ウルバーネクハウス

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ナ・プシーコピエ通りからナーロドニー通りへ抜けるあたりでロンド・キュビズムで有名なアドリア宮殿の威風堂々たる姿が見えてくる。そこを南へ折れるとユングマノヴァ通りである。目指すウルバーネクハウスはアドリア宮殿の斜め向かいにその威圧的な様子とは対照的にひっそりと立っている。J.コチュラ、1912年の作品で、プラハにおけるモダニズムの萌芽と言われている。直線のみで構成された赤煉瓦壁の建物は劇場・店舗・住宅からなる複合施設。ファサードは上へ行くに従って微妙にセットバックしており、装飾らしい装飾はファサードを3分割する付柱くらいだが、こちらも上へ行くに従って厚みを増すようにつくられている。過剰ともいえるほど装飾に溢れた当時のプラハにおいて、シンプルなコチュラのこの建物はさぞや貧弱に見えたことだろう。

現在は違うだろうが、チェコでは装飾のない近代建築は兎小屋と言われた。日本の住宅もその小ささ故に兎小屋と揶揄されたが、コチュラの場合は何の装飾もない粗末な建物と言う意味だったろう。周囲のこれまでの建築事情を見れば無理もない。古くはルネサンス時代の絵画建築、新しくはファンタやポリーフカの華やかなアール・ヌーヴォー建築が陸続と建てられたプラハの街である。当然といえば当然の反応だっただろう。これまで構造材として使われていた煉瓦を意匠として全面的に使用した斬新さも、当時の人々にはいかにも粗末なと言う印象に一役買ったかもしれない。精神的に参っていた時期もあったようで、ワグナーシューレの仲間であるオルブリッヒに悲嘆にくれた手紙を送ったりしていたようである。コチュラの実作が少ないのは時代に受け入れられなかった故ということなのだろうか。

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ペテルカ館カでも書いたようにコチュラはチェコ近代建築の祖と呼ばれている。オットー・ワグナーに合理主義を学び、自らも1909年コチュラ自邸やライヒテルハウス、1912年ウルバーネクハウスと既にモダニズムと言っていい建築を建てている。アメリカのフランク・ロイド・ライトやイギリスのマッキントッシュ、オランダのベルラーヘ等世界の建築家にも興味を持ち、チェコの建築界に紹介もしている。プラハについて多数著作のある京都精華大学の田中充子助教授によると、そんなコチュラの根底にあったのは「芸術は必要によってつくられる」というモダニズムのあくなき追求だったのではないかということである。モダニズムと言えば誰もが真っ先に思い浮かべるのはル・コルビュジェだが、ル・コルビュジェが有名なドミノ・システムを発表したのは1914年のこと。そのころ既にJ・コチュラはモダニズム建築を建てている。スイス人のル・コルビュジェがフランスで活躍したように、チェコ人のミュシャがフランスに行ってメジャーになったように、コチュラの活躍の場がフランスであったら・・・と考えなくもないが、逆にコチュラがチェコにいなければ「建築博物館」と言われるプラハの町もかなり色あせたものとなったかもしれない。

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インターコンチネンタル香港

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InterContinental HongKong

18Salisbury Rd., Tsim Sha Tsui

久しぶりに会社に休みをもらって香港に行った。今回の宿泊はヴィクトリア・ハーバーに突き出すように立つ香港屈指の立地を誇る5つ星ホテル、インターコンチネンタル香港である。このホテルは香港へ来るたびにラウンジやレストランで何度も利用しているのだが宿泊するのは初めてだ。オリエンタルなムードに纏められた広々とした客室は、ゴージャスかつ機能的。評判通りの快適さである。

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日本人の8割がハーバービューを指定する中で、「眺めのいい部屋」に拘らない私達は若干リーズナブルなシティビューの部屋に。こちらの間取りの方が少し広いらしく、ビジネスマンやリピーターには人気なのだとか。

ちなみに、たまたま知り合ったバックパッカーの男の子がコーナーのジュニアスイートに泊まっていると言うので部屋を見せてもらったが、部屋の広さと眺望とバスがジャグジー付きということ以外は私達の部屋とそう変わらなかった(まあ、それだけ違えば十分違うけれど)。なんでも、彼は香港の夜景をとても楽しみにしていて1日だけ豪華なホテルに泊まろうと思いハーバービューを予約したところホテルの方で手違いがあったため、お詫びにグレードアップしてくれたのだとか。羨ましい・・・。

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洗面、バス、シャワーブース、トイレといった水周りはベッドの背中側に置かれ、両側から出入りが出来るようになっている。どちらのベッドの側からもすぐに入れるということは、些細な事ながら非常に快適。上の写真のバスタブの右横に洗面、左横に若干暗いながらも鏡とドライヤーが使えるようになっている。これだと洗面台をもう一人が使えて水周りを離れることなくドライヤーが使える。しかも人を避けなくてもするっと部屋へと出て行ける。コンラッドのツーボウルの洗面台もかなり嬉しかったけれど、インターコンのこの動線の取り方はかなりいいかも。

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この日は一緒に旅行に行った姉のバースデイ。ホテルからケーキのプレゼントが。

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シティビューの私たちの部屋はホテルのプールを見下ろすことになる。左にはペニンシュラ、右には僅かながら海と星光大道も見える。プールの空き具合も確認できるし、夜景の美しい時間に部屋にいないのであれば、ハーバービューにこだわらなくてもいいかもしれない(セントラルのビルが綺麗なのは大体10時くらいまでのような・・・)。

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今回1番楽しみにしていたインフィニティ ジャグジー。異なる3つの温度に分かれている。右端が通常のお風呂温度、左はぬるま湯、真ん中は18度とかなり冷たい(プールが28度くらいだからかなりのものだと思う)。

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夜はこんな感じ。ちなみにプール・ジャグジーはAM6:00~PM10:00まで。是非24時までにして頂きたい。

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プールサイドのバー。朝食やランチも食べられて人気。

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1Fのフレンチレストラン「スプーン」からの眺め。インターコンと言えば夜景の見えるラウンジが有名だが、その隣にある。素直においしかった・・・。

香港のホテルは色々宿泊したつもりだが、インターコンチネンタルは噂に違わずとても素敵なホテルだった。バックパッカーの彼ではないが、私達も旅行社の手配違いで宿泊の予約が取れていなかった(他のホテルに入っていた)ということが旅行前に発覚したが、その時もホテルには何の関係もないことなのに非常に親切にスマートに対応してくれた。やはりホテルの快適さはホスピタリティに尽きるのかなぁとこんな時は思う。

また、インターコンチネンタル香港は、高級ホテルなのに気取らないというか妙にくだけたところがある。プールまでバスローブとスリッパで行っても全く問題ない。というか、それが普通。エステに予約をしたところ「部屋のバスローブでお越しください」と言われた。いくらアジアだからと言っても他の香港のホテルでは、部屋の外をバスローブはおろかスリッパで出歩くのも禁止されているのが普通だ。気楽にプールが利用できて、嬉しいシステムだった。是非また泊まりたいなぁと思ったが、同じホテルに二度は宿泊しない主義の私達なので、次回の香港もまた違うホテルに泊まっているのだろうと思う。

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ペテルカ館

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ヴァーツラフ広場に面して立つペテルカ館は、ヤン・コチュラのプラハ帰国後最初の作品である。店舗と住宅の複合建築で、大きなガラスが嵌め込まれたプラハ最初の建物だと言う。男女の彫刻、花をモチーフにした化粧漆喰、鋳鉄の窓装飾を持つファサードはとても控えめな印象で、装飾性の高いプラハのアール・ヌーヴォー建築の中では異色の存在である。

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ヤン・コチュラはチェコ近代建築の父と言われる建築家である。1894年~1897年までウィーンのオットー・ワグナーの下で学んでいる。ワグナーの講座は「ワグナー・シューレ」と呼ばれ、ドイツのJ・M・オルブリッヒ、モラヴィアのJ・ホフマン、スロベニアのJ・プレチュニクといった傑出した建築家を輩出しており、コチュラもその一人である。コチュラはウィーンに招聘されたオーマンの後継者としてプラハの工芸美術学校で教鞭を振るった(このブログでも取り上げたホテル・セントラルの建設途中でオーマンがウィーンに招聘され、後を弟子の二人に引き継いだあのときのことである)。このペテルカ館は1899~1900年の作品なので帰国後早々に建てられているが、コチュラの実作は実際にはかなり少なく10件ほどしかないのだそうだ。建築家というよりも教育者としての功績の方が大きく、チェコは彼の門下生の手により近代化を進められて行くのである。

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全体に垂直性の高いすっきりとした印象のファサードがウィーン分離派らしい。

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カフェ スラヴィア

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国民劇場の前にあるカフェ・スラヴィア。店内からヴルタヴァ川が見えることとアール・デコの内装で有名なこのカフェは、1800年代に創業した老舗のカフェである。創業当時はチェコの演劇人や作家、画家、政治家の溜まり場だったと言われている。

このカフェは詩人のリルケが通っていたため当時のプラハの若い娘達の間で「リルケ・ランデブー」と呼ばれていたと言う話が、「プラハの日々」というインド小説の中で紹介されている。インド人留学生でガイドをしている主人公と旅行客の女性との恋愛小説らしいのだが、インドの小説なので日本語訳はなく私はあらすじを聞いただけで実際の内容は知らない。聞く限りではなんとなく哲学的な感じで興味をそそられた。英語訳はあるようだったが、これもなかなか入手できそうにないのが非常に残念だ。ただこのエピソードは、リルケ会いたさにカフェに通う女の子たちの姿を想像するとなんだか微笑ましくてとても気に入っている。

ちなみに、リルケが通ったのは「国民カフェ」とする本もあるようだ。この「国民カフェ」がどこのカフェを指しているのか少し調べてみたがわからなかった。このカフェ・スラヴィアが国民通りにあり、「スラヴィア」という民族の名前を冠していることを考えると、このカフェのことではないかと思うのだが・・・。

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カフェ・スラヴィアはケーキがとてもおいしいと評判。写真はホット・アップル。サンドイッチのような軽食だけでなく、本格的なチェコ料理も食べることが出来る。

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国民劇場

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プラハに着いた翌朝まず一番に向かったのがナーロドニー通りの西端ブルタヴァ川にぶつかるところにある国民劇場だった。国民劇場のガイドツアーが行なわれるのは唯一日曜日だけで、市民会館同様不定期に行なわれるらしく時間を前もって知ることができない。今回の旅行ではこの日1日しか見学の機会はないので、ひとまず最優先した次第である。実際は0分と30分の30分単位で行なわれるようだが、時間帯によりツアーの言語が異なるようである。

国民劇場というストレートな名前を持つこの建物は、チェコ語によるチェコ人のための恒久的劇場を造ろうとういうスローガンのもとに建てられた民族復興のシンボルとなる建築である。堂々とした佇まいのこの劇場が、市民の寄付で建てられたと言うから驚く。しかもこの劇場は初めからこの姿でここに建っていた訳ではないのである。

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内部に展示されている模型。上から見ると不定形な立地に建てられているのがよくわかる。

現在の国民劇場はチェコ語の劇場としては三代目、石の劇場としては二代目にあたる。オーストリア治下にあった当時のプラハでは公用語はドイツ語であり、唯一あったエステート劇場もドイツ語劇がメインでチェコ語劇はごく稀にしか上演されなかった。そこで民族復興に燃える市民の中で、チェコ人のための新しい劇場をつくろうとの機運が高まったのである。一旦は1862年にイグナーツ・ウルマン設計による木造の劇場が完成した。900人の観客席があったというからそれなりの規模のものであったと思われるが、石の劇場ではないため恒久的建築とは言えない。建築家ヨゼフ・ジーテクの訴えにより、恒久的石の劇場をつくるため再度募金が募られ、設計コンペが行なわれた。コンペではジーテクのネオルネサンス様式の設計案が当選し、これが二代目の劇場となる。ジーテク案の二代目劇場は1881年5月に完成し6月11日に仮開きが行なわれたが、その1日後に火事で消失してしまう。この劇場の建設にあたりオーストリア・ハンガリー帝国の建設許可が下りるまでに5年程も待たされ、その後13年の歳月を経てようやく完成した劇場であることを考えると、市民の落胆は想像して余りある。しかし、そのとき一人の男が「また劇場をつくろう」と帽子を回した。すると人々は競ってその帽子にお金を入れたという。こうして、チェコ人の悲願であるチェコ人のための劇場は三度目にしてようやく完成するのである。

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現在の国民劇場はジーテクの弟子であるシュルツによって僅か二年で建てられた。シュルツに代わったのは、ジーテクの案がウィーンのオペラ座に似ているとして非難されたことと火事の責任を取らされたためらしい。実際にはシュルツはジーテク案を踏襲したため国民劇場はウィーンのオペラ座によく似た外観となったが、当時の人々はこれで納得したのだろうか。そのあたり少し不思議ではあるが、「ヴルタヴァ川の川の黄金の礼拝堂」「再生の聖堂」と呼ばれ大切にされていることを考えると、結果的にはそんなことはどうでもよかったのだろう。

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舞台の中央、装飾のペンデンティブ下あたりに「NAROD SOBE」の文字が刻まれている。「民族が自分自身のために」という意味だそうだ。こけら落としにはスメタナの「リブシェ」というチェコ創世の伝説を題材にしたオペラが上演された。日本は幸いにもこのような民族のアイデンティティの危機を殆ど経験したことがない。幸いなことだと勿論思うけれど、民族的誇りというものに鈍感になっている自分について少し恥ずかしいような複雑な気持ちになった。

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緩いカーブを描く上階席

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天井装飾

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上階を見下ろす

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プラハ保険会社

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ポリーフカのチェコ国立銀行のあるナ・プシコピェ通りを南西に進みヴァーツラフ広場を通り過ぎたところで、ナーロドニー通りという大きな通りに出る。都市整備の一環として整備されたナ・プシコピェ通りは経済成長期のプラハで新興ブルジョワジーのお洒落な散歩道となったが、そこを散歩するのはドイツ系市民ばかりでチェコ人はその先に続く通りを散歩したと言われている。そのためかナ・プシコピェ通りの続きのように見えるこの通りはナーロドニー、国民通りと呼ばれている。このナーロドニー通りをさらに西へ進むとそこはもうブルタヴァ川で、アールデコの内装で有名なカフェ・スラヴィアや国民劇場に辿り着く。その一角に至る少し前に柔らかな色彩のレリーフが印象的なポリーフカ設計のプラハ保険会社が立っている。1907年の作品である。レイアウトこそ左右対称であるが梟の彫刻やアルファベットに縁取られた窓等遊び心溢れるファサードは一際人目を引く。装飾になみなみならぬ力を注いだポリーフカらしい賑やかさだ。

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軒下のアップ。PRAHAと書かれている。チェコ国立銀行ではボヘミアンスタイルの半円装飾が並んでいたが、プラハ保険会社ではこんなお茶目な装飾に。

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中央の入口

この扉の奥に美しいステンドグラスの扉が続いている。

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アールヌーヴォーらしい扉口の文字

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中央の出窓の上の梟

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2階壁面はすべてレリーフで覆われている。

プラハにはポリーフカの建築が多く残されており、ポリーフカが如何に人気の建築家だったかよくわかる。このプラハ保険会社にしろ、ウ・ノバークの家にしろ、ポリーフカの建築は私にはかなり奇抜に見える。プラハは「百塔の街」「石畳の街」と呼ばれており、この呼び名はつまりプラハが中世の街並みをよく残す街であることを示す証拠だと思うのだが、そういう街でこのような奇抜な建築がよく受け入れられたものだと不思議でならない。市民会館はさすがに美観を損ねるとの抗議もあったらしいが・・・。

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チェコ国立銀行

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火薬塔が市壁の一部であったことは前回も書いたが、取り壊された市壁はその周りを囲んでいた濠を埋めるのに使用された。1760年のことである。火薬塔からヴァーツラフ広場を繋ぐナ・プシコピェ通り(お濠の上通り)がそれで、今ではプラハ随一のビジネス街となっている。そのナ・プシコピェ通り20番にポリーフカ1896年の作品であるチェコ国立銀行がある。ネオ・ルネサンス様式で軒下の装飾が美しいが、自己主張の少ないその建物は街並みに溶け込んでともすれば通り過ぎてしまいそうになる。過度に装飾的なポリーフカも初期にはこのよな落ち着いたデザインのものを手掛けていたのだと興味深く思った。

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軒蛇腹に半円形の装飾を並べる伝統的なデザイン

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繊細な草花文様はよく見ると絵ではなく漆喰装飾だった。手が込んでいる。モザイクはチェコの自然や伝説をテーマにしたミクラーシュ・アレの下絵をもとにしてつくられた。

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銀行の入口。赤いテレジア時代の番地と青いチェコ・スロバキアになってからの番地が左右についている。

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要石のレリーフ

この銀行は内部が非常に美しい。上の写真の小さな扉を入ると大きな階段ホールに出る。その階段を上がった先が銀行窓口のある部屋なのだが、この階段室の天井が品よく美しい。イタリアのバロックの宮殿を彷彿とするような本格派古典建築の風情である。優雅な階段を登りきり銀行窓口のある部屋へ入るとそこはガラス天井のアールヌーヴォー的空間が広がっている。銀行なので写真撮影はできないが、両替ついでに見学をすることは可能。好みはあるが抑制のきいたデザインのこの銀行は、いくつか見たポリーフカの作品の中で私は1番好きな作品である。

