車で1時間ほどのところにあるクトナーホラへ出掛けた。その日は生憎の悪天候で降りしきる雪の中を旧市街まで凍えそうになりながら歩いた。クトナーホラは今は鄙びた小さな町だが、13世紀から16世紀の間豊富に産出される銀で賑わいを見せた。立派な大聖堂や造幣局、銀山の坑道等が当時の繁栄を物語るが、人通りの少ない静まり返った町を歩いていると何だか信じ難い。

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芦原義信著「街並みの美学」という本によると、街路の美しさは通りと両側に並ぶ建物との比率によって決まるのだと言う。なんでも建物の高さと道幅が1対2ないし2対1が黄金比なのだそうだ。クトナーホラがそれに合致しているかどうかはわからないが、予想外に綺麗な町並みに驚いた。

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道幅だけでなく、通りが自然なカーブを描き視覚の閉じる空間をつくっていることや屋根の高さがおもむね揃っていること、色とりどりの外壁のトーンが揃っていること、そういった様々な要素が重なって、クトナーホラの魅力的な町並み作られているのだと思う。

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この日は雪が振っていることもあり、ユトリロの描く町に似ていて、やはりヨーロッパはこういうところがいいとなんだか得をした気分になった。

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バルバラ大聖堂の近くまで行くとさすがに幾つかの観光客グループが来ていたが、それでも世界遺産としては訪れる人は少ない方だろう。夏のクトナーホラはどんなだろうか。打って変わって賑やかな観光地だったりするのだろうか。人の出会いと同じで、町や建築も出会ったときのシチュエーションによってイメージは大きく変わる。キーンと突き刺すような冷たい空気の中のクトナーホラがあまりにも素敵で、どんなときのクトナーホラが最もクトナーホラらしいのかと逆に気になってしまった。また、是非違う季節に訪れる機会があればと願う。

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左が1番上の写真の聖ヤコブ教会

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2010年3月 6日 (土)

ダンスするビル

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ブルタヴァ川沿いでダンスしているビルがある。

写真で見たことはあったのだが、実物はもっと踊っていた・・・可愛い。ダンスするビルは、1995年ハヴェル大統領のお墨付きで建てられたプラハ唯一のポストモダン建築。設計はフランク・O・ゲーリーとウラジミール・ミルニッチ。工事の途中は「環境破壊」「プラハの汚点」とさんざん非難されたという。パリのエッフェル塔しかり、ルーブルのガラスのピラミッドしかり、よくある話である。竣工後市民の大半には評判が良かったようなのだが、知識人には受け入れられなかった。これもよくある話。私からすれば、ポリーフカよりよほど奇抜ではない気がするのに、実に不思議・・・。

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微妙に高さの違う窓。中から見るとどんな感じなのかな。

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ゲーリーはこのビルに、往年のダンスコンビ、ジンジャー・ロジャースとフレッド・アステアにちなんで「ジンジャーとフレッド」とニックネームをつけていた。上の写真はジンジャーのドレスの下から外を見たところ。

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ブルタヴァ川が眺められる1階のカフェ。元旦のこの日はやはりお休み。

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2010年2月27日 (土)

アドリア宮殿

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キュビズム建築の理論的指導者であったパヴェル・ヤナーク。残念ながらヤナークのキュビズム建築をプラハで見ることはできない。ファーラ邸が有名だが、プラハから南東約75kmにあるペルジモフという町にあり今回見に行くことは叶わなかった。プラハにあるヤナーク建築と言えばアドリア宮殿が有名だ。ナーロドニー通りとユングマノヴァ通りの角にあり、とても目立つのですぐに見つけられる。施主がイタリアの保険会社「リウニオネ・アドリアティカ・ディ・シクルタ」であったためアドリア宮殿と呼ばれている。赤と白の威圧的な外観はやはり日本の帝冠様式を想わせる。上部の四角い出っ張りは中世の要塞の胸壁のようだ。イタリアでは市庁舎等の建物で胸壁を持つものを度々見かけるが、それによく似ている。ル・コルビュジェがアドリア宮殿を見て「古代オリエントのアッシリア風建築」と評したそうだ。アドリア宮殿の斜め前コチュラのウルバーネクハウスがあり、ル・コルビュジェはそこで講演を行なっている。そのときのことだろう。

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赤と白はチェコの民族カラー。ゴチャールのチェコ・スロバキア・レジオン銀行をはじめ、ロンド・キュビズムに多い配色。

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オフィス入口

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アドリア宮殿の1階はパサージュになっている。プラハにも幾つかのパサージュがあるが、魅力的なものには出会わなかった。

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ヤナークは建築だけでなく、家具や食器等のデザインも得意だったようである。ヤナークデザインの食器はブラック・マドンナ一階のショップで購入することができる。値段は1万円位したような気がするので、チェコの物価からするとかなり高価なイメージだ。デザインはなかなか可愛らしく、キュビズム自体が建築よりもっとスケールの小さなものに向いているのではないかと私は思っている。

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2010年2月21日 (日)

チェコスロバキア・レジオン銀行

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プラハ、ナ・ポリーチー通りに随分豪華な内装の銀行があると本で読んだ。銀行なので写真を撮ることはできないが別に誰でも入れるとのことだったので、両替がてら見学に行くことにした。名前をチェコスロバキア・レジオン銀行といい、最初のキュビズム建築であるブラックマドンナを建てたヨゼフ・ゴチャールの作品らしかった。ファサードを見た率直な感想は、随分いかつい建築だなぁという感じ。なんだか日本の帝冠様式を思い出すような居丈高な建築だと思った。これはキュビズムの後に起こったロンド・キュビスムという様式なのだそうだ。

