黒い聖母の家(ブラックマドンナ)

Blackmadonna2

最初のキュビズム建築は、ツェレトゥナー通りとオボトニーチュルフの角に立つ黒い聖母の家である。チェコの国民的建築家ゴチャールの1912年の作品だ。同じ敷地に建っていた以前の建物にあった黒い聖母の標識をこの建物に移設したため今も「黒い聖母の家」と呼ばれているが、建築の世界では「ブラックマドンナ」とだけ呼ばれる方が多いようだ。1階にショップ、2Fにカフェ、3F以上ががキュビズム美術館となっており、中に入ることの出来る貴重なキュビズム建築となっている。当初は5階建ての百貨店としてオープンしたのだそうだ。

Blackmadonna3

チェコキュビスムとは1911年~1914年とごく僅かな期間にプラハで起こった前衛的な芸術運動である。1906年にはじまるピカソやブラックのキュビズム運動に影響を受けたのは言うまでもないが、チェコでは絵画ではなく建築を中心に展開されたことが特殊だった。代表的な建築家は、パヴェル・ヤナーク、ヨゼフ・ゴチャール、ヨゼフ・ホホルの3人だ。このうち、ヤナークとゴチャールはチェコ近代建築の父ヤン・コチュラの弟子であったが(ホホルはワグナーに直接師事していた)、コチュラの普遍性を求める合理的思想に反発した。いまだオーストリア統治下にあったチェコのこの時期、彼らは20世紀建築のひとまずの到達点であるモダニズムへと繋がっていくコチュラの普遍性よりも、チェコ民族のアイデンティティを確立させる建築様式を強く求めた。ヤナーク、ゴチャール、ホホルより少し前にも、ファンタやオーマン、ポリーフカらアール・ヌーヴォーの建築家達がボヘミアン・ルネサンスにアール・ヌーヴォーを融合させチェコの独自性を主張する建築を目指したが、その独自性は装飾と言う範囲に留まるものだった。キュビズム建築家達はコチュラの普遍性にも反発したが、一世代前の装飾の世界だけの独自性にも共感できず、ワグナーの合理的な建築構造を踏まえた上で全く新しい造形デザインを生み出そうとした。おそらく、ヤン・コチュラは早すぎた建築家で、ファンタやポリーフカは時代が生んだ建築家だった。そして、キュビズム建築家達はその狭間の建築家だったと理解してもいいだろうと思う。

Blackmadonna4

初のキュビズム建築となったブラック・マドンナは建設前こそプラハ市民による反対運動が行なわれたらしいが、完成後にはそれほどの抵抗感はなくおおむね好意的に受け入れられたようである。実際旧市街に佇むブラック・マドンナを見ても自然に周囲に溶け込んでおり、むしろ知らなければ見過ごしてしまいそうなくらいである。ファサードはシックな茶色に近いオレンジ、斜線や斜面の使い方も控えめでホホルのような厳しさはない。上へ行くに従ってセット・バックして行く躯体には、マンサード屋根のアチック(屋根裏)が二つ乗っている。前衛的なキュビズム建築にしてはあまり突飛さを感じさせない、自己主張の少ない温かみのある建築である。

ブラックマドンナは当時まだ珍しかったであろう鉄筋コンクリートの建築である。世界初の鉄筋コンクリート建築は1903年オーギュスト・ペレのフランクリン街の集合住宅なので、ゴチャールのブラックマドンナはその9年後ということになる。ペレは「よくつくられたコンクリートは大理石よりも美しい」と言って鉄筋コンクリートを建築をつくったが、ゴチャールが鉄筋コンクリートを使った理由はどうやらキュビズム建築の命題である「ナナメ」にあるらしいのである。

ブラックマドンナのアチック内部は少し不思議な空間である。屋根裏らしく天井が斜めになっているが、その天井を支える壁もまた斜めに傾いている。構造からしてキュビズムで、控えめな外観に反して何とも大胆な造りになっている。この斜めの壁は普通は天井だけを支えるものだから、普通に考えれば木で掛けても十分なのだが、このブラックマドンナに関してはそうは行かない。何故ならゴチャールは、アチックの上にさらにアチックを載せるという、変則的な意匠を(構造を?)試みているからだ。そのため、この斜めの壁は天井を支えると同時に床の重力も支えなければならなくなってしまったのである。そうなるともはや木で支えるのは無理、鉄骨の柱でも無理、そこで鉄筋コンクリートの登場となったわけである。