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火薬塔

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旧市街広場からツェレトゥナー通りをまっすぐに歩いて行くと黒く煤けたゴシックの塔が見えてくる。火薬塔という無粋な名で呼ばれているが、17世紀に火薬倉庫として使われていたためこの名がついたらしい。1475年にペトル・パルレーシュのカレル橋の橋塔を手本にしてライセックが設計したものだ(パルレーシュはヴィート大聖堂を手掛けたドイツ人である)。もともとは旧市街を囲む市壁の一部だったが、18世紀の都市整備の一環で取り壊されてしまった。火薬塔を眺めているとさぞかし立派な市壁だったのだろうと思われ、私としては残念でならない。ローマやドイツのローテンブルク、北フランスのサン・マロやスペインのアビラ等、城壁に囲まれたヨーロッパの都市はいずれも非常に魅力的で、この市壁が存在したプラハはどんな風に見えただろうとつい考えてしまうのである。

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排気ガスですっかり煤けてしまったが、火薬塔という名前に似合わずレリーフや金の装飾が施された塔はなかなか華麗な印象である。今では市民会館がたっている場所に15世紀まではボヘミア王の宮殿があった。歴代の王はこの宮殿から戴冠式を挙げるプラハ城のヴィート大聖堂まで行進するのが慣わしであり、その行進の道筋は「王の道」と呼ばれ今では賑やかな観光ルートとなっている。この火薬塔はかつては王宮の隣にたっており、この「王の道」の起点だったのである。

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これが手本となったパルレーシュのカレル橋橋塔。屋根も全体のシルエッットもよく似ているが、装飾はこちらの方がシンプルな印象だ。この屋根の形は新市街の市庁舎等他の建物にも見られプラハの伝統的なものかと思っていたのだが、もとはパルレーシュが考案したものだったのだろうか。疑問・・・。

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火薬塔からプラは中央駅へ行く途中にあるヘンリー塔。これは市壁の一部と言うわけではなさそうだが、屋根の形はよく似ている。

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3つの白薔薇館

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「プラハに行ったらハードロックカフェでピンズ買って来てね。旧市街広場に出来たらしいから絶対通るはずだし。」

プラハ旅行の直前、姉からメールが来た。なんでもチェコ初のハードロックカフェが最近オープンしたらしいのである(といっても08年年末の話だけど)。私の実家では海外へ行ったら必ずハードロックカフェのご当地ピンズを買って来ることになっていて、おかげで私自身も結構な数のコレクションが収集されつつある。

旧市街広場は確かに何度も通るところだが、折りしもクリスマス市が開かれているため、全く見通しが利かない。それでもハードロックカフェのことだから派手な看板が出ているはずだしそのうち見つかるだろうと鷹をくくっていたのだが一向に見つかる気配がない。散々周辺を歩き回ってみて、旧市街広場から一歩入った小さな広場(マレー広場というらしい)でやっと見つけた。

上の写真のファサードの繊細な壁画が美しいいかにもプラハの伝統的な館らしい建物が、チェコ初と噂のハードロックカフェである。情報に誤りがあったのも問題だったが、何よりもあのいつもの派手な看板がなかったのが問題だった。建物の1階入口上に小さく「HARD ROCK CAFE」と書いてあるだけなのである。あの派手なマークを探して歩いていたから余計にわかりにくかった。やはり、京都のマクドナルドのMが茶色なのと同じで、美観を損ねるという理由で許可されなかったのだろう。どうせなら、あのギターのマークで小さな標識を造ってくれれば話のネタになったのに・・・。

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この館は「3つの白薔薇館」と呼ばれているらしいが、もとはロッツ金属商会の建物だったらしい。設計はL・ノヴァークとA・オフボァーであることはわかったが、何年頃に建てられたものかはわからなかった。

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軒下に半円形のレリーフを連ねるのはボヘミアン・スタイルによく見られる装飾。

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驚くほど繊細な壁絵。建物のファサードを絵で飾る装飾はルネサンス期から始まったようだ。プラハにはこのように壁絵が美しい建築が数多く残っている。

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ウ・ノバークの家

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ヴォデツォコーヴァ通りを歩いているとギマール風の美しい扉口の館に出会った。建物を見上げると華やかな色合いの壁画とベイウィンドウ下にムンクの「叫び」を思い出すような異様な表情の人の顔の装飾を見つけた。O・ポリーフカのウ・ノヴァークの家(1902~1904年)である。ポリーフカはジーテク教授のもと古典建築を学び、そのキャリアをルネサンス様式からスタートさせている。ポリーフカのファサードを飾る絵画はボヘミアン・ルネサンスからのものと思われ、そのためか保守層からも受け入れられプラハの公共建築を多数手掛けている。ウ・ノヴァークの家を建てた頃から、派手な装飾が目立ってきたようだ。

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ファサード中央を飾る花の女神フローラはJ・プレイスレルの手によるもの。時代を反映して商業と工業がテーマらしいのだが、言われないとわからない。

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ベイウィンドウ下の装飾。ウ・ノバークと言えばコレ!

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窓の下に張り付くカエル。ウ・ノバークにはカエルのモチーフがいくつか見られる。

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アイアンワークも凝っている。

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ギマール風入口の装飾

ちなみに、ウ・ノヴァークの家はヴォデツォコーヴァ通り30番。扉のステンドグラスが見事だけれど、昼間は開いているので気付かずに通り過ぎてしまうかも。

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市民会館(スメタナ・ホール)

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プラハのアールヌーヴォーといって真っ先に思い浮かぶのは、ポリーフカとバルシャーネクによる市民会館だろう。完成は1911年、コンサートホールや展示場、レストラン、カフェの入った文化センターである。コンサートホールの名前だけを取って、「スメタナホール」と呼ばれる方が一般的だ。

市民会館はポリーフカとバルシャーネクの協同設計だが、圧倒的に知名度の高いポーリーフカの作品の中で紹介されることが多い。中にはメインはバルシャーネクでポリーフカは助手として携わったとの説もあるが、建物の外観を特徴付けているコーナーのドームと入口周りのデザインがポリーフカらしいためか、どうもポリーフカの作品としての印象が強い。ネオバロックやネオルネサンス等古典スタイルを取りいれた外観のデザインは、「様式のブレンドと過剰な装飾」と表現されるポリーフカの真骨頂といった趣である。

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コーナーの濃いデザイン。半円状のモザイクはK・シュピラルによるもので、民話の一番面を描いたもの。

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コーナーのバルコニー。このバルコニーに面した部屋がムハ(ミュシャ)が内装を手掛けたことで有名な市長の間。ガラス・鉄・電飾といった近代的な材料をふんだんに使用したこの装飾は、R・シャロンとJ・マラトヤの作品と言われている。

二つ置かれている看板は、コンサートの宣伝と市民会館ガイドツアーの告知。市民会館の内部見学はガイドツアーのみ。不定期に行なわれるためここに時間を表示するシステムになっているようだったが、実際には時間の欄は空白になっていた。内部半地下のインフォメーションの窓口にツアーの時間が表示してある。ちなみに入ってすぐのアール・ヌーヴォー装飾の美しいボックスはコンサート等のチケット売り場である。

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バルコニーの見上げ

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コーナー部分の内部

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上の写真のコーナーを入ってすぐの入口

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部屋の表示も豪華

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エレベーター

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ホールの照明

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扉上部のガラスのデザイン

ちなみに、ここまでは無料で見られる。

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スメタナ・ホール 音楽祭「プラハの春」が催されるのはこのホール。

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スメタナ・ホールのガラスのドーム、バロックっぽく楕円形。

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市長の間の入口

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内装をムハが手掛けたことで有名な市長の間。バルコニーへの扉と二つの窓の3枚のステンドグラスが目を引く。

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中央の扉上のステンドグラス

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市長の間 天井には「スラブの団結」と題された円形天井画が広がる。

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市長の間 繊細な化粧漆喰

この市民会館には多数の芸術家が内装に携わっており、ムハが手掛けたのはこじんまりとした「市長の間」一室のみ。ポリーフカは多数の芸術家と組んで仕事をすることが多かったが、彼の強引な主張は芸術家達との摩擦をしばしば引き起こしたという。ムハとの関係がどうだったかは不明。

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市長の間 暖炉前のアイアンワーク

ちなみにガイドツアーにはショートコースとロングコースがあり、ショートコースの場合はスメタナ・ホールから市長の間まででコースが終了する。特別な興味がなければ、ショートコースで十分。

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廊下の装飾 何だか可愛い

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ワインセラーのある部屋

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アメリカン・バーの照明 ここはバーとして営業しているので、ツアーに参加しなくても入れる。

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1Fのカフェ 豪華で美しく一見の価値アリ。

プラハが舞台となっている映画「トリプルX」で、主人公がヒロインを昼食に誘うのがここ。

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プラハ標識めぐり

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  ○○通り○○西入る-

京都の住所はこんな風に番地を入れないケースが多い。東京の会社に電話で住所を伝えると、時々ではあるが「これで郵送して届きますか」と不安そうに確認されることがある。京都は町が碁盤の目になっているので、○○通りと○○通りの間を西へといった表現で大体のところはわかるようになっている。いたって合理的な住所なのである。古い歴史のある町は多かれ少なかれこのような場所を表わす工夫があるのではないかと思うが、プラハでは扉の上や壁に掲げられているレリーフや彫像が住所代わりに使われていたそうだ。標識のモチーフには別段の決まりはなく、ライオンや熊のような動物であったり、イエスや聖母のような宗教的なもの、その家の職業を表わすようなもの等思い思いのものが使われている。何とか通りの「二つの尻尾を持つライオンの家」とか「三本の赤い薔薇の家」とか言われていたのを想像すると何だか可愛らしい。時におとぎの国のようなと例えられるプラハにはぴったりである。

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ネルドヴァ通り12番「3挺のバイオリン」 4代まで確認されているバイオリン職人の家で、この標識が作られたのは3代目のとき。

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ネルドヴァ通り16番「黄金の杯」

プラハに正式な住所がもたらされたのは、マリア・テレジア帝政の頃。区画割を行いその中でヴルタヴァ川に沿って番号が振られその番号が赤いプレートで示された。次にチャコ・スロバキアになり新しく振りなおされた番号が青いプレートで表示されるようになる。青いプレートしかない家は比較的新しい家、赤いプレートもついていればマリア・テレジアの時代にまで遡れる家、その上標識までついていれば物凄く古い家と言うことになる。古い町並みを残すプラハでは今でもこういった標識を多く見ることができる。その標識の由来を想像しながらあてもなく散策するのも楽しい。

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ネルドヴァ通り「黄金のメデュウサ」 メデュウサの首や目は多くの国で魔よけとしてよく使用されている。

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ネルドヴァ通り47番「黄金の二つの太陽」

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ウーヴォス通り14番「3つのハート」

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ツェレトナー通り8番「黒い太陽」

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「黄金の聖母子」

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カルロヴァ通り18番「黄金の蛇」

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カルロヴァ通り「太陽の聖母子」

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ウーヴォス22番「天秤を手にする幼子」

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カルロヴァ通り22番「黄金の井戸の娘」 

この少女はチェコの伝説のリブシェ王女とする説と、この館の前にあった井戸に落ちた少女であるとする説がある。昔この井戸の前に住んでいた少女が水を汲もうとして誤って井戸に落ち、父親が娘の遺体を引き上げた折に井戸の中から沢山の金貨が見つかった。父親は大金持ちになり立派な館を建てたが、それ以来亡くなった娘が毎晩枕元で「私のおかげでお金持ちになったのに墓もたててくれない」とすすり泣くようになった。困った父親はバルコニーに娘の像を作り供養したところ娘はぱったりと出てこなくなったということである。たおやかで高貴な印象の少女の像は井戸に水を汲み来そうには見えないが、果たしてどちらの説が本当なのか。

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グランド・ホテル・エヴロパ

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ホテル セントラルのA・ドリヤークとB・ベンデルマイエル、二人の建築家が次に携わったのがこのグランド・ホテル・エブロパ。ヴァーツラフ広場という最高の立地に建つアールヌヴォー様式のホテルである。建物自体が建てられたのは1889年、アールヌーヴォーに改装されたのは20世紀に入ってからのことだからこの二人の建築家が関わったのはこの改装時のことだろう。

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ファサードの主役はこのホテルでは漆喰ではなく、窓やバルコニーを飾るアイアンワークに譲られる。セントラルの可憐さに対してこちらは少しウィーン風な気がしたが、私は中欧もアールヌーヴォーもよく知らないので的外れな感想かもしれない。ファサードの鮮やかな黄色はこの10年か20年くらいの間に塗り替えられたものらしく、以前このホテルを見た方の中には不評の向きもあるようだが、私には別段悪いようには見えなかった。もう少し風雨に晒されればそれなりに落ち着くだろうから、それでいいのではないかと思ったりする。

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入口の庇

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入口の取っ手の装飾

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バルコニーのアイアンワーク

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バルコニーのアイアンワーク

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フロントの方にお願いして中を見せてもらった。これは2F。

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五線譜に縁取られたような階段。踊り場には蝶のような照明が軽やかに浮かんでいる。

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階段手摺のアイアンワーク

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階段の照明。羽のような影を落とすのは二つのライトを吊り下げるワイヤー。

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階段を見下ろす

家族で写真を見ていた折父がこの階段の写真を見て「なんと無駄な」と感想を漏らした。人には好みがあるのでアールヌヴォーが気に入らないのは仕方がないのだが、憎んででもいるかのような顕な嫌悪感はなんなのだろうと驚いた。父はもともと色々な意味で「飾る」ということが嫌いな性質だ。そういう意味では父はアドルフ・ロースのような人だと言える。そこまでポリシーがあるかどうかは別にして。(ちなみにロースは装飾は犯罪だと主張した人である。)

建築は簡単に言うと、機能・技術といった理性的な面と装飾や造形・象徴といった情緒的な面と相対する二極の側面を持つ芸術である。よくはわからないが、父にとって建築とは理性によって造られるべきものであり、建築の歴史とは装飾を削ぎ落とす過程でなければならないのかもしれない。建築的にはル・コルビュジェの近代建築五原則やミース・ファン・デル・ローエの「レスイズモア」に代表される20世紀のモダニズムの中で、社会的にも高度経済成長期の日本を生きた世代の父にしてみれば、その価値観はある種当然な気もしてくる。実際、私が子供の頃はアール・ヌーヴォーはまだ悪趣味の代名詞として使われていたし、異形の建築、世紀末の産み落とした鬼子、徒花といった表現も建築関係の本ではよく目にするのである。

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階段の見上げ

アールヌーヴォーとはフランス語で新しい芸術という意味である。1895年に画商ビングがパリで開いたギャラリーの名前に由来している。ビングのギャラリーはヨーロッパやアメリカの最新の芸術やアフリカ・東洋の珍しい品を取り扱い、この時代のパリで一種の情報センターのような役割を果たしており、その店の名前がそのまま世紀末芸術をさす言葉となった。そしてこの世紀末芸術と言うのが多様を極めており一筋縄ではいかない。まず世界各国で同時期に発生したため、国によって呼び方が異なる。フランス・ベルギーではアール・ヌーヴォー、ドイツではユーゲント・シュティール、オーストリアではゼゼッション、スペインではモデルニスモ、英米はモダンスタイル、イタリアはスティーレ・リベルティ、フィンランド・スウェーデン等ではナショナル・ロマンティシズム。ちなみにチェコはオーストリアと同じでゼツェッションと呼ばれている。これらの名称の違いはただ国の違いを表わすわけではなく、表現方法の違いでもあり、政治的信条の違いでもあり、地域固有の素材やモチーフの違いでもあるから難しい。例えば、このホテルとレヒネルの時にお菓子の家と表現されるシペキ邸もアール・ヌーヴォーに分類されるが、その表現方法や形状の中に様式的規範を見つけようとすると私などは途方にくれてしまう。

しかしながら、この多様な名称の間には深い共通点があると大原美術館の高階秀爾館長は著書「世紀末芸術」の中で指摘している。第一の共通点は、これらの名称の生まれてくる背景だ。フランス・ベルギー・イタリアでは美術商の名前(リベルティはイギリスのリバティ商会からきている)、ドイツ・スペインにおいては当時の芸術家達が創設した美術雑誌(この本の中では、スペインの世紀末芸術の名称は「アルテ・ホベン」と説明されている。今ではモデルニスモが一般的だが、アールヌーヴォーは同じ国においても沢山の別称を持っている。ちなみに「アルテ・ホベン」はピカソが1901年に創刊した雑誌である)、英米では工芸・建築運動の名前が由来となっている。これは近代芸術の他のグループとは大きく異なる特徴で、印象派やキュビズムのように外部から与えられた名前でもなく、ロマン主義・古典主義のように後世の歴史家によって採用されたものでもない、その運動を推進した芸術家達自身によって選ばれた名称なのだということである。

第二の共通点はその意味する内容である。「アール・ヌーヴォー=新しい芸術」「ユーゲント・シュティール=青春様式」「スティーレ・リベルティ=自由美学」「アルテ・ホベン=若い芸術」「モダン・スタイル=近代様式」これらの言葉は「なにものにも捕らわれないみずみずしい精神、若々しい情熱を意味するものにほかならない」というものである。そして、「芸術」「様式」「美学」というように、絵画運動や建築様式のような一部に関わるのではなくあらゆる領域にわたる総合的な言葉が使用されている。

つまり、アール・ヌーヴォーの芸術家達は、過去からの決別を高らかに宣言したのである。

建築の世界だけの話に戻るが、アール・ヌーヴォーが生まれる前19世紀前半の西洋の建築事情はパリのメトロの駅を書いた折にも触れたが、この頃の西洋建築は過去の様式を安易に模倣するだけで新しいものを生み出さなかった。建物の外観に如何に巧みに過去の様式を取り入れるかだけが当時の建築家の命題でったのである。アール・ヌーヴォーの芸術家達はその硬直した西洋建築の歴史に一石を投じたのであった。これこそがアール・ヌーヴォーの功績なのだと近年では認められているようだ。