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第一次世界大戦が終わりハプスブルク家の支配から、遂にチェコスロバキアが独立した。その喜びに沸くチェコで、キュビスト達が次に作り出したのがロンド・キュビズムだった。円弧や円柱の連なる彫りの深いファサードは大仰で厳めしく、そしてとても民族的に見えた。大戦後ロシア構成主義へと進んで行ったホホルはロンド・キュビズムを「インディアンの酋長の顔のようだ」と揶揄したというが、それもなんだか頷ける。そこにはシャープに光を反射する斜めの面は見当たらず、深く幾何学紋を穿たれた壁面に刺青のような影が落ちる。キュビズムもロンド・キュビズムもチェコ独自のアイデンティティを追求した建築のはずなのに、何故こうも違うのか。似ているのは一つの主題の連続性と印象は随分違うがファサードの彫りの深さ、少しとっつきの悪い厳格さといったところだろうか。 

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打って変わって内装は喚起に沸くその世相を反映して、鏡やガラスを多用した軽やかで華やかなデザインだ。スラブ神話に由来する円弧と円柱が連なる幾何学的でいながら煌びやかな世界。玄関ホールは大理石や木材、鏡を使用し、豪華で上品な感じ。床は赤と白の民族カラーで仕上げられている。さらに奥へ進むと建物の中庭に出るが、そこが所謂待合となっており、周囲を色々な業務の取り扱い窓口が囲んでいる。中でも天井は素晴らしく、3つの円弧からなるヴォールト状のガラスから明るい日差しが差し込む様は何とも美しい。ロンド・キュビズムは他に「レジオン銀行スタイル」とも呼ばれるらしく、この建築の与えたインパクトの強さを物語っている。

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国民的建築家と目されているゴチャールであるが、その地位はこの時期に確立されたようである。その人気は今も根強く、2000年春チェコで行なわれた「20世紀のベスト建築家」というコンテストで、近代建築の父ヤン・コチュラを押さえて堂々の一位だった。一般人が選んだわけではなく、建築家・歴史家・評論家が選定したということだから、この意味は大きい。近代建築の父よりキュビスストを選んだ人が多かったということに、チェコって面白い国だなぁと何となく感心してしまったのである。

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2010年1月31日 (日)

ネクラノヴァ通りの集合住宅

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ホホルの最高傑作と言われる集合住宅はヴィシェフラト地区ネクラノヴァ通りにある。ヴィシェフラト地区はキュビズムが多く見られる地域で、コバジョヴィチ邸やラシーン堤防の三世帯住宅もこの近くに建てられている。ラシーン堤防の三世帯住宅ではまだ過去の様式を引きずっていたホホルも、ネクラノヴァ通りの集合住宅ではすっかり吹っ切れたように見える。鋭角的なコーニスの凹凸をはじめ、真っ白な壁体に結晶形が連続する様子はとても印象的だ。坂道に立つその立地も建物の持つシャープな印象に一役買っている。鋭いコーナーの角度は70度、随分変則的な敷地である。

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坂側のエントランス。ダイヤモンド型に飛び出した庇がおもしろい。1Fはレストランになっているようだが、元旦のこの日は勿論定休日。

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鋭角に波打つコーニス

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水平な通りのエントランス

キュビズム建築が建てられたのは1911年から1914年なので、1913年~1914年に建てられたネクラノヴァの集合住宅はホホル最後のキュビズム建築にあたるのだろうか。1914年は第一次世界大戦の始まった年である。大戦は建築の世界にも大きな変化をもたらした。これ以降、キュビズムやアール・ヌーヴォーは建てられなくなり、代わってロンド・キュビズムやアール・デコが現れる。と言っても、ロンド・キュビズムはチェコのアール・デコなので、キュビズムで独自の歩みを進めたチェコもここで西洋建築の大きな流れの中に還って行くことになる。ホホルはと言うと、ロンド・キュビズムではなく、ロシア構成主義へと進んで行った。ホホルの理知的で禁欲的なデザインを見ているとそれはとても自然なことに思えた。

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2010年1月16日 (土)

ヴィシェフラトの三世帯住宅

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コヴァジョヴィチ邸をもう少し南へ進むと同じくホホルの手によるキュビズム建築に出会う。施主の名前が知られていないためか、ヴィシェフラトの三世帯住宅とかラシーン堤防の三世帯住宅とか地名で呼ばれている。このブルタバ川沿いの住宅は1912~13年コヴァジョヴィチ邸に先立って建てられた。ホホル最初のキュビズム建築である。大きなペディメントが目を引くこの住宅は、最初に手掛けたキュビズムというだけに古典様式のモチーフがキュビズムに展開されていく様子がよくわかる。

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窓のあたりはコヴァジョヴィチ邸によく似ている。

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北側のファサード。1番上の写真と同じ住宅とは思えない。

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ホホルがキュビズム建築を建てたこの当時は新古典主義の建築が主流だったが、キュビズムの結晶形のデザインを採用することは古典様式の建築にゴシック的要素を付加するような効果があった。ホホルは西洋建築様式の二大潮流を意図して融合させたんだろうか。やってみたらなんだかゴシックっぽくなった・・・と言う程度のことではないんだろうか。いずれにしても、新しい何か、特別な何かを生み出そうとしたキュビズムではあるが、最初から矛盾をはらんでいたということになるだろうか。

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