ここで、私としてはどうしても不思議なことが一つある。キュビズム建築家のゴチャールが「ナナメ」の線に拘ったのはわかるけれど、どうしてアチックを二つ重ねるようなことをしたのだろうか?そこだけはかなり奇異なデザインと思われるのだが。

それが一般論かどうかは不勉強な私にはわからないのだが、一つには階段ピラミッドだろうとの説がある。ゴチャールはこの数年前に行なわれた旧市庁舎のコンペで階段ピラミッド状の建物を提案していたらしい。ブラックマドンナの大きさの異なる箱を積み重ねたような外観もピラミッド状と言えないこともない。この頃のゴチャールは世界最古の大建造物が持つ幾何学的形態に何らかの拘りがあったのであろうと。そして、このピラミッド型をもっと進めて考えると、昔ながらのヨーロッパの階層意識の現われではないかというのである。実際にそうなのだとすると、新しい構造、新しい建築材、独自のデザインで建てられたはずのキュビズム建築も、まだまだ精神的には過去の遺物から自由になりきれていなかったということになる。やはり、キュビズム建築家たちは、狭間の建築家だったということになるだろうか・・・。

Blackmadonna5_2

この建築で最も魅力的なのは何といってもこの階段。キュビズムに興味がなくても、この階段はキュビズム美辞術間の外にあたるので、プラハを訪れたなら絶対に見ておきたい。

Blackmadonna6

階段の見上げ

Blackmadonna7

キュビズム階段と言っても、手摺は流麗なカーブを描く。

Blackmadonna8

階段の登り口

Blackmadonna9jpg 

ブラックマドンナの2Fはカフェ・オリエントという人気のカフェ。キュビズムのコート掛けなど、キュートなデザインに会える。ピアノの生演奏も素敵。ゴチャールの胸像もある。

Blackmadonna1

ハーブティーとアップル・シュトゥルーデル。値段はとてもリーズナブル。キュビズムデザインのカップも可愛い。これはティーカップだけど、コーヒーカップはかなり素敵だった・・・。

| | コメント (2) | トラックバック (1)

コヴァジョヴィチ邸

Kovarovi1

キュビズム建築なるものがあることを知ったのはほんの2、3年前。西洋建築様式史の本の中でも殆ど触れられることのないキュビズム建築は、チェコにしかない、チェコ独自の建築様式なのだそうだ。古くは12世紀ゴシックの時代から様々な建築様式を共有してきたヨーロッパにおいて、ましてや交通手段の発達からさらにユニバーサルな建築へと突き進んで行くこの時代において、全くどこにも広がりを見せることのなかったこの様式はそれだけでミステリアスな感じがする。

Kovarovi2

プラハ旧市街から南へ約3km、ヴィシェフラトと呼ばれるこの地区は、プラハ発祥の伝説の残る場所である。小高い丘の上に7世紀の城砦跡が残り、その麓にキュビズム建築が点在している。旧市街からブルタヴァ川を南下して一番初めに出会うのが、コヴァジョヴィチ邸である。チェコ・キュビズムを代表する建築家の一人であるJ・ホホルの1913年の作品だ。

Kovarovi5

キュビズム建築のデザイン的特徴はファサードが斜めの線と斜めの面で構成されていることににある。ギリシャ・ローマ様式やゴシックという西洋の二大潮流の範囲の中で多角柱や多角錐、結晶形モチーフを使ったものとという言い方もできるようだが、斜線と斜面で分割されていると考える方がわかりやすいような気がする。ホホルのコヴァジョヴィチ邸も窓枠やコーニス、扉等様々なところで斜線や斜面が使われており、建物の表面に深い陰影を与えている。波打つファサードはバロックとは違い感情に直接訴えるようなダイナミズムではなく、知的な謎かけをされているような印象だ。綺麗とかカッコイイとか、見た目の麗しさを基準とするならば、好みはあるとしても一般的にあまり魅力的とは言い難いかもしれない。キュビズム建築の魅力はおそらくそんなところにはないのだろうと思う。ピカソが「アヴィニョンの娘たち」でルネサンス以来の遠近法を否定して20世紀の美術を切り開いたように、チェコキュビズムも何かを否定して何かを生み出そうとした。言葉にすると陳腐だけれど、その建築家達の時代への抵抗とか新しいものへのチャレンジといったものが、建物の造形から強く感じられる。だから例えそのデザインに共感できなくても、キュビズム建築の前を素通りすることが出来ない。綺麗とも素敵とも思わないけれど、何故キュビズムで建築をつくろうとしたのか、何故僅かな期間で消え去ってしまったのか、何故他への広がりを見せなかったのか・・・何だか気になって仕方がないのである。