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ガラス天井の吹き抜け

アール・ヌーヴォーは建築に限って言えば1893年に始まり第一次世界大戦の勃発とともに終焉を迎える。その間僅かに四半世紀。その理由は、アール・デコに取って代わられたためとか、あくまで装飾の様式であって構造の様式ではなかったためとか言われている。あるいは個人的な建築が中心だったこの様式は発注主と建築家の一対一の関係から造られるため抑制が効かなくなり自己崩壊してしまったとの説もある。そう説明すると、父は人類の正常な美的感覚に安堵したようだった。父ではないが私も3番目の説に賛同したい。肥大化するエゴの中で華やかに自爆していったと考える方が新しい芸術の幕開けを強烈に主張したアール・ヌーヴォーの終焉に相応しいような気がするのである。

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グランド・ホテル・エヴロパは風格ある佇まいながらも中級ホテルに区分される。物価の安いチェコにあってホテル代だけは高いので、安い宿泊先を探すときにオススメのホテルのようだ。古いホテルなので部屋もあまりキレイではないらしい。シャワー共有の部屋はかなり安いと聞くが、もう今の私にはそういうキビシイ旅行はできない(苦笑)

ちなみに1Fにはカフェ・エヴロパというアールヌーヴォー様式のカフェがあり、こちらの設計には広島の原爆ドームで日本でも御馴染みのヤン・レツルが担当したらしい。

http://www.evropahotel.cz/

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プラハ中央駅のカフェ

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ビザンチンを思わせるような壮大なドーム、雑誌で見た迫力満点のそれはプラハ中央駅にあるカフェの写真だった。大胆にカットされた半ドームの凹面にテーブルや椅子が並ぶ様子は、衝撃的にかっこよかった。建築博物館と言われるプラハだけに駅のカフェまで豪華だと妙に感動したものである。

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プラハ中央駅は1909年初期プラハアールヌーボーを代表する建築家Jファンタの手により建てられた。建設当時はまだオーストリア領であったためフランツ・ヨーゼフ皇帝駅という名前だったそうだ。1900年といえばハンガリーが事実上の独立を果たして間もない頃であり、これまで同等の立場であったチェコでもハンガリーとは違った意味で民族主義が高まった時代だった。チェコの世紀末建築は、近代建築の走りとなったJコチュラを境にしてファンタやポリーフカ、オーマンのようなチェコの伝統的様式からアール・ヌーヴォーを展開した前期の建築家とコチュラの教え子でありながらその普遍性に反発し、その合理性を受け継ぎながらも独自のチェコ建築を確立しようとしたゴチャールやヤナーク、ホホルといったキュビズムの建築家のグループに分かれているようだ。同じ民族主義の発露としての建築であるが、その様式の違いには驚かされる。

無骨な二つの塔と赤い段々状の切妻壁、正面にガラス張りの大アーチを持つファサードは工業的な匂いが強く少々野暮ったい感じがするが、冒頭のドームは素晴らしくアール・ムーヴォーらしからぬダイナミックな空間に驚かされる。チェコは長距離移動移動でも電車よりバスの方が安くて早い為駅へ向かう機会は少ないかもしれないが、ここは是非とも訪れておきたい場所である。

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この駅は3階建てで、1階が切符売り場、2階がホームへ向かう通路、3階にカフェとホームがある。2階の通路の一部が吹き抜けになっており、上階のドームを見上げることができる。大きな荷物を持った旅行客もここでは一瞬立ち止まって、その美しいドームに見とれるのである(写真下方の手すりの奥が吹き抜けの穴)。

しかしこの空間は建設当初の用途は何だったのだろう。見た感じは、切符売り場だったようなのだけれど・・・。

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中央の装飾

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ファサードのガラス張りの大アーチを中から見る。

ちなみにこのカフェはファサードすぐの場所にあり、吹き抜けになっている構造もあり、冬お茶をするには寒い。

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中央駅ホーム

この頃のヨーロッパの駅は綺麗だ。

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ネルドヴァ通りのカフェ

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カレル橋からミクラーシュ聖堂のあるマラーストラナ広場を横切りストラホフ修道院へと登って行く道はプラハの観光客が誰でも一度は通るであろうメジャーな観光ルートである。そのネルドヴァ通りの中程に小さなカフェが坂の下方に向かって扉を開いている。扉の真ん中には赤い「茶」という大きな文字。何となく可愛らしい。このような立地にあるカフェやレストランはヨーロッパの坂のある街ではよく見かけるが、日本ではあまりないような気がする。特に京都ではありえないためか、妙に惹かれるものがある。

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こういう感じで道に出っ張っているのだ!手前の扉が開くと上の写真になる。

中に入ると7テーブルほどのこじんまりした店で殆ど飾り気のない素朴な内装。茶と漢字で書かれているだけあって、日本茶や中国茶も置いてある。通路にも日本っぽいというか中国っぽいというかアジアンテイストな飾り物があった。このカフェの扉口の写真を以前本で見たことがあるが、その写真には中央の「茶」の文字はなかった。割りに最近書かれたものなのだろうか。アジアのお茶を置き始めたのもこの頃なのかな。案外そんな些細な事を考えるのが好きだ。メニューを眺めて、へぇ・・・と思う。チェコではお茶をcajチャイと言うらしい。沢木耕太郎が著書「深夜特急」の中でユーラシア大陸をお茶の単語で分類していたのを思い出す。チャやチャイのようなCで始まる国とティーやテのようなTで始まる国。彼はC文化のアジアからT文化のヨーロッパへと旅を進め、最後にポルトガルで再びcha(シャと発音する)の国に出会ってほっとするのだった。確かにポルトガルはあまりヨーロッパっぽくなく、何となく感覚が日本と似ていると思った覚えが私にもある。イギリス・フランス・ドイツ・スペインとT諸国が連なるヨーロッパにおいてポツンとCの国があるのはとても不思議だと思ったが、チェコもチャイの国だったとは。同じ中欧のハンガリーがアジア系民族であるにも関わらずteaとTの国であることを考えると、ますます不思議なのである。

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写真はホットアップル。特大マグカップで出てくるが、これで約210円。安い・・・。

因みにこのカフェは映画「アマデウス」のロケも行なわれたことがある。モーツァルトが妻と帽子を選ぶシーンなのだそうだが、残念ながら全く記憶にない。記憶にないのになんとなく満足してお茶を飲んでいる私は少し変かもしれない・・・。

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パリっぽい風景(メトロの入口)

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二度目のヨーロッパ、旅の始まりはパリだった。空港から街に入って、ギマールのメトロの入口を見つけた。植物の茎を想わせる曲線、花の蕾の形のランプ、レトロな字体、ああパリに来たんだなぁと思った。その前に来たパリはツアーでたった二日だけだったので、二度目のそのときの方が自分としては初めてのパリのような気分で何を見ても目新しく映った。街を歩いていてパリっぽいと思ったものは、エッフェル塔やマンサード屋根、ポン・デ・ザール、そしてメトロの入口だった。マンサード屋根を除くと何れも1900年前後につくられた鉄のものであり、それらを考えると当時パリに何があるのかもロクに知らなかったにも関わらず、ある種明快なイメージを持っていたらしいことに我ながら驚いた。当時の私にとってパリとは、凱旋門でもなくノートルダム大聖堂でもなくオペラ座でもない、ベルエポックの時代こそパリと思っていたようなのである。それは建築不在の時代と言われる19世紀から20世紀モダニズムが生まれるまでの、よく言えば黎明期、一般的には暗黒の時代と呼ばれるパリの長い歴史の中ではごく僅かな期間にあたっている。

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パリにメトロが登場したのはロンドンに遅れること約40年、1900年パリ万博開催の年のことである。国家の威信をかけての大事業であったことは想像に難くない。このメトロの入り口をつくるにあたりコンペが行なわれ、当時30歳の新進建築家エクトール・ギマールの案が採用された。一等の案は実は官学派のデュレという建築家のものだったらしいが、首都鉄道会社社長のべナールは審査委員の決定を不服とし、ギマールに設計を依頼したのだそうだ。デュレの案がどのようなものであったのは知らないが、官学派という言葉から考えると当時一般的だった折衷主義の石の建築だったのだろう。べナールは新しいもの好きだったのか、自宅の食堂にアール・ヌーヴォー様式を取り入れたり、若手の芸術家に共感を示していたらしい。

たまたま首都鉄道会社の社長には理解されていたが、ギマールはじめアール・ヌーヴォーの芸術家は保守的な文化人の非難の対象とされていた。もっともそれは当時のことだけではなく60年代になってもまだアール・ヌーヴォーは悪趣味の代名詞とされていたから無理もない。今でもガルニエ・オペラ座から地下鉄に乗ると、ここの駅だけが大理石のクラシックなデザインであることに気付く。折衷主義の代表的な建築であるオペラ座にあわせてメトロの駅も石でつくったのか、流石パリはこだわりが違うと感心していたのだが、実際のところはそのようであってそのようではない。オペラ座のコンペで、当時既に様々なゴシック聖堂の修復で実績のあったヴィオレ・ル・デュクの設計案に対して無名に近い若い建築家ガルニエの案が採用されたのは1858年のこと。そのガルニエも地下鉄敷設計画が論議されていた1868年にはフランス建築界の重鎮である。ガルニエは1889年の万博のときもエッフェル塔建設について美観を損ねると猛反対し、今回のメトロの駅についても市民がよく目にするものだから芸術作品でなければならず、鉄格子のような梁や鋼鉄製の痩せた骨組みのものであってはならないと抗議している。結局はパリの街はギマールの駅で溢れる訳だが、彼のオペラ座の前だけはクラシックな石の駅がつくられたということである。

余談ながらこのオペラ座のコンペはただこの建築物の設計者を決めるというだけではなく、19世紀前半のフランスにおける二大思想の勢力争いに結末をつけるものでもあった。一つはガルニエの所属するエコール・デ・ボザールのロマンチックな折衷主義。もう一つはゴシックを国民的建築と考えるフランス文化財保護委員会。こちらにはカルメンの作者として有名な作家のメリメやヴィオレ・ル・デュクがいた。オペラ座のコンペ以降は勝利したガルニエの所属するボザールがフランス建築界の主流となる。ガルニエはその著書で、文化財保護委員会のゴシック研究者を、古代建築を模倣するだけで新しい建築を求めないとして非難し、美しい建築をつくるためには過去の時代の建築様式から色々なよいところを寄せ集めて新しい建築をつくる折衷主義の理念が必要だと主張している。しかしながらコンペから30年後アール・ヌーヴォーというその名の通り新しい芸術が生まれたが、その建築の根源にはヴィオレ・ル・デュクの新しい素材による合理的な構造理念がある。ギマールやガウディ、レヒネル等多数のアール・ヌーヴォーの著名な建築家がヴィオレ・ル・デュクの理論に影響を受けた。現在、アール・ヌーヴォーをただの悪趣味の代名詞とするのではなくコルビュジェやミースの唱えるモダニズムを準備した期間とする考え方が広がっているが、このことを考えると長い歴史の中で実際の勝者はどちらだったのだろうとメトロの駅を思い浮かべながらつらつらと考えてみたりするのだった。

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ギマールは地下鉄の駅を鉄製の囲いとランプのみのシンプルなもの、ガラスの屋根付きのもの、小さな駅舎風のものの.3タイプに絞って設計した。材料の鉄とガラスは規格化され納期の短縮と経費の削減が図られた。所謂プレハブリケーションである。これらの大量生産された駅はベルエポックのパリを華やかに彩り、ギマールの名前は時代の記憶と共に永遠に歴史に刻まれることとなる。残念ながら現在では幾つかの例を残すに過ぎず、上の写真のようなタイプが標準となっている。ギマールの設計した駅の中では、駅舎風のものは現存せず、屋根付きのタイプは二例のみ、それでも囲いとランプだけのタイプは比較的多く残っており、世紀末の喧騒と退廃的ムードを今に伝えている。

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カフェ トラム

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プラハ随一の繁華街ヴァーツラフ広場の中ほどにちょこんと停まっているトラムを見つけた。近づいてみると「カフェ」という文字。どうやら本物のトラムを再利用してカフェとして使っているらしい。広場と言ってもヴァーツラフ大通りと言った方がしっくり来るような細長い広場だから、まるで停留所に停まっているような風情でおもしろい。

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プラハはウィーンの支配下にあった影響なのかカフェ文化が発達している。それもパリのようなハイソでお洒落なカフェではない。鄙びたムードの味のあるカフェが多い。お値段も驚くほど安く、180円くらいからお茶を楽しむことができる。しかもコーヒー、紅茶とも種類が豊富なのが嬉しい。

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窓には「CAFE Trambaj」の文字。Trambajはチェコ語でトラムの意味。

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このカフェの前は何度か通ったのだけれど、結局入れず終いだった。それが少しだけ心残りである。

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パリ市庁舎

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美術館「えき」KYOTOでロベール・ドアノー展が開催されている。ドアノーは日本でも妙に流行った写真家なので、写真に特別興味のない私でも何点かの作品はよく知っている。多分流行ったのはバブル期だったと思うのだが、あの頃どこにいってもドアノーのいかにもパリっぽいお洒落なモノクロ写真が飾ってあった。中でも有名なのは、人ごみの中で男女がキスをしている写真。いかにもパリジャンっぽい男性の髪のフワフワ感とストールのラフな巻き方がいい感じで、この人正面から見てもカッコイイのかなぁと見る度に気になっていた。その男女のバックにぼんやりと写っているのが、このパリ市庁舎である。ちなみに、このドアノーの写真のタイトルは「パリ市庁舎前のキス」というのだそうだ。

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冬には市庁舎前の広場にスケートリンクやメリーゴーランドが出来て夜でも賑やか。

パリ市庁舎の歴史は古く、ルイ14世の時代から現在に至るまでこの場所から位置は変わっていない。建物自体は増改築を繰り返しているのでなんとも言えないが、1770年頃には現在の市庁舎の中核をなす部分は出来上がっていたらしい。その後市庁舎は1871年にパリコミューンにより焼失し1882年に再建されたが、これが現在の市庁舎となっている。再建時設計に携わった建築家はバリュー、デペルト、フォルミジェの3名。ただし、ファサードのデザインは旧市庁舎のものを完全復元したものである。

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パリ市庁舎は優美で豪華なネオ・ルネサンス様式。彫像の数が復元前よりも増やされているらしいが、少ない方が屋根のラインが綺麗に見えてよかったような気もする。

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市庁舎の時計

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ロベール・ドアノーは本国では国民的写真家らしく、2006年に11年ぶりの大回顧展がこの市庁舎で行なわれたとのことである(ちなみに2000年は、「パリ市庁舎前のキス」撮影50周年の年だったらしく、市庁舎に垂れ幕がかかったという)。現在京都で行なわれているのはその展覧会の日本巡回展なのだそうだ。できればこの市庁舎の中で見たかったが今となっては致し方ないので、例の男性の正面への手がかりを求めて「えき」へと足を運んだ。当然ながらそれについての収穫はなかったものの、私の中でイメージ写真家程度にしか思っていなかったドアノーという人への認識の誤りはきちんと修正できたので、それはそれで良かったのではないかと思う。基本的にはパリという劇場の中の洒脱な人間ドラマが主題なのだが、かつてのレ・アール(現在は近代建築に取って代わられたが、かつてはベルエポックの香り漂う鉄とガラスの美しい市場だった)やエッフェル塔、ギマールの曲線と女性のセクシーな曲線を重ね合わせた作品など、建築が好きなだけなんだけど・・・という人でも十分に楽しめる写真展である。

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メトロ(パリ)

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パリでお気に入りだったサン・ジェルマン・デ・プレの地下鉄ホーム。前回パリの地下鉄の名前を出したのでついでに。お洒落なカフェが多いサン・ジェルマン・デ・プレの駅は旅行中利用率も高かった。有名な話だが、パリの地下鉄は駅ごとに色々な工夫がされていて楽しい。ルーブルの駅では美術館のような展示がされていたり、サン・ドニの駅ではサン・ドニ修道院付属教会の紹介のような写真が貼られていたり、初めて見たときは結構感動したものだった。中でもサン・ジェルマン・デ・プレのホームは秀逸だ。

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こういった装飾もいつからどんな経緯で始まったのだろうと不思議なのだが、パリの地下鉄でもう一つ驚いたのがホームの中にシャツや下着を売っている店があること。飲み物や食べ物ならまだわかるけれど、それって商売になるんだろうか。不思議不思議・・・。

 

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メトロ(プラハ)

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プラハはあまり広くないので地下鉄に乗る機会はそう多くない。この日は街の中心から少し外れたところにある聖心教会を見るために地下鉄に乗ることに。丁度国立博物館の下から乗ったので、駅の名前もMUSEUM。ホームのデザインがとてもカッコイイ。

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プラハの地下鉄は結構ルールが複雑で難しい。大きな荷物を持ち込むと有料とか乗り換え不可切符は地下鉄のみ乗り換え可、5駅先まで30分有効(乗り換え不可切符じゃなかったのか!)とか。しかも、検札の折に誤りが発覚したら追加料金ではなく、その場で即罰金。罰金は大体2500円くらいでその場で払えなければ4800円くらいに跳ね上がる。検札はしょっちゅう来るから切符は最後まですぐ出るところに持っておくこと、とガイドブックの注意書きも多い。結局私は一度も検札に会わなかったけれど・・・。

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色違いも。

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こんなタイプもある。

パリの地下鉄もそうだったけれど、ヨーロッパの地下鉄はお洒落なものが多いのかも。京都や大阪の地下鉄もこんなだったら通勤も少しは楽しいかな。

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K+Kホテル セントラル プラハ

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火薬塔からHybernska通を東へ入るとホテル・セントラルというアールヌーヴォー様式の瀟洒なホテルが建っている。設計はカフェ・コルゾのオーマンとその弟子であるA・ドリヤーク、B・ベンデルマイエル。オーマンはプラハの工芸美術学校で建築装飾の教授を務めており、この学校では芸術の総合化を目指していた。このホテルも総合芸術建築として設計に取り掛かったが、1899年にウィーンに宮廷建築家として招聘されたため(オーマンはウィーン・アカデミーの出身で、ネオ・バロックの建築家としてそのキャリアをスタートさせている)、後は弟子二人に引き継がれ、ホテルは1901年に完成された。