Kovarovi6

裏通りの扉口

Kovarovi3

庭もキュビズムでデザインされている。

Kovarovi4

門のデザインも勿論キュビズム

| | コメント (4) | トラックバック (0)

ウルバーネクハウス

Urbankuv2

ナ・プシーコピエ通りからナーロドニー通りへ抜けるあたりでロンド・キュビズムで有名なアドリア宮殿の威風堂々たる姿が見えてくる。そこを南へ折れるとユングマノヴァ通りである。目指すウルバーネクハウスはアドリア宮殿の斜め向かいにその威圧的な様子とは対照的にひっそりと立っている。J.コチュラ、1912年の作品で、プラハにおけるモダニズムの萌芽と言われている。直線のみで構成された赤煉瓦壁の建物は劇場・店舗・住宅からなる複合施設。ファサードは上へ行くに従って微妙にセットバックしており、装飾らしい装飾はファサードを3分割する付柱くらいだが、こちらも上へ行くに従って厚みを増すようにつくられている。過剰ともいえるほど装飾に溢れた当時のプラハにおいて、シンプルなコチュラのこの建物はさぞや貧弱に見えたことだろう。

現在は違うだろうが、チェコでは装飾のない近代建築は兎小屋と言われた。日本の住宅もその小ささ故に兎小屋と揶揄されたが、コチュラの場合は何の装飾もない粗末な建物と言う意味だったろう。周囲のこれまでの建築事情を見れば無理もない。古くはルネサンス時代の絵画建築、新しくはファンタやポリーフカの華やかなアール・ヌーヴォー建築が陸続と建てられたプラハの街である。当然といえば当然の反応だっただろう。これまで構造材として使われていた煉瓦を意匠として全面的に使用した斬新さも、当時の人々にはいかにも粗末なと言う印象に一役買ったかもしれない。精神的に参っていた時期もあったようで、ワグナーシューレの仲間であるオルブリッヒに悲嘆にくれた手紙を送ったりしていたようである。コチュラの実作が少ないのは時代に受け入れられなかった故ということなのだろうか。

Urbankuv1

ペテルカ館カでも書いたようにコチュラはチェコ近代建築の祖と呼ばれている。オットー・ワグナーに合理主義を学び、自らも1909年コチュラ自邸やライヒテルハウス、1912年ウルバーネクハウスと既にモダニズムと言っていい建築を建てている。アメリカのフランク・ロイド・ライトやイギリスのマッキントッシュ、オランダのベルラーヘ等世界の建築家にも興味を持ち、チェコの建築界に紹介もしている。プラハについて多数著作のある京都精華大学の田中充子助教授によると、そんなコチュラの根底にあったのは「芸術は必要によってつくられる」というモダニズムのあくなき追求だったのではないかということである。モダニズムと言えば誰もが真っ先に思い浮かべるのはル・コルビュジェだが、ル・コルビュジェが有名なドミノ・システムを発表したのは1914年のこと。そのころ既にJ・コチュラはモダニズム建築を建てている。スイス人のル・コルビュジェがフランスで活躍したように、チェコ人のミュシャがフランスに行ってメジャーになったように、コチュラの活躍の場がフランスであったら・・・と考えなくもないが、逆にコチュラがチェコにいなければ「建築博物館」と言われるプラハの町もかなり色あせたものとなったかもしれない。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

インターコンチネンタル香港

Hic1

InterContinental HongKong

18Salisbury Rd., Tsim Sha Tsui

久しぶりに会社に休みをもらって香港に行った。今回の宿泊はヴィクトリア・ハーバーに突き出すように立つ香港屈指の立地を誇る5つ星ホテル、インターコンチネンタル香港である。このホテルは香港へ来るたびにラウンジやレストランで何度も利用しているのだが宿泊するのは初めてだ。オリエンタルなムードに纏められた広々とした客室は、ゴージャスかつ機能的。評判通りの快適さである。