何と言ってもベイウィンドウ横の化粧漆喰の繊細な装飾が目を引く。この化粧漆喰は装飾彫刻家のクローチェクが独自に考案したものである。プラハのアールヌーヴォー建築には工芸品のような繊細な装飾を施されたファサードをよく見かけるが、これはクローチェクの考案あってのことなのだそうだ。

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このホテルのことは本で見て知っていたが、そのときはあまり興味を引かれなかった。プラハに着いた頃にはすっかり忘れていて、地図の中で名前を見つけて思い出したくらいだ。実際に見てみると思いのほか魅力的な建築であることに驚いた。柔らかさの中にも凛とした品がある。漆喰の装飾はもとより金の使い方も丁度いい(金という色は上品にも下品にもなる難しい色だと思う)。ファサードを見るだけでも楽しいと思う建築は久しぶりである。

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入口の庇

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下にはHOTEL CENTRALの文字

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入り口両横の窓上にもホテルの名前

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出窓の下の装飾

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豪華なエレベーターと階段

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階段はアールヌーヴォーの最大の見せ場(私にとっては)。

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階段手摺のアイアンワーク

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近代的なガラス張りのエレベーター室。ガラスの後ろにアールヌーヴォーの手摺が見えてカッコイイ。

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階段途中から上階のエレベーター扉を見上げる。

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窓のステンドグラスと壁に描かれた絵も可愛らしい。

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階段を見下ろす。エレベーターを取り巻くように階段が配されているのでこれが精一杯。

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階段の見上げ

このK+Kホテルというのはオーストリアの大手ホテルグループで、私も今回のプラハや2年前ブダペストでホテルを探した折このグループのホテルを検討したことがある。どのホテルもスタイリッシュな内装で女性が好みそうなホテルだった。クチコミ評判もよいようなので、いつかオーストリアに行くことがあれば今度は泊まってみようかな・・・。

http://www.kkhotels.com/

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ボヘミアン・スタイルの家

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最初のキュビズム建築として名高い「黒いマドンナの家」からオヴォツニー・トゥルフに入ってすぐのところで、随分と美しい建物を見つけた。ベイウィンドウに描かれた印象的な図柄が一際目を引くそれは、後から調べてみるとJ・ファンタやO・ポリーフカに並ぶチェコ・アールヌーヴォーの代表的な建築家B・オーマンの作品だった。オーマンはチェコ初のアールヌヴォー建築と言われる「カフェ・コルゾ」の設計者で、この「ボヘミン・スタイルの家」はそれに先立つ作品である。チェコの伝統的様式とアール・ヌーヴォーの融合を目指したオーマンの意図が読み取れるような作品である。

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ボヘミアン・ルネサンスの破風にベイウィンドウ、建物の全体に美しい図柄が描かれている。

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一見石積みのように見えるが、描かれたものである。一種のトロンプ・ルイユ(騙し絵)だ。プラハにはこのようなトロンプルイユの石積みの家をたくさん見かける。遠くから見ると、ペインティングなのか本当の石積みなのか判別に困る。

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ルネサンス風の破風

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ベイウィンドウ横の図柄

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ベイウィンドウの図柄、線の美しさに驚く。

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出窓の出っぱりの下の装飾もプラハでは見所の一つ。

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グランド・ホテル・ボヘミア

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Grand Hotel Bohemia

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www.grandhotelbohemia.cz

今回プラハの宿泊はグランドホテルボヘミア。火薬塔・市民会館まで徒歩3分、旧市街広場までなら5分強、すぐ近くの共和国広場には空港行きのミニバス発着所や大型スーパーもある。地下鉄の駅は3分ほど、フローレンツバスターミナル、プラハ本駅にも10分程度で行ける非常に便利なロケーションで、とても過ごし易かった。ホテルのスタッフも愛想がよく、よい感じ。

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中世プラハが最も繁栄した時代の王であるカレル4世もプラハ城増改築の折にこの建物に滞在したと言われている。かなり古い建物だが、内装は2000年代に入ってから改装されているので、スタイリッシュで使い勝手もよい。でも部屋はあまり広くはない。何故かテレビが随分立派だった。日本の放送はNHKだけ入るので、何年ぶりかで紅白が見られ、少しだけ年末気分になれた(笑)

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洗面台

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バスタブ

シャワーは取り外せるタイプ、朝シャン派には重要ポイント。

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アメニティは充実していなかった。でも私にはあまり大事じゃないので・・・。

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アールを描く廊下がカッコよくてお気に入りだった。壁に掛けてあるのは、天文時計やカレル橋等プラハの名所のお洒落なモノクロ写真。

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最近天気予報をおいてくれるホテルが増えた気がする。テレビを見ればいいのだが、やはり便利だ。

ちなみに、この年末年始は大体-1℃~-5℃くらい。-1℃だと今日は暖かいねという気持ちになる。降水量の少ない国なので結構お天気には恵まれた。雪の日もあったけれど、それもまた美しい・・・。

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旧市街広場(プラハ)

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初めてヨーロッパを旅したとき、広場の多さとそのステイタスの高さに驚いた。広場とは子供の遊び場程度の印象しかなかった当時の私には、ガイドブックの中で街歩きの重要ポイント的取り扱いの広場なるものが不思議でならなかった。

「何が楽しくてそんなところにわざわざ行くんだろう?」「マルクト広場ってどこにでもあるな(当然なんだけど)」「世界で1番美しい広場ってここもですか?」等々・・・。大体広場に美しさを求めること自体がわからなかった。そう思ったのも当然で、当時は今のように海外の情報が氾濫していた時代ではなかったし、日本にはヨーロッパ的広場という存在はまずないと言っていいのだから仕方がなかったのである。

そんな私もヨーロッパでの旅を重ねる内に、自然に「広場」へ足を向けるようになった。広場には、市庁舎や教会のようなランドマーク的建物が大抵の場合存在し町歩きのポイントになる。周囲を囲む建物も自然美しいものが多い。お洒落なカフェやレストラン、ホテルが並び優雅な一時を過ごしたくなる。ところによって、朝市や日曜市、クリスマス市等が開かれていることもあり、なんだかウキウキする。時にはストリートパフォーマーが、目を楽しませてくれることもある。そして、何といっても「人」がいる。どんなに美しい街も人がいないことには、楽しいムードにはならないのだ。という風に、ヨーロッパの広場はかくも色々な意味合いを持つ特別な場所なのである。

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旧市街広場では折りしもクリスマス市が開かれていた。ヨーロッパはクリスマスとお正月はほぼ同じ扱いなので、クリスマス市もクリスマス装飾も1月の3日くらいまではあるようだ。

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夕暮れ時の旧市街広場。右側のドームと塔を持つ建物は聖ミクラーシュ教会。左の高い塔は旧市庁舎。上の2枚の写真はこの塔の上から撮ったものだ。

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アイシングで飾られたクリスマス用のクッキー

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トゥルドロというチェコやハンガリーでメジャーなお菓子の売り場

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チクワかバームクーヘンのように棒に生地を巻きつけて焼く。表面についている粗目の砂糖が香ばしい。想像よりもカリッとした食感で、上手く表現できないけれどクッキーとクロワッサンを足して2で割ったような感じ?寒い冬には暖かそうな湯気が立ち上りさらにおいしそう・・・。中にはアーモンド味やクルミ味なんていうのもあるようだ。

こういったトゥルドロやパラチンキ(クレープのこと)や雑貨系の店舗は大体6時ごろには店じまいしてしまう。ビールやホットワイン等の飲み物系はかなり遅くまでやっているようだった。

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広場のクリスマスツリー

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大晦日の10時ごろからカウントダウン待ちの人が三々五々集まってくる。バンドのライブが開かれ、花火が打ち上げられ楽しそうな雰囲気だけど、イタリアやフランスのような物凄い人ごみということもなく、過ごしやすかった。ただ、こちらの人ってカウントダウンはやらないのかな?生バンドが歌うクィーンの「We Are the Champions」(ボヘミアアン・ラプソディじゃないのね)が終わり、ツリーの電飾が消え、さあ新年?と皆がシャンパンを開けようと構えたところ・・・再度ツリーが点灯し今まで見たことのない点滅を繰り返したという以外別段何もなく静かな新年を迎えた。私の隣にいたカップルもシャンパンを開けるタイミングがわからず暫く周囲の様子を伺っていたので、土地の人ではなかったのかも。

ちなみに、この年越し時点での花火は個人が好き好きに小規模の花火を広場で挙げているような感じだった。危険なので聖ミクラーシュ教会の前で消防車が待機していた。本格的なニューイヤー花火大会は1月1日の6時から20分ほどブルタヴァ川の北の方で打ち上げられているようだったが、旧市街広場からでも十分綺麗に見える。ヨーロッパの美しい街並みにかかる花火はまた格別である。

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3日の朝の旧市街広場。2日の夕方ごろから市場の撤去が始まっており淋しい感じに。

この頃のプラハは8時ごろにやっと明るくなり始める。この時間帯にはさすがに殆ど人通りもなく昼間の賑わいが嘘のようである。この日は前日の雪がうっすらと残り、なかなかいいムードだった。

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ティーン教会

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旧市街広場はプラハ観光の中心とも言える場所。その広場の東側に特徴のある二つの尖塔を持つゴシックの教会が見える。ティーン教会である。正式名称はティーン(税関)の前の聖母マリア教会という。教会の裏に税関があったからだそうだ。この教会を思い出すときいつも尖塔しか思い出せず、確かゴシックだったなーと思うのだ。別に私の物覚えが悪い訳ではない(と思う)。教会のファサードを遮ってカフェやレストランが建っているのだから仕方がない。初めて雑誌を見たときファサードを隠して閉まっているこの建物郡を見て残念に思った。当時ティーン教会は反カトリック系であるフス派穏健派(プロテスタントのさきがけ)の拠点であった。ビーラーホラの戦いの敗北により、この教会もカトリック教会に変えられることになり、それに抵抗したフス派穏健派の人達が中に入れないように教会の前に建物を建てて塞いでしまったとのことだった。そんなことができるのかと驚いたが、実際にあるのだからやってしまったのだろう。この今はカフェやレストランになっている辺りの土地までが教会の持ち物だったため可能となった所業だったようだが、30年戦争の発端となった窓外放り投げ事件と言い、プラハには不思議なエピソードが多くなんだか興味深かった。特にイタリア大好きな私はヨーロッパの歴史をいつもカトリック側から見ていたため、反カトリック側から見た歴史を意識したのは初めてのことだった。

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ティーン教会はそういう訳だから、何処から入るのか知らなければわかりくい。前を塞ぐ店舗群の真ん中に妙に人の出入りの激しいところがあり、そこがこの協会の入り口となっている。どう見てもレストランに入って行くようにしか見えないが、入り口アーチをくぐり進んでいくと教会の入口扉に辿り着く。前の建物と教会の距離が近いのでやはりファサードの様子はあまり見えない。教会の中は最近まで改装中で入れなかったらしいが、私の行った年末はもう見学可能となっていた。中は外観からの予想に違い、バロックで装飾されている、内装を改装したのはいつの頃なのだろう。フス派穏健派の人々の抵抗を考えると、なんだかとても残念な気持ちになった(以前も書いたが、バロックはカトリックの表現なのだ)。

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こうやって見ると、まだまだロマネスクのどっしり感を残しているティーン教会。この素朴な外観の内に、豪華なバロックの装飾が隠れているとはとても思えない。私としては、未熟だったかもしれないがこの外観から想像されるような素朴なロマネスクとゴシックの過渡期の状態の内部空間であった方が美しかったのではないかと思ってしまうのだ。

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ティーン教会の印象的な尖塔。私の中のプラハのイメージは、まさしくこの尖塔に代表される。

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旧市庁舎の天文時計(プラハ)

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プラハ旧市庁舎天文時計の前で3時に旦那と待ち合わせをした。行ってみると凄い人だかりで、どこにいるのだかとても探せる状態ではない。それもそのはずすっかり忘れていたのだが、 9時から21時までの毎0分にここのからくり時計が動くのである。そのほんの何十秒のために毎時間沢山の観光客が集まって来る。どうやら私達は最も不適切な待ち合わせ場所を設定してしまったらしい。

このからくり時計は「使徒の行進」と呼ばれており、時計上部の二つの小窓に順番に十二使徒が現れ全員が登場して窓が閉まる。窓の下ではガイコツが紐を引っ張り鐘を鳴らすという単純なものである。それでも沢山の観光客がそれを目当てに集まってくるのだから羨ましいばかりの集客力である。

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この天文時計には一つの言い伝えがあって、これがなかなかそれっぽい。この時計は15世紀中頃にハヌシュというカレル大学の数学・天文学教授によって作られたが、あまりに素晴らしいで出来栄えだったのでプラハ以外でまた作られたりしないようにプラハの市参事会が彼の眼を潰してしまった。盲目になったハヌシュは暫く時計の管理をしていたが、まもなく病に倒れ亡くなってしまった。それ以来時計は時を刻むのをやめ、1948年電動に変えられるまで動くことはなかった・・・と言うのである。

興味深い話ではるが、実際にはこの話は誤りである。この時計の作者はハヌシュではなく、1410年に時計職人のミクラシュとプラハ・カレル大学の数学・天文学教授のヤン・シンデルによって作られたということが20世紀に入り明らかにされている。ただ、そういう話がまことしやかに囁かれるほど、この時計は素晴らしく、プラハの誇りであるとともに愛されてきたのだろう。

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この天文時計で最も古い部分はこのプラネタリウムの文字盤と時計の構造。中世の天文学とで使われたアストロラーベのような機構を備えているのだそうだ。随分複雑な文字盤で何処を見ればよいのちょっとわからない。文字盤の真ん中にある青い丸は地球を表わしているのだそうだ。地球の周りの青・赤・黒の部分が地平線で、それぞれ日中、黄昏・曙、夜を表わしており、金色の太陽の針が昼なら青い部分に夜には黒い部分に移動する。地平線の青と赤の変わり目にはラテン語で「occasus(日没)」「crepusculum(黄昏)」、「aurora(夜明け)」「ortus(上昇)」と書かれている。金色のローマ数字は通常での現地時間(つまりヨーロッパ標準時間)を、文字盤を横切る金の円弧はサマータイムに対応する為のものらしいが、見方がわからない。最も外側を囲んでいる黒地に金のドイツ文字の数字は古チェコ時間。古チェコ時間は日没から始まるので、この環は日没が0時になるように1年を通して動いているのだそうだ。そして、星座が書かれた環は十二宮環と呼ばれ、太陽の横道上の位置を示している。

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月々を表わすカレンダリウムは1870年に追加された。 19世紀だから意外に新しい。Tenmondokei5

この天文時計、もう一つ興味深いことがある。旧市街広場付近を歩いているとこの天文時計の鐘の音が聞こえてくる、ああもう3時なんだなあと思っていると、どうも鐘の音は不規則でその時間の数を叩いているようには聞こえない。でたらめに叩いている訳でもないだろうと不思議に思っていたら、やはりちゃんと意味があった。

1,2,3,4,32,123,43,2123,432,1234,32123,43212,

34321,23432,1234321,2343212,3432123,4321234,

32123432,123432123.43212343,2123432123,43123432,

1,2,3,4,32、・・・

一見何の関係もなさそうに見えるこの数列。実は、天文時計の鐘の音を表わしている。この数字はカンマの間の数字の和が時間(つまり鐘の音)を表わすようになっている。32なら3+2=5時、123なら1+2+3=6時という訳である。最初の1、2、3、4はそのまま普通に鳴らして、5時は一度3回鳴らして一拍おいて2回鳴らす。

この数列の凄いところは、カンマに捕らわれずに見ると、123432の繰り返しでできているところである。それが24時で減じて行く方の2で終わり、また1時から繰り返し始められるようになっているため、丁度時計に使える数列になっているのだ。誰が発見した数列なのか、どうしてこれがこの時計に使用されているのか、またいつから採用されたのか、残念ながら私にはわからないが、そのうち調べてみたいとは思っている。

プラハに行く前からとても見るのを楽しみにしていたこの天文時計。知れば知るほど、ますます気になる存在になってしまった。

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故宮博物院(紫禁城)

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以前から気になっていた「チーム・バチスタの栄光」がドラマ化された。評判は微妙なところのようだが、私は結構気に入っている。というか毎週見るということが待てなくて、結局本を買って読んでしまった・・・。故宮とチーム・バチスタ、何の関係があるかって、勿論何の関係もないのだが、田口と白鳥の出会いのシーンで白鳥のこんな台詞がある。「根幹とか本質ってウソ臭くて、あまり好きじゃないんですよね。枝葉やディテールの方が断然リアルで魅力的だと思いませんか?」そう、まさにそうなのだ。わたしにとっての故宮はまさしくそんな感じなのだ。

72万㎡の広さを誇る故宮、何でも9000室もの部屋があるそうな。正直なところ、中国の建築にも歴史にも興味のない私には、マトリョーシュカのようにしか思えない。前門とそれと対になる御殿、前門、御殿の繰り返し。行けども行けども同じような建物が延々と続いていく。このただただ広い故宮において私は何を見ればいいのだろうか。紫禁城はこういうものだ・・・というような特徴と言うか、目指したもの、みたいなものがあるのではないかと思うのだが、これがキモだ!みたいなものがわからない。いつもそんなことを思って建築を見ているわけでもないので仕方がないのだが、今回は特に枝葉末節ばかりが気に掛かる。

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太和殿の藻井

午門、内金水橋、太和門を通り太和殿まで辿り着く。外朝の正殿である大和殿は皇帝の戴冠式など重要な儀式が行なわれた場所でもある。薄暗い内部に玉座がおかれているが、天命を受けていないものが座ると、天井にぶら下がっている巨大な鏡が落ちるという伝説が伝えられている。一時期中華皇帝を名乗った袁世凱はこの鏡が落ちてくる夢を見たため、玉座の位置を鏡からずらしたという。

この玉座の少し前の天井に、重ねあわされた正方形の枠の中に円を抱いた意味あり気な装飾が施されている。故宮の豪華な格天井の中でも一際美しく、玉座の前に一つだけ穿たれている。後で調べてみると藻井という中国特有の装飾で、宮殿の玉座や寺院の仏像の上に円形や四角形、八角形等の木枠を何層も重ね、中に龍やハスなどの彫刻を施した天井装飾のことらしい。「らしい」というのは、ネットで調べたところ、飾り格天井という簡単な説明のものや吹き抜け状の装飾天井というものなど色々なものがあり、正確にはどういうものを指すのかよくわからない。「飾り格天井」とするならば、豪華に装飾された格天井全てを指す言葉とも取れる。

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太和門の美しい格天井

実際、上の写真のようなものを藻井と紹介しているものもあった。

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交泰殿の藻井

交泰殿は、3大節(元旦、冬至、皇后の誕生日)に皇后が朝賀を受けたところ。ここの玉座の前の天井にも、精緻な幾何学の木枠を重ねた美しい装飾が施されている。これほど完成度の高い装飾の形式に名前がないはずはないだろう。と言う訳で藻井が中国特有の装飾とする説にひとまずは従おうと思う。

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養心殿の藻井

故宮には3つの藻井があり、養心殿のものが最も凝ったデザインになっている。中国の建築は日本の建築と同じようなものだから(日本が中国文化を取り入れたのだけれど)とあまり興味を持っていなかったのだが、実際に見てみると全く別物のような気がしてきた。藻井の存在は、その下の空間にヒエラルキーを感じさせる。その効果は西洋やイスラーム建築におけるドームの存在とよく似ている。ビザンチン建築やイスラーム建築の中で生まれ育ったドームは、そもそも一神教の表現である。ドームは宗教的な象徴であり、儀式のクライマックスを迎える場所としての役割も果たしている。西洋やイスラームのドームがそうであるように、藻井もそれが穿たれていることにより、その空間に特殊性を与える。その下の空間と他の空間とを区別する。とても一神教的な空間の作り方に見える。比較的似たような気候条件を持ち、同じ木という素材を用い、しかも日本は中国から文化を輸入したという経緯もありながらも、日本は建築的精神性は輸入しなかったように思えた。

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ちなみに養心殿は西太后が同治帝や光緒帝の垂簾聴政を行なった場としても知られている。そう言えば、つい先日光緒帝の頭髪から高濃度の砒素が検出され暗殺説が濃厚となったと報じられていた。光緒帝は中国の近代化を図ろうとした革新的な人物で、そのため伯母の西太后との折り合いが悪く西太后に毒殺されたとの説が実しやかに囁かれていたが、毒殺されたことはこれでほぼ確定のようだ。首謀者が西太后かどうかはまだわかっていない。西太后本人も光緒帝の死んだ翌日に病死したことを考えるともう一つの袁世凱暗殺説の方がありえそうな気はするのだが、いつか真相がわかる日は来るのだろうか。

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故宮においてもう一つ気になったのが、この東屋のような建物。

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木製のドーム。まるで西洋建築を見ているようだ。ドームは矩形の平面から円形を導く訳だが、木製であるゆえに西洋建築でよく見るトロンプやペンデンティブとは異なる解決法のようである。ドーム下の持ち送りの組み物がイスラーム建築のムカルナス(鍾乳飾り)をなんとなく思い出させる。

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故宮を見ていると、イスラーム建築が思い出されてならない。建物の何処を見ても隙間なく精緻な模様が描かれる豪華な建築。誰かが「空間恐怖」という言葉を使っていた。「空間恐怖」というのはイスラーム建築が草花文やアラベスク等の模様で建物を隙間なく埋めて行く様子を西洋人の感覚から表わした言葉である。中国の建築にもこの言葉が当てはまるとは想像していなかった。

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細部まで手の込んだ装飾が施されている。

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窓の空かし模様。考えてみれば、中国でよく見るこの手の透かし模様も、イスラーム建築のマシュラヴィーヤに通じるものがあるような・・・。と言っても別に中国建築とイスラーム建築には何か繋がるものがあると思っているわけではない。ただ、これまで中国建築は日本建築と同じようなものだと思い込んできたものだから、感覚的にはむしろ他の地域の建築の方が近いのではないかと、ちょっと思っただけである。

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ラストエンペラー溥儀が子供時代にブランコをぶら下げてもらった後の金具が残っている。

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中国の建築によくある像。この像の数がその建物の格を表わしているとか。

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皇帝の階段のレリーフ。

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九龍壁

中国で3つあるとされている九龍壁の一つ。皇帝の象徴である龍を最大の陽数とされる9頭描いたもので、瑠璃瓦で作られている。故宮の見所の一つに数えられているが、この九龍壁には何の意味があるのだろうか。単なる権力の象徴なのだろうか。

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珍妃井

1900年の義和団の乱の最中、西太后が逃げる前に光緒帝の最愛の側室だった珍妃を投げ込んで殺したと言われている。いくらなんでも、ここにヒトは入れない・・・。

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映画「ラストエンペラー」で溥儀が自転車で通り抜けた長西街。

故宮を書くならば、外朝と内廷、南面思想(風水の関係だそうだ)に基づいた全体のプラン、そして何よりもその広大さについて書くべきなのではないかと思うのだが、あえて今回は枝葉末節の装飾に拘ってみた。枝葉やディテールの方が断然リアルで魅力的だと思ったから。

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北京古観象台

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地下鉄建国門駅の隣にたっている北京古観象台は1442年創設で、重要文化財に指定されている。17世紀に崇山の観星台と連携して天体観測がなされていた、かつての天文施設である。天体観測に用いられた当時の器材や中国における天体観測の歴史等の展示を見ることができる。そのレトロで美しい観測器を使って宇宙の神秘を解き明かそうとした人達のことを想像すると、それだけでなんだかワクワクする。どうやって使用するのかわかればもっと楽しかったのに・・・。

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これは黄道経維儀、これで天体の黄経をはかった。

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この射手座のマークのような観測機は天体の角度を測定する紀限儀。

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天体の方位を知るための天体儀。表面にはぷつぷつと小さな突起が作られている。

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庭に置かれた地平経儀、これで天体の方位角度をはかったらしい。

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四合院の中庭に設置された観測器。何かはわからなかった。

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ここでは日時計も展示されている。

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漢字で書かれた日時計。ちょっとかこいい。故宮にも同じような日時計が置いてあった。

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針のデザインが中国的で美しい日時計

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これは年時計とでも言うのだろうか。正午の影の長さを測定し、夏至や冬至をはかったようだ。

ところで、先日ラジオで宇宙用紙飛行機を日本の企業が開発したというニュースを聞いた。詳しい話はよくわからないが、その紙飛行機は大気圏突入時に燃えることなく地上に到達できるらしいのだ。本当にそんなことが可能なのかと不思議なのだが、スペースシャトルと紙飛行機では大気圏に突入するスピードが全く違うため生じる摩擦熱にも差があり、普通に考えて思うほど荒唐無稽な話ではないのだそうだ。地球のどこに落ちてもいいように、紙飛行機には日本語を初め10ヶ国語で連絡先が記されている。既にNASAに9機の紙飛行機が納品されており、写真で見たところデザインも普通の紙飛行機とは違い本格的でカッコイイ(?)デザインで、これなら宇宙でも飛びそうと思ったのは私だけだろうか・・・。この紙飛行機、地上300kmの宇宙ステーションから飛ばされるらしい。本当に地球に到着するのだろうか。せっかく辿り着いても、海や砂漠などに落ちたら拾ってもらえないだろう。などと、勝手に色々な心配をしているのだが、本当に実現したらなんと素敵なことだろうと思うのである。宇宙に、宇宙で、宇宙から-古観象台の観測器の時代から何百年もたった今も、宇宙は夢と神秘に溢れている。

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万里の長城

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北京市街から北西へ車で1時間ほど走ると山の嶺を走る巨大な壁が見えてくる。月から見ることができる唯一の地球上の建造物「万里の長城」だ。今回の旅行のメインの目的だったにも関わらず、言うほどの興味もなかった長城なのだが、実際に目にしてみると妙に感動してしまった。いや、感激?感銘?そのときの気持ちについて適当な言葉が見当たらない。ただ、テレビや写真でいくらでも見ることのできるこの時代にあっても、実物を見なければ感じられないものはやはりあるのだ。

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公開されている長城はいくつかあるが、長城初心者の私達が向かったのは最もメジャーな観光地「八達嶺」である。上の写真の上へ伸びている壁が女坂、手前に伸びているのが男坂。女坂はなだらかだが距離が長く、男坂は坂は急だが距離は短いのでどちらも同じくらいの時間で歩ける。女坂のメリットは登りやすい、男坂のメリットは女坂をバックに写真を撮れることと登る人が少ない、女坂は上の方になるともう動けないかもしれないねとガイドさんは言う。

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確かに下から見上げても女坂は観光客の姿で長城の床が見えないくらいだ。人を寄せ付けない孤高の長城というイメージとは程遠い現実の姿。すっかり観光地だとは勿論聞いていたのだけれど・・・。いずれにしても人が多いのは嫌なので、男坂を登ることにした。

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万里の長城を登る前は私は体力はないし上り坂が極端に苦手なので登れるかどうかとても不安だったのだが、実際にはそういった体力面よりも心理的な方が問題だった。長城を登るのは結構怖い。高いところにある割には、手摺が低い。高所恐怖症の人には無理かもしれない。

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万里の長城は一般的には秦の始皇帝がつくらせたものと言われているが、現在北京近郊に残る主要な長城の殆どは明の時代に建造・増築されたものである。モンゴルの征服王朝である元を倒した明は長城の重要性を強く感じていたからだ。長城は始皇帝が作ったとされるのは、初めに始皇帝が建造を命じたからということになろうが、この長城はもとは春秋時代・戦国時代の諸侯国が北方騎馬民族の侵入に備えてつくったものである。始皇帝はその切れ切れの土塁を繋ぎ合わせて、北と西の国境沿いに長い防壁を完成させた。中国において「城」と言う漢字は城壁と城壁に囲まれた都市の両方を意味する。そもそも中国の城塞都市というのは外的から守る為につくられたのではなく、都市と田野を分離するという統治上の理由からつくられたものなのだそうだ。始皇帝は長城を作ることで、世界で唯一文化を持つ中国と「化外の民」である周辺の異民族を分離したのだった。それはつまり中華思想を反映した行政機構をつくったということであり、万里の長城は物理的な防壁であるとともに概念であるのだ。始皇帝は、単に「企画した」というのではなく「概念を作った」人物なのである。

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余談だが、この八達嶺長城から車で5分くらいのところに長城脚下的公社というデザイナーズホテルがあり、森の中に12名の有名な建築家が設計したがヴィラが点在している。吉永さゆりの出演するテレビCMで使われた隈研吾の設計した「竹屋」もこのヴィラの一つである。できれば少しでも見られないかと思い、ガイドさんに交渉して寄ってもらったが、やはり中を見ることはできず外観を見るだけでも120元を要求された。はっきり言って、外観だけなら断らなくても第二期工事中の竹屋がそこに見えてるんだけど・・・?なんとなく納得いかないフロントの対応に首を傾げつつも、こっそり工事中の竹屋の外観を見て帰った私だった。

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北京国際空港

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08年2月オープンの北京国際空港新ターミナル。私の大好きな建築家ノーマン・フォスターの作品であるこの空港は延べ130万㎡を誇る世界最大規模の空港だ。第三ターミナルのコンコースの長さおおよそ3キロ。関連記事やブログを見ているとともかく広いという表現が目立つが、実際にはその3キロは乗り物に乗って移動するので、あまり広いと言う実感は湧かなかった(私だけかも?)。

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この空港は上から見るとYの字になっており機能的に空間が利用できるように配慮されているらしいが、そういうことは私にはよくわからない。全体的なイメージはドラゴンなのだとか。他にも赤・オレンジ・黄色といった色彩や円柱等に中国らしい表現が見られる。

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何処に赤やオレンジが使われているかと言うと、天井のルーバーの向こうににおくゆかしく使われている。

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シルクの糸を張り巡らしたようなこの質感。美しすぎる!

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1枚上の写真の光って見える部分はライトではなく、実はこの三角形の天窓から降ってくる光である。よく見ると微妙に三角形なのがわかる。この三角はドラゴンの鱗を表わしているのだ。

飛行機を降りてこのスタイリッシュな空間に驚きつつイミグレーションへと歩いて行くと、ここでもう一度驚かされる。イミグレーションは普通壁に囲まれた閉ざされた場所と言うイメージがあるが、ここのイミグレーションは個々のボックスの向こうに壁がなく、後ろのガラス窓からスコーンと外の風景が見えるのである。あまりの開かれた空間に唖然としてしまう。北京に着いたとはいえまだ入国もしていないのに、こんなに楽しくていいんだろうか・・・。

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余談ながら、北京にはこんな飛行機で到着。可愛いー。でも飛行にこんなペイントするのは日本だけじゃないだろうか?でもいいか、可愛いし・・・。

最後に、北京国際空港の免税店は割りに充実。ブランドのショップは小さいし数も少ないしあまり意味はないが、化粧品は結構いいかも。日本で完売した人気商品がこちらではまだ残っているようだった。価格も関空と殆ど変わらなかったし結構使えるかも。

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国家大劇院

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人口湖にぽっかりと浮かんだチタン製のドーム、ちょっとワクワクするような近未来的シチュエーション。何かを思い出すような・・・?そうだ、「なにわ海の時空館」だ。と思って調べたら、やはり設計は同じ建築家フランスのポール・アンドルーだった。2007年にオープンしたオペラ劇場、音楽ホール、演劇院等を含む大型劇場である。建物の半分以上は水面下に沈めてあるのだそうだ。演劇鑑賞以外の一般公開は行なわれていないので、中を見ることはできなかった。とても残念・・・。この建物、その形から「エッグ」と呼ばれている。水に沈んだ地下の部分も、安藤忠雄のアーバンエッグのイメージで卵形になっていたら面白いのだけど。両端の盛り上がって行く部分が客席で。実際はどうなっているのだろうか。また北京に行くことがあったら、演劇もオペラもわからないけれどチケットを取ってみようかな・・・。

ちなみに、ポール・アンドルーによると「エッグ」は再生のシンボルなのだそうだ。オリンピックを機に生まれ変わろうとしている北京にぴったりな建築だと思った。

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写真ではわかりにくいが、中央の暗い部分が入口へと続く階段。建物へは地下から入るのだ。

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正面から見るとちょっとのっぺりした感じが・・・。

ポール・アンドルーと言う建築家のことは殆ど知らなかったのだが、パリのシャルル・ド・ゴール空港と上海浦東国際空港を設計した人だった。この二つの空港はかなりカッコイイデザインでとても気に入っている空港だ。ド・ゴール空港と浦東国際空港が同じ建築家であることはシャルル・ド・ゴール空港の屋根崩落事故のときに「浦東国際空港は大丈夫か」と話題になったので何となくは知っていたのだが。ちなみに、浦東国際空港の構造設計責任者は、この二つの空港は構造が全く違うし、構造計算はアンドルー氏が行なったものではないので大丈夫と言う感じのミモフタもないようなコメントを出していた。 ヒドイ・・・。

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少しだけ中が透けて見える。この二つの輪のようなものは何?