Hic3

日本人の8割がハーバービューを指定する中で、「眺めのいい部屋」に拘らない私達は若干リーズナブルなシティビューの部屋に。こちらの間取りの方が少し広いらしく、ビジネスマンやリピーターには人気なのだとか。

ちなみに、たまたま知り合ったバックパッカーの男の子がコーナーのジュニアスイートに泊まっていると言うので部屋を見せてもらったが、部屋の広さと眺望とバスがジャグジー付きということ以外は私達の部屋とそう変わらなかった(まあ、それだけ違えば十分違うけれど)。なんでも、彼は香港の夜景をとても楽しみにしていて1日だけ豪華なホテルに泊まろうと思いハーバービューを予約したところホテルの方で手違いがあったため、お詫びにグレードアップしてくれたのだとか。羨ましい・・・。

Hic5

洗面、バス、シャワーブース、トイレといった水周りはベッドの背中側に置かれ、両側から出入りが出来るようになっている。どちらのベッドの側からもすぐに入れるということは、些細な事ながら非常に快適。上の写真のバスタブの右横に洗面、左横に若干暗いながらも鏡とドライヤーが使えるようになっている。これだと洗面台をもう一人が使えて水周りを離れることなくドライヤーが使える。しかも人を避けなくてもするっと部屋へと出て行ける。コンラッドのツーボウルの洗面台もかなり嬉しかったけれど、インターコンのこの動線の取り方はかなりいいかも。

Hic2

この日は一緒に旅行に行った姉のバースデイ。ホテルからケーキのプレゼントが。

Hic4

シティビューの私たちの部屋はホテルのプールを見下ろすことになる。左にはペニンシュラ、右には僅かながら海と星光大道も見える。プールの空き具合も確認できるし、夜景の美しい時間に部屋にいないのであれば、ハーバービューにこだわらなくてもいいかもしれない(セントラルのビルが綺麗なのは大体10時くらいまでのような・・・)。

Hic7

今回1番楽しみにしていたインフィニティ ジャグジー。異なる3つの温度に分かれている。右端が通常のお風呂温度、左はぬるま湯、真ん中は18度とかなり冷たい(プールが28度くらいだからかなりのものだと思う)。

Hic9

夜はこんな感じ。ちなみにプール・ジャグジーはAM6:00~PM10:00まで。是非24時までにして頂きたい。

Hic10

プールサイドのバー。朝食やランチも食べられて人気。

Hic6

1Fのフレンチレストラン「スプーン」からの眺め。インターコンと言えば夜景の見えるラウンジが有名だが、その隣にある。素直においしかった・・・。

香港のホテルは色々宿泊したつもりだが、インターコンチネンタルは噂に違わずとても素敵なホテルだった。バックパッカーの彼ではないが、私達も旅行社の手配違いで宿泊の予約が取れていなかった(他のホテルに入っていた)ということが旅行前に発覚したが、その時もホテルには何の関係もないことなのに非常に親切にスマートに対応してくれた。やはりホテルの快適さはホスピタリティに尽きるのかなぁとこんな時は思う。

また、インターコンチネンタル香港は、高級ホテルなのに気取らないというか妙にくだけたところがある。プールまでバスローブとスリッパで行っても全く問題ない。というか、それが普通。エステに予約をしたところ「部屋のバスローブでお越しください」と言われた。いくらアジアだからと言っても他の香港のホテルでは、部屋の外をバスローブはおろかスリッパで出歩くのも禁止されているのが普通だ。気楽にプールが利用できて、嬉しいシステムだった。是非また泊まりたいなぁと思ったが、同じホテルに二度は宿泊しない主義の私達なので、次回の香港もまた違うホテルに泊まっているのだろうと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ペテルカ館

Peterkuv1

ヴァーツラフ広場に面して立つペテルカ館は、ヤン・コチュラのプラハ帰国後最初の作品である。店舗と住宅の複合建築で、大きなガラスが嵌め込まれたプラハ最初の建物だと言う。男女の彫刻、花をモチーフにした化粧漆喰、鋳鉄の窓装飾を持つファサードはとても控えめな印象で、装飾性の高いプラハのアール・ヌーヴォー建築の中では異色の存在である。