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トーネット・ハウス

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ブダペスト一の繁華街と言われるヴァーツィ通り。お土産でも買おうかと思い来てみたけれどめぼしいものはなく、ハンガリーって本当にお買い物は楽しくない国だわと少し淋しい気持ちになる・・・。そんな時ふと目に留まったのがこの建物。バルコニーの手摺や外壁のタイル、浮き彫りレリーフがなかなか美しい。後で調べてみるとこれもレヒネル・エデンの作品だった。1888年から89年にかけて建てられたもので、レヒネルスタイル確立前の作品だ。

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中世的なモチーフに装飾的なタイルの外装、過渡期の建築っぽい。

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屋根の曲線も美しい。

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3Fバルコニーの手摺

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2Fバルコニー

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ここはもともとトーネット家具のショールームだったのだそうだ。現在は化粧品か何かのショップですっかり改装されていたようだった。

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ドレクスレル宮殿(カフェ ドレクスレル)

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オペラ座へ行こうと思ってアンドラーシ通りを歩いていたところ、オペラ座の向かい側くらいのところで改装工事中の建物に出くわした。随分綺麗なエントランスだなぁと思い、つい工事中のロープを超えて見学してしまった(すみません)。アンドラーシ通りは由緒正しそうな立派な建物の多い通りではあるが、この改装中の建物は古典的なアーチやヴォールト、繊細な装飾と一際目を引くものだった。これが何なのかはわからないが、なんだかとても得した気分になった。

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旅行から戻って1年も過ぎた頃ブダペスト紀行の本を読んでいて、古いモノクロの小さな写真にふと目が行った。それはかつてそこがカフェだった頃の写真で、上品そうな紳士達が連続する美しいアーチとお洒落なライトの下で談笑したり新聞を読んだりしているのだった。なんか見たことある・・・。これは、あの改装中だった建物じゃないか?自分の撮った写真と見比べたところやはり間違いない。場所もオペラ座の前とあっている。そうなのか、あの瀟洒なエントランスはかつてカフェとして使われたものだったのか・・・。

実はこの建物、レヒネル・エデン若かりし頃の作品なのだそうだ。レヒネルが独自のスタイルを確立する10年ほど前とのことなので、三十代半ばの頃だろうか。アール・ヌーヴォーが花開く前のハンガリーではまずドイツで建築を学ぶのが通常であり、そのため首都ブダペストの建築も折衷主義・様式主義的なものであった。レヒネルもブダペストの工業高校卒業後ベルリン建築アカデミーに留学している。この作品は未だアカデミーの影響から逸脱しない、19世紀的折衷主義の中にある。レヒネルと言えば応用美術館や郵便貯金局しか知らない私には、レヒネルにもこういう時代があったのだということがとても意外であると同時に、これはこれで美しく魅力的だけど・・・と思ったりもするのだった。

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ヴォールトの中心にあるライト吊り下げ部分(1番上の写真参照)の装飾に、僅かにレヒネルらしさが感じられる。

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ファサード中央のバルコニー。ファサード表面はやはりタイルで覆われている。

ちなみに、かつてはカフェがあり、近年には国立バレエ学校として使われてきたこの建築は、今度は5ッ星ホテルに生まれ変わるのだそうだ。また、ブダペストを訪れることがあれば、泊まってみたいものである。

ところで、ドレクスレル宮殿というけれど、いつ宮殿として使われていたのかしらね・・・。

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郵便貯金局

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レヒネル・エデンのブダペスト公共建築三部作最後の作品、郵便貯金局。この作品をもってして中世主義を離脱して変幻自在のレヒネル流アールヌ-ヴォーが完成したと言われる。

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白い平らな壁面を付柱によって垂直に分割、波打つように水平に伸びるレンガの蛇腹でリズムをつけている。

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この蜂達は実は付柱の頂きにある巣に向かって登っている。蜂は貯金の象徴なのだそうだ。

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扉口にもマジャールの伝統的な草花模様。見学は中の扉の前まで。

レヒネル・エデンは時々「東のガウディ」と呼ばれることがある。同時代人であり、しかもレヒネルの方が少し年上で活躍しはじめた時期も少し早いことを考えるとこの呼び名は失礼なんじゃないかと思ったりもするのだが、そもそもそう呼ばれる理由はなんなのだろうと思った。「日本のガウディ」と呼ばれる梵寿鋼のときはまさしくそうだなあと思ったが、レヒネルについては全く思わなかった。

つらつらと考えるとレヒネルとガウディの共通点は案外多い。1.二人とも自由なゴシックスタイルからキャリアをスタートしている。2.ヴィオレ・ル・デュクの信奉者である。3.民族意識が強い。4.イスラームの影響が見受けられる。5.タイルという素材の存在感。6.自然をモチーフにしたものが多い。思いつくままに挙げてみるとこんな感じだろうか。ヴィオレ・ル・デュクがアール・ヌーヴォーの理論的裏づけの一端を担っていると言われていることを考えるとレヒネルとガウディが二人とも影響を受けていて当然。それに民族主義とイスラームの影響は意味合いとして被る部分もあるので一つの項目にすべきかもしれない。内容的にはまだまだ整理が必要であるが、やはり比較したくなる二人ではあるのだと思った。

とは言うものの作品を見たときに受けるイメージはかなり違う。それは、マジョリカタイルとジョルナイタイルの色彩の違いかもしれないし、マグレブイスラームとインドイスラームの違いかもしれない。自然モチーフのデフォルメした表現と具象的表現の違いかもしれない。しかしながら、何よりも違う印象を受けるのは、その精神性においてではないかと思う。合理的な精神のガウディと感受性豊かなレヒネル。天井と壁が領域を超えて溶け合う幻想的な空間、胎内回帰願望と言われる浮遊感のある不思議な空間。私はやはり、レヒネルがガウディに似ているとはあまり思わない。

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レヒネルの細部へのこだわりは費用を増大させ、これ以降のブダペストの公共建築では予算を制限する法律ができた。そのためだろう、この郵便貯金局以降、レヒネルはブダペストの公共建築のコンペで締め出され、主役の座をライバルの一派に明け渡すこととなった。

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応用美術館(工芸美術館)

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直行便で旅をすることが殆どない私は、ヨーロッパの都市へ着くのは大抵夜である。ホテルへ着くまでの道程ライトアップされた街を見ながら、ここは何処かなーとか、この建築には絶対行こうとか考える時間はとても楽しい。ただ運ばれるままに窓の外を眺めていると次々に魅力的な建物が現れて驚かされる。中には写真等でよく知っているものもあるが、こんなときに見るその建築は街の中によく溶け込んで気負いのない素のままの姿を見せているような気がする。正確にはその建築を目指して今か今かと歩いているときとは、こちらの心持が違うだけなのだが・・・。ブダペストに着いた夜、ライトアップのオレンジと夜の闇に色を消されたレヒネル・エデンの応用美術館を見かけた。フランスルネサンス風のシルエットを持つその建物は予想に反してとても美しく見えた。写真で見たときは、くどいデザインとクセのある配色に少々疑問を感じたのだが、こうやって見るとなかなか魅力的である。なんだか急に興味が湧いてきた。

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応用美術館は1896年、ハンガリーアール・ヌーヴォーを代表するレヒネル・エデンとパールトシュ・ジュラの共同設計により建てられた。レヒネルのブダペスト公共建築三部作の最初の作品で、マジャールの民族様式と近代建築の融合を目指した野心作である。歴史的様式の全体的なシルエットよりも、ジョルナイタイルの配色や要所要所に描かれる民族的な模様、ドームの釣鐘型や手摺の鶏モチーフ等奇抜なデザインが目立ち、建設当初は「ジプシー王の館」と揶揄されたとか。

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屋根のジョルナイタイルと草花模様

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おどろおどろしい入口のデザイン

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入口のジョルナイタイルの天井。マジャールの伝統的な草花文様が描かれている。

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内部は打って変わって鉄とガラスの近代的空間。外観からは想像できない。真っ白に塗られた内部にも外観とのギャップを感じる。当初はカラフルに彩色されていたが奇抜なデザインが物議を醸し、竣工後まもなく入口付近以外は白く塗りこめられてしまったのだそうだ。

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側廊の多弁形アーチは、ムガール様式。ハンガリー民俗学の父J・フスカに共鳴していたレヒネルの「ハンガリー民族芸術の起源はペルシャ・インドにあり」というフスカの学説へのオマージュと言われている。ムガール様式というのは簡単に言うとインド・イスラーム様式のことである。インドにおけるコロニアル様式とも言える。結局マジャール民族の起源はイスラームにあるのか?マーチャーシュ教会で一つの結論にたどり着いたと思ったら、なんだか堂々巡りだ。

ペルシャ・インドというフスカのこの言葉。地域的な意味合いとしか考えていなかった。今でこそイランの隣はインドではないが、アフガニスタンやパキスタンは昔はペルシャ領(~スタンとはペルシャ語で土地のことを意味している)。漠然とその辺りの地域のことかと思ったいたが、よく考えたらそんな意味であってそんな意味ではない。ペルシャ・インドが指すところは、ピンポイントでティムール朝だったのだ。モンゴル帝国の継承政権の一つで、中央アジアからイランにかけての地域を支配したイスラーム王朝。16世紀初頭にシャイバーン朝に中央アジアが奪われ、王族の一人バーブルがインドに入り打ち立てたのがこの王朝だ。ペルシャとかインドとかの土地をさしているのではなく、このモンゴロイド系の王朝がマジャールの起源だと言っているのだ。世界史に疎い私にはちょっとわかりにくかったかも・・・。

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階段から見上げる天井の様子

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後にレヒネルは地学研究所で天井や柱がぐずぐずと溶けていくような流動的な内部空間を作り出すが、この多弁形アーチがヒントになったのではなかろうか。

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ステンドグラスとバルコニーのうねる手摺。曲線が重なり合う有機的なデザインはレヒネルの真骨頂。

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ここは応用美術館ということで、私には結構楽しかった。実用的なものだから百貨店に来たような感じ?

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中国製のインク壷。キレイ、欲しい・・・。

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ちなみに、この美術館はお金を払えば写真撮影OK。ハンガリーではそれが普通のようだった。

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マーチャーシュ教会

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漁夫の砦のすぐ後ろにカラフルなタイル葺きの屋根が印象的なネオゴシックの教会が建っている。名をマーチャーシュ教会というこの建築は、ロマネスク、ゴシック、バロックと幾度かの改修を重ね姿を変えているらしいのだが、世界遺産の割には情報が少なく、しかも見るものによって記述に差があり、何が本当のことなのかわからなくなってしまった。私なりに調べた結果そうであろうと思うところを書くと、この教会の起源は聖イシュトヴァーンが建てさせた聖母マリア聖堂に求められ、13世紀ベーラ4世によりロマネスク様式に改修、その後ゴシックへとさらなる改修が行われ、15世紀にはマーチャーシュ王が今日も見ることができる立派なゴシック様式の塔を増築した。それ以降この教会はマーチャーシュ教会と呼ばれるようになる。マーチャーシュ王の死後まもなくハンガリーはオスマントルコに占領され、この教会もモスクとして150年の間使用された。その当時は、キリスト教の聖人像や絵はすべて排除され、アラベスク文様が壁一面に描かれたという。そして、ハプスブルク家がトルコからハンガリーを奪回した折にバロック様式に改修され、フランツ・ヨーゼフとエリザベートのハンガリー王・王妃としての戴冠式が行われた。これが1867年のこと。その後1874年からフリジェシュ・シュレクによる改築工事が行われ、全面的にネオ・ゴシック様式に改修された。タイル葺きの屋根もこのときにかけらたものである。

一般的には、この教会はベーラ4世が建てさせたものを始まりとすることが多いようだ。ベーラ4世が建て替えた以前の建物については、言及するには及ばないという見解なのだろうか。また、このベーラ4世がゴシックに改修したとする説もある。13世紀という時期を考えるとロマネスクというよりはゴシックに改修する方が(そしてイシュトヴァーンが建てさせたとされる11世紀の教会がロマネスクだったという可能性も)自然な気もするのだが、何分情報が少なくてよくわからない。

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ロマネスクの重量感が色濃く残るファサード。背の高い向かって右側の塔は15世紀ハンガリー王室の黄金期を築いたマーチャーシュ王が建てさせたものである。マーチャーシュ王は14歳のときにここで戴冠式を挙げ、生涯で二度の結婚についてもこの教会で式を挙げている。しかし、この教会ほどファサードの影が薄い建築も珍しい。ジョルナイタイルの屋根があまりに有名なせいだろうか。

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教会の横にはマーチャーシュ教会と漁夫の砦の模型が置いてある。教会の全体像を把握して中に入ろう。

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中への入口は西正面ではなく、南側にある。上の写真はその入口の上部のタンパンで、西正面よりもゴシックらしい装飾。

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いかにも中世ゴシック的な入口から中へ入ると、思いがけない異質な空間に驚かされた。押さえた色調のフレスコ画が壁や天井を一面に覆い尽くしている。キリスト教の教会なので人物も多数描かれておりそれは非常に美しいのだが、この空間を支配しているのは寧ろ、柱やリブを覆い尽くす幾何学模様や草花紋の存在である。中世ゴシック教会はよく石の森に例えられるが、森の持つひそやかな囁きのようなものはこの教会には感じられない。感じるのは音もなく伸びてゆく草花のしなやかさ、そして土の香り。西欧の深遠な森ではなく、アジアの広大な平原を想わせる。トルコの支配を経験したハンガリーなのでイスラームの影響がこのよう形で表れるのかとそのときは思った。趣が少し違って見えるが、それはイスラームと西洋の文化が混じりあった結果なのだろうと・・・。

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調べてみたところ、これらのフレスコ画は19世紀末、高名なロマン主義の画家セーケイ・ベルタランとロッツ・カーロイによって描かれた。ロマン主義は古典主義の対概念とされる18世紀末から19世紀頃の精神運動である。好まれる主題の中に「はるかなるもの」というものがあり、これは特に自分達の精神的故郷、古代文化をさしている。一方この頃ハンガリーでも盛んだったアールヌーヴォーは、原マジャール的な民芸、伝統的なモチーフを取り入れ民族回帰に結びついた独自の様式を作りだしていた。フスカという人がトランシルバニアに残るフォークアートを収集・研究し多くの芸術家に影響を与えたというが、そのフスカが残した多数のモチーフの絵を見ているとこの教会の柱やリブの模様と繋がるものが感じられる。私がイスラームの影響だと思ったものは、実はハンガリーの民族的なものだったのだ。オーストリアからの事実上の独立に湧くこの時期を体現する装飾。中途半端な知識でものを判断してはいけないのである・・・。

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ちなみにセーケイとロッツはオペラ座の内装にも携わっており、歴史に残る偉大な「マスター」と称されているらしい。ロッツ・カーロイは他にも国会議事堂やブダペストの東駅のフレスコ画も描いている。

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ステンドグラスも独特

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説教壇も独特

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キリスト像の置かれた小礼拝堂

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後陣と中央祭壇

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ヴォールトに描かれたフレスコ画。中央についている人物像がかわいらしい。

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再び外へ。マーチャーシュ王が建てさせた豪華なゴシックの塔。フリジェシュがこの教会をネオゴシックで建替えたのは(一つには時代性なのだろうが)、もしかするとハンガリーの黄金期の姿に戻したかったからではないだろうか。力強く高く聳える塔を見ているとなんとなくそんな気がした。

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ブダペストのケーブルカー

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王宮の丘に建っている19世紀の薫り高いこの建物は、観光客に人気の高いある乗り物の駅。

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3つのボックスを階段状に取り付けたレトロでユニークなケーブルーカーの駅なのだ。

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シックなカラーリングとレトロな形状に似合わず急な斜面をスルスルと昇降しており、車窓の風景をのんびり楽しんでいる暇はない。あっという間にもう一つの駅へと運ばれてしまう。

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斜面の途中にかかる橋の上からケーブルカーを眺める人も・・・。

このケーブルカーは王宮の丘とくさり橋のたもとにあるクラーク・アダム広場を結んでいる。アダム・クラークというのは、くさり橋の建設に携わったスコットランド人技師の名前だ。ちなみにこの広場はハンガリーのゼロ地点、ブダペストから各地への距離はここが基点となって測られるのだそうだ。

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このケーブルカーの開通は1870年世界で二番目に古い登山電車だ。当時は蒸気で動いていたが、今は電動だ。エッフェル塔より20年近く前にこのような乗り物が動いていたとは(エッフェル塔のエレベーターは1889年のパリ万博で人気を博した)、ハンガリーの歴史を知らない私には驚きだった。ハンガリーが独立戦争には負けたものの弱体化したオーストリアから内政権を勝ち取った1867年~第一次世界大戦までの期間、ハンガリーは空前の高度成長期でその成長はヨーロッパでも1番と言われていたのだそうだ。地下鉄もロンドンに次いで世界で二番目に開通しており、当時ロンドンは蒸気だったので電化した地下鉄としては一番と言える。豪華な国会議事堂や漁夫の砦、英雄広場が建てられたのもレヒネル・エデンが活躍したのも丁度この時期で、ブダペスト観光をすることはある種この高度成長期のブダペストを感じることとニアイコールになるのかもしれない。以前パリジ・ウドヴァルのところでも書いたが、ブダペストは新古典主義と世紀末建築が多く、ヨーロッパの首都というとローマを想像する私には随分新しい街に映った。建築史的に言うと、様式重視の時代から合理性・機能性を追求したモダニスムまでの僅かな期間に花開いた個性豊かで華やかな建築、それゆえなのか速やかに終止符を打たれ「断絶の時代」として切り捨てられた19世紀末の建築。中世と近代の間をたゆたう華やかで甘い、新しい時代への期待感と古い時代への郷愁を少々引きずったその独特な空気がなんとなく感じられる・・・。寒い地方の街はあまり好みではないと思っていたが、案外そうでもないと思い直すきっかけになった。

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漁夫の砦

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ブダペスト、王宮の丘の上に御伽噺にでてくるような白い七つの塔を持つ回廊がある。「漁夫の砦」という変わった名前の由来は、中世にドナウの漁師組合がここを守っていたからといわれているが、勿論このネオ・ロマネスクの建物が砦として使われていたわけではない。建国千年祭に向けての市外美化計画の一環として1903年に造られたもので、設計はマーチャーシュ教会を手掛けたフリジェシュ・シュレクが担当している(ちなみにハンガリーは日本と同様に姓・名の順番になる)。

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とんがり帽子のような形はアジアからやってきたマジャール人の遊牧民のテントを、7つの塔はマジャールの7つの部族を表わしている。これはハンガリー人の祖といわれるアールパードがカルパチア山脈の東から他の6人の部族長達を率いてこの地にやってきたという言い伝えからきている。

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写真右側の十字架を頂く回廊は、マーチャーシュ教会の裏手にあたる。漁夫の砦の回廊はこの部分だけデザインが変わるのだが、教会の改修も手掛けたフリジェシュだから、おそらく教会の存在を意識してのことなのだろう。

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漁夫の砦の前にはハンガリー初代国王聖イシュトヴァーンの騎馬像がある。この聖イシュトヴァーンは現在のハンガリーの生みの親と目されている。彼がキリスト教を国教としたことにより、アジアから来たマジャール人の国であるハンガリーはカトリックの国として西洋文化圏の仲間入りを果たしたからである。

余談ながら、イシュトヴァーンはシュテファンのハンガリー語読みなのだそうだ。子供の頃に好きだったファンタジーの登場人物がイシュトヴァーンという名前で、それ以来RPGの主人公につける名前はいつもイシュトだった私としては、随分とイメージが違って少なからずショックを受けてしまった。

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ここが漁夫の砦の入口。漁夫の砦は1Fは無料だが、2Fは有料となっている。ただ鎖がはってあるだけなので、人がいない朝や夜は無料で入れてしまうのだった。

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漁夫の砦は展望台になっている。くさり橋や聖イシュトヴァーン大聖堂、国会議事堂などドナウ川とペスト側の素晴らしい眺望が広がる。こちらは1F。柱越しに見垣間見える風景も風情があっていい感じ。

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こちらは2F、少し上がるだけで雰囲気も随分違う。

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7つの塔の中で最も大きなもの、アールパードの部族ということかしら。

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漁夫の砦は20世紀になってできたものだが、こんな風に見ると中世に迷い込んだような気分になる。

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夕暮れ時の砦。美しい黄昏の空に塔のシルエットが浮かぶ。

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1Fは夏にはカフェが開かれる。

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国会議事堂(ブダペスト)

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ドナウ川の水辺に佇む繊細なゴシックの躯体に上品なドーム、初めてこの建物の写真を見たとき随分優美な建築があるのだと驚いた。ゴシックにしては高さの強調が弱く水平に広がるその姿が珍しいと思うと同時に、何の用途を持った建物なのか図りかねた。宮殿には見えない、勿論教会でもない。美術館や博物館の類でもなさそうだ。国会議事堂と聞いて成る程なと思ったものの、ナニモノにも見えない、 何らしくもないというこの建物の印象は変わらなかった。

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国会議事堂は当然ながら案内つきでしか入れないので、長い列に並ぶことになる。今回の旅行の主たる目的がこの国会議事堂見学だったから我慢せざるをえないが、1時間半くらい待っただろうか。

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豪華なシャンなシャンデリアが続く

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まずはこの豪華な階段室に圧倒される。柱頭の装飾や尖塔アーチ、柱頭から天井へ伸びるリブ等要所要所にふんだんに金が使われ、天井にはクラシックなフレスコ画、リブの交差する辺りには軽やかなグロテスク模様が描かれている。

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ゴシック、ルネサンス、バッロクと様々な様式が見られる。アールヌーヴォー的な柱の草花文様はハンガリーの民族性を感じさせる。この不思議な印象の建物は、分類するならゴシック・リバイバルということになるが、様々な建築様式を取り入れた折衷主義が特徴的である。設計者はシュティンドル・イムレ。驚きなのは、完成したのが20世紀に入ってからということだ。建国千年祭での落成を目指していたものの激しい工事の遅れにより、20年の歳月の後にやっと完成。1904年のことだった。工事に時間が掛かったとは言え、着工したのは1884年頃だろうから、ゴシック・リバイバルにしては随分遅れた登場である。この国会議事堂建設には、ハンガリーがウィーンの支配から独立した国会を初めて持つことが可能になったという背景があり、国の威信を賭けた建物であり、民族の誇りを感じさせるものでなくてはならなかったのだ。建設にあたっては、イギリスを手本としたという。ロンドンのテムズ河畔にある国会議事堂もゴシックで建てられているが、ゴシックという様式はナショナリズムと結びつきやすい性質があるのかもしれない。

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星型のドームの見上げは、何となくエキゾチック。幾何学的なデザインはイスラームの影響を感じるが、その下のランセット窓はゴシックのイメージ。

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上の写真のランセット窓の下のゴシック的エレベーション。最下部を大アーチが支え、その上にトリフォリウム、クリアストーリーと続く三層式立面の上にドームが載っている。

ちなにみこのドームの下に、国宝中の国宝歴代の王が戴冠式に使った王冠、杓、玉が恭しく展示されている。

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これが有名な王冠。ハンガリーの国章にも使われているため、至る所でお目にかかることになる。上の十字架が傾いでいるところがポイントなのだが、これはローマから初代国王イシュトバーンへと届けられる長旅の最中で十字架が傾いてしまったため。もともと十字架を知らないイシュトヴァーン王は喜んでそのまま被ってしまったのだそうだ。何とも可愛らしいエピソードだが、伝統をそのままに国章に描かれる王冠は今でも傾いだ十字架を頂いている。

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国宝のあるホールを抜けると遂に議場に辿り着く。ここもまばゆいばかりの金で装飾されている。国会議事堂というよりオペラハウスのようである。建築当時の首相ティサは倹約家として知られているが、国会議事堂建設については「倹約は一切無用」と言い切ったと言う。この建設に使われた金の総量なんと40kg。彼の並ならぬ意思に感じ入るばかりである。

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議場の天井部とその立面。繊細なトレーサリーと持ち繰り部分の装飾が美しい。

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持ち送り部分の装飾は、入場チケットにもなっている。ドームや金のバロック的装飾部ではなく、これををチケットにするあたりデザインした人の美的センスの高さに感じ入る・・・。

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議員用の談話室の柱には、様々な職業の市民の像で飾られている。上院用下院用(今ではハンガリーは一院制だが、当時は二院制だった)の二つの部屋で200種類の職業の人々が描かれているのだとか。実は絨毯の色もここはブルーに変わっている(入口の豪華な階段等には深紅の絨毯が惹かれている)。青は忠誠を表わす色。議員は普通の赤い血ではなく青い血をもって職務を遂行しなければならないという意味なのだそうだ。どこかの国の議員にも見習ってもらいたものである。

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街側からの眺め。ドームはバットレスとフライングバットレスで支えられている。

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漁夫の砦から眺める国会議事堂

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マルギット橋からの眺め。この角度からも風情があっていい。ちなみに、最もよく建物が見えるのはバッチャーニ広場(1番上の写真)。

実は、冒頭の文章で「ナニモノでもないし、何らしくもない」と書いたときに、その比喩として安直に「無国籍」という言葉を使おうとしてすぐに不適当だと気づいてやめた。こうやって見ていると、この建物は無国籍どころか、確固たるバックグラウンドを感じる。しかも様々な・・・。ゴシックやルネサンス、バロック、そしてこれまでハンガリーが積み重ねてきた諸所の様式。無国籍というよりは多国籍。トルコ・オーストリア・ソ連といった他国からの干渉を受けながら遂に独立政権を勝ち取ったハンガリーの歴史の重みを感じる建築だと思った。

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オテル・デ・ザンヴァリッド(アンヴァリッド)

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オテル・デ・ザンヴァリッド(略してアンヴァリッドと呼ばれることが多い)は、ルイ14世の命により建てられた傷病兵の看護施設で、この種の最も古い施設といわれている。リベラル・ブリュアンにより設計され完成は1675年、中庭のローマ的な重厚さが際立つ建物である。

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しかしながら、この建物で最も有名なのは、アルドゥアン・マンサールによるこのドーム礼拝堂。アンヴァリッドには既にサン・ルイ礼拝堂が付属されていたが、その南端に接続してこの新しい礼拝堂が建てられた。前者は兵士の礼拝堂、後者は宮廷礼拝堂となっている。ドーム礼拝堂は方形にギリシャ十字を重ねたようなプランでミケランジェロがサン・ピエトロ大聖堂で発展させた計画案に基づいて設計されたものらしい。中央を次々に突出させ、二段になったドラムの上に黄金のドームを載せたその外観は、非常に特徴的である。

ちなみに、アルドゥアン・マンサールは、マンサード屋根で有名なフランソワ・マンサールの兄弟の孫なのだそうだ。

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大小二つのドラムの上にメッキを施された豪華なドームが載せられている。ドームの上にあるのは戦勝記念のトロフィーだ。内径21mの三重殻ドーム。外郭ドームは木造骨組みに鉛版を張って建てられている。

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中からドームを見上げる。内殻ドームの装飾は画家ド・ラフォスによる。

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豊かなエンタブラチュアを8本の独立円柱が支える。イタリアのバロックを彷彿とさせるようなダイナミックな空間。こういう壮大さはフランスではあまりお目にかからない。

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ドームの下にはナポレオンが眠っている。地下の墓所へ入る入口の彫刻は皇帝の冠を捧げ持っている。

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直径11m、深さ6mの円形のくぼみにヴィスコンティのデザインによるナポレオンの棺が置かれている。歩いていると床に色々な地名が刻まれているのに気づくが、これはナポレオンが戦った地名である。

アンバリッドはナポレオンの墓所として有名だが、ナポレオンの親族やフランスの有名な将軍の棺も置かれている。フランス国家「ラ・マルセイエーズ」の作者ルージェ・ド・リール(作詞・作曲)もここに眠る。

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アーケードで囲まれた重厚な中庭

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屋根の上の窓のデザイン

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ずんぐりむっくりな兵士は雄雄しいというより可愛らしい。

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窓周りのデザインは様々で凝っている。

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中庭を囲むアーチには3方向のものに日時計が描かれている。

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上の日時計の柱部分のアップ。とても美しい。

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日時計は3つともデザインが違う。これは12星座が描かれている。

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アンヴァリッドは一部軍事博物館として公開されているが、今でも100名ほどの戦傷病の兵士が暮らしているのだそうだ。

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ホテル ボーマルシェ

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Hotel Beaumarchais
3, rue Oberkampf
75011 Paris

http://www.beaumarchaisparishotel.com/

今回のホテルはマレ地区にある3ツ星ホテルボーマルシェ。地下鉄オベルカンフ駅、フィーユ・デュ・カルヴェール駅から徒歩5分と近く、SNCF北駅にも地下鉄で二駅と便利なロケーション。

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部屋のインテリアはカラフルで可愛らしい。

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だけど、結構狭い。

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一応バスタブ付きだけど・・・。

ちなみに、朝6時を過ぎないとお湯は出ない。朝シャン派で、尚且つ朝早くから遠方へ出掛ける私には結構ツライ日も。

パリは1月がホテルの金額が上がる時期なので、年末年始の旅行者には厳しい。このホテルは、スタッフの方はとても親切で感じが良かったけれど、ある程度の年齢を過ぎるとキツイかも。

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朝食で使用されているカップはお土産に購入することもできる。カラフルでとても可愛い。

ちなみにこのカップやグラスは、「MAISONS DU MONDE」というショップのもので、可愛いデザインとロープライスが魅力。フランス各地にあるようで私のお気に入りだったりする。以前マルセイユで見たけれど、かなり大きなショップで品揃えも豊富。女の子のお土産にぴったり。

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上の写真は、ランスのCHAPELAINS通りにある「MAISONS DU MONDE」。ここもかなり大きなお店だった。

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会社の女の子にお土産。「世界の家」という名前だけあって、世界の色々な地域のイメージの食器や雑貨がたくさんあって、選ぶのに迷ってしまう。(って言うか、ブログの趣旨に反してるし・・・。)

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サント・ジュヌビエーヴ聖堂(パンテオン)

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パリには何度か来ているのに一度も訪れたことのなかったサント・ジュヌヴィエーヴ聖堂(一般にはパンテオンとして知られている)。リュクサンブール公園前の三叉路から両側にカフェの並ぶスフロ通りに入ると、突き当たりに壮麗なポーティコとと高いドームが印象的な新古典主義の建物が見える。ローマのサン・ピエトロ寺院へのアプローチを小さくしたような感じだ。

サント・ジュヌヴィエーヴ聖堂はルイ15世の病気の回復を記念して復興された。設計を担当したのはスフロ。長さ110m、幅83m、ギリシャ十字形プランがそのまま外部に現れ、ギリシャの純粋性とローマの壮麗さを併せ持つといわれている。フランス新古典主義の傑作とされている建築だ。

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ドームは直径25m、高さ115m。イギリスのセント・ポール大聖堂(クリストファー・レンによる)を模範として建てられたが、構造的にはパリのアンヴァリッドのドームに倣っている。しかしながら、新古典主義の建築にありがちなこのドームのデザインは、ローマにあるブラマンテのテンピエットにまで遡ることができる。これはサン・ピエトロ・イン・モートーリオ聖堂にある小神殿で、ルネサンス建築の頂点と言われおり、後に造られた古典主義のドームに多大な影響を与えた。

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聖堂内に展示されている断面図。このドームは1780年スフロがなくなった後数学者ロンドレに引き継がれ完成された。薄肉構造の三重殻ドームで、初めて静力学と材料力学が適用された例と言われている。

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ドームの見上げ

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ドームの下の様子。ドームを支える4本のピアのうちの一つ。

スフロはサント・ジュヌヴィエーヴ聖堂の設計にあたり、ローマの壮麗さとゴシックの構造的軽快さの結合を目指したという。当初の案では8本の円柱だけでドームを支える予定だったが、これはアカデミーの反対により4本のピアに変更され、それでも尚1778年にひび割れが生じたため柱を厚くせざるを得なくなった。この改造は材料と構造の知識に定評のあったロンドレが担当している。何となくバベルの塔を思い起こすような話であるが、ボーヴェの大聖堂然り、より薄く、より高くと求めて行くならばこのようなことも起こリ得るだろう。ガイドブックにおいて、ギリシャ・ゴシック様式の神殿と紹介されているこの建物だが、現在この聖堂を見てもゴシック的な要素は殆ど感じられない。

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ギリシャ十字の腕の部分にも浅いドームが掛かっている。

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ドームの模様と呼応するような床のデザインも美しい。

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フーコーの振り子。何故これがあるのかわからない。

サント・ジュヌヴィエーヴ聖堂は1755年着工、1791年に完成された。聖ジュヌヴィエーヴに捧げる教会堂だったが、大革命後の国民議会において国民的偉人を祀る記念堂とすることに決定し、それ以来「パンテオン」の名で知られるようになった。そもそもパンテオンとはギリシャ語で「すべての神々」という意味なのだそうだ。古代ギリシャは多神教なので、ゼウス神殿やアポロン神殿等個々の神を祀る神殿と全ての神に捧げる神殿があり、後者の神殿をパンテオンと呼んだらしい。それがルネサンス期のキリスト教世界に導入され、キリスト教は一神教であったため転じて偉人達を祀る記念堂とされるようになった。いかにも、ギリシャ好みのルネサンス人らしい話で、なんだか微笑ましい。

このパンテオンには、ビクトル・ユゴーやキュリー婦人、アレクサンドル・デュマ、ルソー等が眠っている。そして、勿論この聖堂を手掛けたスフロも・・・。

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エッフェル塔

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実は私はエッフェル塔が大好き。

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明るい時に見るならここシャイヨー宮の高台から見るのが好き。観光バスも大抵ここで停まって記念撮影をするとてもメジャーな場所(ありきたりでごめんなさい。パリ通じゃないので)。パリの街の中にすっくと立ち上がり、エッフェル塔の高さとフォルムの美しさが最も際立って見える場所がここなのだ。

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ドゥーヴィー歩道橋から見たエッフェル塔。この角度からだと1Fと2Fの隙間が見えなくなってしまうが、空気を含んでふわっと広がるようなライトなエッフェル塔が見える。

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夜ビル・アケム橋から見たところ。

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だけど1番好きなのは、足元から見上げる夜のエッフェル塔。

ちょっと思いついて夜にエッフェル塔へ行ってみたら、これが予期しないほどに綺麗だった。夜の闇の中にライトアップされた鉄骨の繊細でありながら力強いラインにただ圧倒されて、そのときから私はエッフェル塔が好きになった。それが鉄と風によって編まれた「アインアンレース」と表現されるものであることを知ったのは、随分後のことだった。

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橋脚を思わせる優美な曲線。エッフェル塔の設計者エッフェルは建築家ではなく技術者で、「鉄の魔術師」と呼ばれていた。特に橋の建造には定評があったらしい。ポルトガルのポルト、ドゥロ川にかかるマリア・ピア橋はとても有名だが、エッフェル塔の脚部によく似ている。

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塔の下から2Fを見上げる。

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ところで、エッフェル塔が何で出来ているか正確にご存知だろうか。エッフェル塔は勿論鉄で出来ている。ただ、鉄といっても今私達がすぐに想像する鉄鋼ではなく、錬鉄でできているのである。エッフェル塔は1889年パリ万博のモニュメントとして造られたものだが、このときのコンペは石と鉄の戦いと言われている。対抗案は前回の万博でトロカデロ宮殿を設計したブールデのもので、太陽の塔というどこぞの万博で爆発していた塔と同じ名前の366mもの石造の塔だった。その塔の頂上に特殊な反射鏡を設置してそこから夜のパリを真昼のように照らすというとても可能とは思えない荒唐無稽なプラン。とは言え、エッフェル案が勝利したのはその机上の空論的なことが理由だったのではなく、1889年万博に建立される塔はその時代性を反映して「金属産業の独創的傑作」でなければならないとされたためであった。

建築をよく知らない私のようなモノは、ここで単純に鉄の石に対する勝利(近代の幕開け?)と考えてしまうのだが、いや実際そうではあるのだが、実はこの鉄という素材は19世紀の100年間同じものではなかったらしいのである。19世紀半ばまでは錬鉄・鋳鉄を使うことが普通で、後半以降は圧延鋼が使われ始めていたのだ。この鋼の登場が建築デザイン的に大きな転換期となった。錬鉄・鋳鉄は、建てようとする個別の物件ごとに新たな部品を作って鋳造しそれを組み立てて建築を造っていく、一方鋼は標準化されたユニットを鋲接して使用する。この違いは建築の美観に大きく変容をもたらす。錬鉄・鋳鉄はこの範囲においては石と同じ表現なのであり、建築様式的観点から考えると、石と鉄の間に分岐点があるのではなく、錬鉄・鋳鉄と鉄鋼の間に分岐点があるのである。

近代のシンボルであり金属産業の傑作として誕生したエッフェル塔ではあるが、厳密に言うとまだ石の建築から完全に離脱し切れていない建築でもあったのだ。ただ、現代の私達の目から見れば、その端境期の微妙な揺らぎが19世紀という時代のムードをよく表わしているようにも思えるのである。

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ちなみに、その頃のエッフェル自身は既に鋼を使用した橋の建造の経験もあり、エッフェル塔に使用する材料を錬鉄にするか鋼にするか最後まで悩んだようである。最終的に錬鉄を選んだのは、エッフェル塔の建設についての最大の問題が「風圧に耐える」ということだったからだ。鋼は成型の容易さ、軽さ、圧縮・引っ張りに強いというメリットがあるが、この鉄のみでできた塔は鉄骨以外に何の壁面も持たない以上それだけで十分に軽いのであり、 圧縮・引っ張りという垂直の力よりも、風のもたらす水平方向の力への耐久力が要求された。その意味では錬鉄の方が腰折れに強いという特性があったため、錬鉄が選ばれたということのようだ。