Peterkuv2

ヤン・コチュラはチェコ近代建築の父と言われる建築家である。1894年~1897年までウィーンのオットー・ワグナーの下で学んでいる。ワグナーの講座は「ワグナー・シューレ」と呼ばれ、ドイツのJ・M・オルブリッヒ、モラヴィアのJ・ホフマン、スロベニアのJ・プレチュニクといった傑出した建築家を輩出しており、コチュラもその一人である。コチュラはウィーンに招聘されたオーマンの後継者としてプラハの工芸美術学校で教鞭を振るった(このブログでも取り上げたホテル・セントラルの建設途中でオーマンがウィーンに招聘され、後を弟子の二人に引き継いだあのときのことである)。このペテルカ館は1899~1900年の作品なので帰国後早々に建てられているが、コチュラの実作は実際にはかなり少なく10件ほどしかないのだそうだ。建築家というよりも教育者としての功績の方が大きく、チェコは彼の門下生の手により近代化を進められて行くのである。

Peterkuv3

全体に垂直性の高いすっきりとした印象のファサードがウィーン分離派らしい。

| | コメント (0) | トラックバック (2)

カフェ スラヴィア

Cafeslavia2

国民劇場の前にあるカフェ・スラヴィア。店内からヴルタヴァ川が見えることとアール・デコの内装で有名なこのカフェは、1800年代に創業した老舗のカフェである。創業当時はチェコの演劇人や作家、画家、政治家の溜まり場だったと言われている。

このカフェは詩人のリルケが通っていたため当時のプラハの若い娘達の間で「リルケ・ランデブー」と呼ばれていたと言う話が、「プラハの日々」というインド小説の中で紹介されている。インド人留学生でガイドをしている主人公と旅行客の女性との恋愛小説らしいのだが、インドの小説なので日本語訳はなく私はあらすじを聞いただけで実際の内容は知らない。聞く限りではなんとなく哲学的な感じで興味をそそられた。英語訳はあるようだったが、これもなかなか入手できそうにないのが非常に残念だ。ただこのエピソードは、リルケ会いたさにカフェに通う女の子たちの姿を想像するとなんだか微笑ましくてとても気に入っている。

ちなみに、リルケが通ったのは「国民カフェ」とする本もあるようだ。この「国民カフェ」がどこのカフェを指しているのか少し調べてみたがわからなかった。このカフェ・スラヴィアが国民通りにあり、「スラヴィア」という民族の名前を冠していることを考えると、このカフェのことではないかと思うのだが・・・。

Cafeslavia1

カフェ・スラヴィアはケーキがとてもおいしいと評判。写真はホット・アップル。サンドイッチのような軽食だけでなく、本格的なチェコ料理も食べることが出来る。

| | コメント (0) | トラックバック (2)

国民劇場

Kokumingekijo4

プラハに着いた翌朝まず一番に向かったのがナーロドニー通りの西端ブルタヴァ川にぶつかるところにある国民劇場だった。国民劇場のガイドツアーが行なわれるのは唯一日曜日だけで、市民会館同様不定期に行なわれるらしく時間を前もって知ることができない。今回の旅行ではこの日1日しか見学の機会はないので、ひとまず最優先した次第である。実際は0分と30分の30分単位で行なわれるようだが、時間帯によりツアーの言語が異なるようである。

国民劇場というストレートな名前を持つこの建物は、チェコ語によるチェコ人のための恒久的劇場を造ろうとういうスローガンのもとに建てられた民族復興のシンボルとなる建築である。堂々とした佇まいのこの劇場が、市民の寄付で建てられたと言うから驚く。しかもこの劇場は初めからこの姿でここに建っていた訳ではないのである。

Kokumingekijo2

内部に展示されている模型。上から見ると不定形な立地に建てられているのがよくわかる。

現在の国民劇場はチェコ語の劇場としては三代目、石の劇場としては二代目にあたる。オーストリア治下にあった当時のプラハでは公用語はドイツ語であり、唯一あったエステート劇場もドイツ語劇がメインでチェコ語劇はごく稀にしか上演されなかった。そこで民族復興に燃える市民の中で、チェコ人のための新しい劇場をつくろうとの機運が高まったのである。一旦は1862年にイグナーツ・ウルマン設計による木造の劇場が完成した。900人の観客席があったというからそれなりの規模のものであったと思われるが、石の劇場ではないため恒久的建築とは言えない。建築家ヨゼフ・ジーテクの訴えにより、恒久的石の劇場をつくるため再度募金が募られ、設計コンペが行なわれた。コンペではジーテクのネオルネサンス様式の設計案が当選し、これが二代目の劇場となる。ジーテク案の二代目劇場は1881年5月に完成し6月11日に仮開きが行なわれたが、その1日後に火事で消失してしまう。この劇場の建設にあたりオーストリア・ハンガリー帝国の建設許可が下りるまでに5年程も待たされ、その後13年の歳月を経てようやく完成した劇場であることを考えると、市民の落胆は想像して余りある。しかし、そのとき一人の男が「また劇場をつくろう」と帽子を回した。すると人々は競ってその帽子にお金を入れたという。こうして、チェコ人の悲願であるチェコ人のための劇場は三度目にしてようやく完成するのである。

Kokumingekijo3

現在の国民劇場はジーテクの弟子であるシュルツによって僅か二年で建てられた。シュルツに代わったのは、ジーテクの案がウィーンのオペラ座に似ているとして非難されたことと火事の責任を取らされたためらしい。実際にはシュルツはジーテク案を踏襲したため国民劇場はウィーンのオペラ座によく似た外観となったが、当時の人々はこれで納得したのだろうか。そのあたり少し不思議ではあるが、「ヴルタヴァ川の川の黄金の礼拝堂」「再生の聖堂」と呼ばれ大切にされていることを考えると、結果的にはそんなことはどうでもよかったのだろう。

Kokumingekijo7

舞台の中央、装飾のペンデンティブ下あたりに「NAROD SOBE」の文字が刻まれている。「民族が自分自身のために」という意味だそうだ。こけら落としにはスメタナの「リブシェ」というチェコ創世の伝説を題材にしたオペラが上演された。日本は幸いにもこのような民族のアイデンティティの危機を殆ど経験したことがない。幸いなことだと勿論思うけれど、民族的誇りというものに鈍感になっている自分について少し恥ずかしいような複雑な気持ちになった。

Kokumingekijo5

緩いカーブを描く上階席

Kokumingekijo1

天井装飾

Kokumingekijo6

上階を見下ろす

| | コメント (0) | トラックバック (0)

プラハ保険会社

Prghoken1

ポリーフカのチェコ国立銀行のあるナ・プシコピェ通りを南西に進みヴァーツラフ広場を通り過ぎたところで、ナーロドニー通りという大きな通りに出る。都市整備の一環として整備されたナ・プシコピェ通りは経済成長期のプラハで新興ブルジョワジーのお洒落な散歩道となったが、そこを散歩するのはドイツ系市民ばかりでチェコ人はその先に続く通りを散歩したと言われている。そのためかナ・プシコピェ通りの続きのように見えるこの通りはナーロドニー、国民通りと呼ばれている。このナーロドニー通りをさらに西へ進むとそこはもうブルタヴァ川で、アールデコの内装で有名なカフェ・スラヴィアや国民劇場に辿り着く。その一角に至る少し前に柔らかな色彩のレリーフが印象的なポリーフカ設計のプラハ保険会社が立っている。1907年の作品である。レイアウトこそ左右対称であるが梟の彫刻やアルファベットに縁取られた窓等遊び心溢れるファサードは一際人目を引く。装飾になみなみならぬ力を注いだポリーフカらしい賑やかさだ。

Prghoken2

軒下のアップ。PRAHAと書かれている。チェコ国立銀行ではボヘミアンスタイルの半円装飾が並んでいたが、プラハ保険会社ではこんなお茶目な装飾に。

Prghoken3

中央の入口

この扉の奥に美しいステンドグラスの扉が続いている。

Prghoken4

アールヌーヴォーらしい扉口の文字

Prghoken5

中央の出窓の上の梟

Prghoken6

2階壁面はすべてレリーフで覆われている。

プラハにはポリーフカの建築が多く残されており、ポリーフカが如何に人気の建築家だったかよくわかる。このプラハ保険会社にしろ、ウ・ノバークの家にしろ、ポリーフカの建築は私にはかなり奇抜に見える。プラハは「百塔の街」「石畳の街」と呼ばれており、この呼び名はつまりプラハが中世の街並みをよく残す街であることを示す証拠だと思うのだが、そういう街でこのような奇抜な建築がよく受け入れられたものだと不思議でならない。市民会館はさすがに美観を損ねるとの抗議もあったらしいが・・・。

| | コメント (2) | トラックバック (1)

チェコ国立銀行

Chbank4

火薬塔が市壁の一部であったことは前回も書いたが、取り壊された市壁はその周りを囲んでいた濠を埋めるのに使用された。1760年のことである。火薬塔からヴァーツラフ広場を繋ぐナ・プシコピェ通り(お濠の上通り)がそれで、今ではプラハ随一のビジネス街となっている。そのナ・プシコピェ通り20番にポリーフカ1896年の作品であるチェコ国立銀行がある。ネオ・ルネサンス様式で軒下の装飾が美しいが、自己主張の少ないその建物は街並みに溶け込んでともすれば通り過ぎてしまいそうになる。過度に装飾的なポリーフカも初期にはこのよな落ち着いたデザインのものを手掛けていたのだと興味深く思った。

Chbank2

軒蛇腹に半円形の装飾を並べる伝統的なデザイン

Chbank1

繊細な草花文様はよく見ると絵ではなく漆喰装飾だった。手が込んでいる。モザイクはチェコの自然や伝説をテーマにしたミクラーシュ・アレの下絵をもとにしてつくられた。

Chbank3

銀行の入口。赤いテレジア時代の番地と青いチェコ・スロバキアになってからの番地が左右についている。

Chbank5

要石のレリーフ

この銀行は内部が非常に美しい。上の写真の小さな扉を入ると大きな階段ホールに出る。その階段を上がった先が銀行窓口のある部屋なのだが、この階段室の天井が品よく美しい。イタリアのバロックの宮殿を彷彿とするような本格派古典建築の風情である。優雅な階段を登りきり銀行窓口のある部屋へ入るとそこはガラス天井のアールヌーヴォー的空間が広がっている。銀行なので写真撮影はできないが、両替ついでに見学をすることは可能。好みはあるが抑制のきいたデザインのこの銀行は、いくつか見たポリーフカの作品の中で私は1番好きな作品である。

| | コメント (0) | トラックバック (2)

火薬塔

Kayaku1

旧市街広場からツェレトゥナー通りをまっすぐに歩いて行くと黒く煤けたゴシックの塔が見えてくる。火薬塔という無粋な名で呼ばれているが、17世紀に火薬倉庫として使われていたためこの名がついたらしい。1475年にペトル・パルレーシュのカレル橋の橋塔を手本にしてライセックが設計したものだ(パルレーシュはヴィート大聖堂を手掛けたドイツ人である)。もともとは旧市街を囲む市壁の一部だったが、18世紀の都市整備の一環で取り壊されてしまった。火薬塔を眺めているとさぞかし立派な市壁だったのだろうと思われ、私としては残念でならない。ローマやドイツのローテンブルク、北フランスのサン・マロやスペインのアビラ等、城壁に囲まれたヨーロッパの都市はいずれも非常に魅力的で、この市壁が存在したプラハはどんな風に見えただろうとつい考えてしまうのである。

Kayaku2

排気ガスですっかり煤けてしまったが、火薬塔という名前に似合わずレリーフや金の装飾が施された塔はなかなか華麗な印象である。今では市民会館がたっている場所に15世紀まではボヘミア王の宮殿があった。歴代の王はこの宮殿から戴冠式を挙げるプラハ城のヴィート大聖堂まで行進するのが慣わしであり、その行進の道筋は「王の道」と呼ばれ今では賑やかな観光ルートとなっている。この火薬塔はかつては王宮の隣にたっており、この「王の道」の起点だったのである。

Kayaku3

これが手本となったパルレーシュのカレル橋橋塔。屋根も全体のシルエッットもよく似ているが、装飾はこちらの方がシンプルな印象だ。この屋根の形は新市街の市庁舎等他の建物にも見られプラハの伝統的なものかと思っていたのだが、もとはパルレーシュが考案したものだったのだろうか。疑問・・・。

Kayaku4

火薬塔からプラは中央駅へ行く途中にあるヘンリー塔。これは市壁の一部と言うわけではなさそうだが、屋根の形はよく似ている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