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ルーアン・ノートルダム大聖堂

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フランス、ノルマンディ地方ルーアンのノートルダム大聖堂。モネが光の移り変わる様を描いた実験的な一連の絵画で知られており、夏の夜にはモネの色彩を大聖堂の上に再現する光のショーなるものまで行われる。何故モネがこの大聖堂を題材に選んだのかは知らないが、刻々と移り行く光の姿を捉えようとし、その瞬間の光を(作品を)描き続ける行為は、ゴシックが光の聖堂であり、変容し続ける「生成の聖堂」であることを思うとある種ゴシック的と言えるかもしれない。

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この冬の旅行が期せずしてフランスになってしまい、気分はすっかりイタリアだったのでどこに行きたいとも思うことなくフランスのガイドブックをパラパラとめくっていてふと目に留まったのがこの薔薇窓とその周辺の彫刻郡。何とも骨骨しい・・・。勿論そんな日本語はないのだが、そう形容したくなる程の見事なガイコツぶり。そういえば、フランスのゴシックってこういうのだよねと思い出し、何となく今回の旅は「ゴシックのルーツを求めて」がテーマになってしまった。

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内部は四層式に見えるのだが、二層目のそれは、トリビューンのように見えて実はトリビューンではない。側廊で天井を見上げるとトリフォリウムの高さまで天井がないことがわかる。何故このようなつくりになっているのだろうか。

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光塔はアングロ・ノルマンゴシックの特徴。

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交差廊から後陣をのぞむ。

ルーアン大聖堂も正式名称はノ-トル・ダム大聖堂という。Notre-Dameとは英語で言えばOur Ladyのことであり、私達のご夫人、つまり聖母マリア様のことを意味している。パリ、シャルトル、ランスにアミアン・・・ノートル・ダムの名を冠する大聖堂は非常に多い。ゴシックの大聖堂が建てられたこの時期、何故聖母マリアに捧げるものが多く造られたのか。この問いには、今2作目が話題の映画「ナルニア」の第一章「ライオンと魔女」が答えてくれる。

「ナルニア国物語」は全7巻、「ライオンと魔女」はその1作目にあたる作品で、愛する女性のその息子に聞かせるために書いた作品だと作者C・Sルイスの伝記的映画で見た気がする(もうあまり覚えていない)。初めから7作という構想があったのではなく、1作目が大ヒットしたためにシリーズ化されたと言われており、「指輪物語」「ゲド戦記」と並ぶ三大ファンタジーに数えられている。私にとっても子供の頃に最も好きだった本であり、自分の行動規範をこの本から学んだ部分も少なからずあるように思う。

イギリスのみならず世界的に大好評を博したナルニア国物語だが、その一方でキリスト教のプロパガンダという謗りを受けることもしばしばあったようである。子供の頃は全くわからなかったが、大人になって改めてこの映画を見てみると、キリスト教以外の何者でもない世界観がそこにあった。子供の頃に感じた違和感は、まさにこのキリスト教の世界観が日本古来の価値観や道徳観に合わなかったために生じたものだったようだ。

さて、第一作「ライオンと魔女」のあらすじはというと、イギリスに住む4人の子供達が人間の言葉を話す不思議な動物達の暮らすナルニアという国に偶然迷い込むことから始まる。そこは冷酷な白い魔女の治めるクリスマスの来ない永遠の冬に閉ざされた国で、子供達は偉大な力を持つライオンのアスランや動物達と共に戦い、白い魔女からナルニアを開放するという物語である。物語の事細かな部分は取り上げる必要はないが、このあらすじの意味するところは、白い魔女=地母神に支配されていた恐怖と無知に満ちた世界を、偉大なライオン=イエスがうち滅ぼし世界に春をもたらしたと読み取れるのである。白い魔女は、女性であること、ナルニアを冬に閉じ込めるということから自然との強い繋がりが感じられること。「クリスマスの来ない冬」つまりキリストの生誕を祝わない環境であること。これらのキーワードから、未だキリスト教化されず地母神を信仰していた時代に対するキリスト教の勝利の時期、つまりゴシックの黎明期ととることができるのである。(子供達が4人と福音書の著者の数と同じなのも単なる偶然ではないだろう。)

ゴシック大聖堂が建てられはじめた12~13世紀の北フランスは、農業改革が進む中、農村で余剰となった労働力が森林を伐採し開墾したり、農村を離れて都市集落へと移動し他の職業についたりといったことが顕著にあらわれた時代だった。都市集落は、地縁・血縁で繋がった農村とは違い、様々な場所から集まった異なる職業、異なる風習を持つ人々の集まりであったため、人々はそれまでにない不安を抱えることになった。そんな中その不安を解消する為に新たな共生の原理が必要になったのは必然的な成り行きだったと思われる。様々な地域から集まった元農民達はそれぞれの土地に伝わる地母神を信仰していた。そこで母性を備えた新たな共通の信仰の対象として聖母マリアが選ばれたのである。母性と結びつくことにより、自然との繋がりを保持しようと努めたのであった。実際キリスト教の教えや記念日には自然に深く関わるものが多い。キリストや聖母マリアの復活憚は自然の冬から春に向けての再生そのものであるし、日照時間が逆転する冬至の日(当時の暦で12月25日)は昔から異教で重要な祝い事の日とされていたが異教撲滅の為キリストの誕生日とされた。ケルト信仰で最重要視された新年の11月1日の次に再生のはっきりと現れる日として5月1日が重要視されたが、「聖アンナによる聖母の無原罪懐胎」の祝日はその翌日に設定されている。

ナルニア国物語の中で地母神に打ち勝つのは聖母マリアではなくイエス(=アスラン)であるところが実際とは異なるが、聖母マリアはキリストの母であり絶対的な神ではない(神はイエス)ので、神学者であるC・Sルイスとしてはここで聖母マリアを持ち出すわけにはいかなかったのであろう。

ともあれ、そのような訳でゴシック期には聖母マリアに捧げるノートルダム大聖堂が多く建てられることとなったのである。ちなみに私はキリスト教徒でもなければ、キリスト教に共感したからナルニア国物語が好きだったわけでは決してない。

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ジャンヌ・ダルク教会

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ルーアンの旧市場広場は、ジャンヌ・ダルクが魔女として断罪され火刑に処せられた場所である。その広場に彼女を偲ぶ教会が建てられている。名前はジャンヌ・ダルク教会、設計者不明、竣工日不明、現代建築なのでそう古くはないのだろうけれど・・・。

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旧市場広場、左の1番大きな屋根がジャンヌ・ダルク教会。右の小さな漣は市場の屋根だ。市場が先にあって、市場にあわせるように教会が出来たと聞いたように思う。ちなみにこの屋根は海のイメージなのだそうだ。

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集中式プランの内部は広々としてすっきりした空間。目のように見えた細長い開口部(1番上の写真)は中から見ると魚が2匹泳いでいるように見える。

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この教会の1番の見所はサン・ヴァンサン教会から移された16世紀のステンドグラス。

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壁一面がステンドグラスに覆われている様は圧巻。16世紀と古いものなのにとてもスタイリッシュ。

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この教会のもう一つの見所はこの天井。まるで船底を見ているようだが、この地の造船技術を活かして造ったものだそうだ。

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ステンドグラスとの接合点

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ジャンヌ・ダルクの像

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ろうそく立ても現代的

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ルーアンの街並み

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フランスノルマンディ地方のルーアンは、モネが光の変遷を描いた大聖堂とジャンヌ・ダルクが最期を迎えた地として知られている。かつてはノルマンディ公国の首府として栄えた街でもあり、街のあちこちに荘厳な教会や公共の建物が存在し、「町そのものが美術館」とも言われている。

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旧市場広場、ジャンヌ・ダルクが火刑に処せられた場所。

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旧市街にはノルマンディ地方特有のハーフティンバーの街並みが残されている。フランスでハーフティンバーと言えば、ストラスブールやコルマール等アルザス地方が有名だが、ノルマンディにも意外に多い。

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この通りは大時計通りといい、もう少し東へ行くと大時計のある門へと辿り着く。

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門は16世紀、時計は14世紀に作られた。時計の方が古いということはどこかから移されたのだろうか。この門を抜けると、モネの描いたルーアン大聖堂に出る。

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ルネサンス等式の時計、針は一本しかない。デザイン的には少し豪華すぎて繊細さに欠ける気がする。

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サン・マクルー教会前の広場

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上の階の方が張り出しが大きい。

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ハーフティンバーというのは、木造の骨組みの間を漆喰やレンガ、石といった素材で壁を埋めていく様式で、中世ヨーロッパのイギリス、ドイツ、スイス、フランス等豊かな森林を持つ国で発展した。木造の骨組みがそのまま外壁のデザインの特徴となっている。

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アラブ世界研究所

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アラブ世界研究所はパリ5区セーヌ川の左岸に建っている。「右岸では金を使い、左岸では頭を使う」というパリっ子のジョークにあるように、この辺りは大学や研究所等教育機関が多く集まっている。また、ここからそう遠くないところにモスクもあり、チャイハネやケバブ屋、アラビア語の書物を扱う本屋等パリの中にありながらイスラーム文化に触れることができる地区でもある。

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アラブ世界研究所のオープンは1987年、設計はジャン・ヌーベルとアークテクチャー・スタジオによる。ガラスの壁面にアルミパネルを取り付けた特徴的なデザインは、まさしくイスラームと西洋文化の融合を感じさせる。

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アルミパネルは全部で240枚、カメラの絞りのような仕組みが施されている。開閉することで光を調節できるようになっている。

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アップにするとこんな感じ。

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アラブ世界研究所の中。パネルの絞りによって調節された光が零れ落ちる。近代建築のマシュラビーヤ。マシュラビーヤ(インドではジャーリーという)とは、イスラーム建築に見られる透かし彫りを施した窓のことを言い、見た目に美しいだけはなく、強い日差しを遮りながらも室内に十分な光を送り込む役割を果たしている。

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絞り羽が閉じている部分

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正方形のユニットの最も外側の開口部。絞り羽が6枚のものは6角形に、その下の8角の星型の開口部は8枚の絞り羽で出来ている。この多彩な開口部が内部に幻想的な光を落とし、外部では繊細なテクスチャーをつくる。

アラブ世界研究所には博物館やカフェ、ブックショップも併設されており、イスラーム文化愛好家には必見のスポット。カルト・ミュゼも使用可能なので、イスラームに興味のない人もたまにはパリの中の異文化に触れてみるのもよいのでは・・・。

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ルーブル美術館2

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I・Mペイのガラスのピラミッドはドゥノン・リシュリュー両翼の中央にルーブル美術館の入口として建てられた。僅かに外に開いた両翼の散漫になりがちな空間に、その単純な三角立体は見事に求心性を発揮している。このピラミッドがルーブルの入口として登場した意味は大きい。ルーブルは古代から18世紀までの美術を幅広く扱う美術館だ。従来のバロック建築の中に古代の英知を象徴するピラミッドを建てることによりこの美術館の所蔵品を明らかにすると共に、二重の意味で新旧の対比を見せる。一つはまさにその建築としての様式の対比、もう一つはガラスと鉄という近代的素材と古くから使われている石という素材の対比。その特徴の対比の鮮やかさはもとより、それぞれの対比が着目する点により新旧交代するところもおもしろい。また、パリという街から考えても、シャルル・ドゴール・エトワールの凱旋門、コンコルド広場のオベリスク、カルーゼル凱旋門、そしてガラスのピラミッドと一直線に古代の記念碑が並ぶことになり、ナポレオン以来の古代趣味に貢献している。建築当時あれほど物議を醸したペイのピラミッドは都市のコンテクストにもはまり込み、今ではルーブル美術館の顔とも言える存在になっている。

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ガラスのピラミッドの中から外を見る。スタイリッシュな空間。ピラミッドはリシュリューとドゥノン翼を繋ぐ地下空間の天窓ともなっている。

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入口の螺旋階段

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ルーブルに隣接する地下ショッピング・センターの奥にある逆ピラミッド。これもルーブルの入口である。通常のピラミッドは常に長蛇の列だが、ここからなら早く入れる。ルーブルに隣接する地下ショッピング・センターの奥にある。また、カルト・ミュゼ専用の入口もあり、そちらは全く並ぶことなく入館できた。

ところで、ルーブル美術館の正面はガラスのピラミッドが入口だから西側になるわけだが、ルーブル宮としての正面は実は東側になる。このファサードは太陽王ルイ14世の時代に宮殿に相応しいファサードをということで建設されたが、このときにかのイタリアの建築家ベルニーニも招聘されている。国賓級の待遇で下にも置かぬもてなしだったらしいのだが、結果としてはベルニーニの意見は取り上げられることなく何もすることなしにイタリアに帰ってしまった。ベルニーニの残した東側正面案というものは存在しており、美術館の公式サイトで見ることができる。中央に円筒状のものを配置しその両側に緩くカーブを描いた両翼が腕を伸ばすヴァチカンのサンピエトロ寺院の広場を想起するようなデザインとなっている。先にも書いたように実際にはこの案は実現することなく、ペローとル・ヴォーによって現在見ることが出来る東正面が完成された。今では平坦な列柱廊の広がるファサードが見慣れているのでそれがルーブルという気がするが、ベルニーニのうねるようなダイナミックなファサードが採用されていたら、どんな感じだったのだろうか・・・。

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こういうところが結構ルーブルっぽいと思ってしまう。

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ドゥノンとシュリー翼の境にあるダリュの階段。踊り場には「サモトラケのニケ」が展示されている。天窓から降り注ぐ光がスポットライトのように女神を照らす。

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「サモトラケのニケ」今にも飛び立ってしまいそう。

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ミケランジェロの「抵抗する奴隷」と「瀕死の奴隷」が並ぶ。

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アポロン・ギャラリー、最も宮殿らしい豪華な部屋。ルイ15世の王冠やマリー・アントワネットのダイヤモンド、豪華な食器類が展示されている。

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ここの天井のデザインがとても美しかった。

さて、半強制的にルーブルに連れて来られるきっかけとなった問題のモナリザだが、たった数分の逢瀬でくだんの彼をオルセー派からルーブル派に寝返らせた謎の微笑は、私には何の印象も与えなかった。しかし、人間は成長するものではあるし、同じ建築を見ても以前は感じなかったものが感じられるようになることもよくあるから、いつかは私にもわかる日が来るかもしれない。自分の感じ方の変遷を辿れるのも、歳を重ねることの楽しみの一つだと思っている。モナリザについては、そんな日が来るのか来ないのか・・・。今のところ可能性は低そうだ。

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ルーブル美術館1

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オルセーで書いた学生時代の旅行の話の続きになるが、結局あの時オルセーではなくルーブル美術館を選択することとなる(旅程上どちらか一方しか行く時間はなかった)。何故かと言えば、ルーブルなんてと言っていた本人が宗旨替えしたからに他ならない。彼曰く「昨日ルーブルに行って来たんですが、モナリザが凄くよかったんです。正直どうせ大したことないと思ってたんですが、全然そんなことなかった。悪いこと言いませんから、騙されたと思ってルーブルに行って下さい。モナリザを見ずしてパリを離れることなかれ!ですよ!」一字一句違わないとは言わないがほぼこのようなことを訴えられ、半ば強制的に連れて行かれたその時が、私にとって初めてのルーブルとなった。

その頃のルーブルには、まだガラスのピラミッドは造られていなかった。生憎の大雨にぬかるんだ空き地を見ながらガイドさんが「もうすぐここにガラスのピラミッドが出来るんですよ。歴史あるルーブルにそんなものを建てるなんてとパリでは非難の的になっています」と教えてくれた。そのときの私には、それがどういうものなのか全く想像がつかず、またここに来て完成したピラミッドを見ることがあるんだろうか、そのとき自分はどんな感想を持つのだろうかとぼんやりと考えたのを覚えている。

ルーブルの建築としての歴史は、13世紀フィリップ・オーギュストがパリ防衛の為の要塞を築いたことに始まる(要塞の遺構がピラミッド工事で土地を掘り返した折に見つかり、見学可能となっている)。その後16世紀にルネサンスのの王宮に建替えられるが、この頃の王宮は現在のクール・カレのほんの一部に過ぎない。ちなみにこの王宮の改築を命じたのがフランソワ1世で、晩年のレオナルド・ダ・ヴィンチをフランスに招聘したのがこの人である。

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シュリー翼2Fと3Fを繋ぐアンリ2世の階段。アンリ2世とカトリーヌ・メディシスのイニシャルが配されている。このあたりは、16世紀レスコーが改装した為レスコー翼と呼ばれている。ルネサンス様式の非常に美しい階段。

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夜のクール・カレ

17世紀にはルーブルは飛躍的に拡大される。水辺の回廊(グランド・ギャルリー)やクール・カレが完成するのはこの時期で、ルーブルの大きさはこの時期にほぼ確定された。

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グージョン作のカリアティッド。クール・カレ西翼の南側の棟への入口に当時のまま据えられている。

18世紀は建築としての動きは特別なかったようだが、革命後の1793年、共和国政府が「中央美術館」の名前で宮殿の一部を開放する。ルーブル宮が美術館としての第一歩を踏み出した記念すべき年である。19世紀にはナポレオンが各地への遠征で多数の美術品を持ち帰り所蔵品を充実させるとともに、カルーゼル凱旋門建設や北の回廊建設に着手した。そして、ルーブルを世界一の美術館に発展させたのはナポレオンの甥であるナポレオン3世だった。この時代にリシュリュー翼、ドゥノン翼と途中まで伸びていた北の回廊が完成し、東端のクール・カレと西端のチュイルリー宮が結ばれ、1857年すべての市民に公開される美術館としてオープンした。その後、チュイルリー宮がパリ・コミューンの騒乱で喪失し、現在のようなチュイルリー庭園へと開かれた形になった。

そして、20世紀ミッテラン大統領の「グラン・ルーブル計画」がスタート、一部のコレクションをオルセーに移したのもこの計画の一環だ。今やルーブルの名物のようになっているI・M・ペイによるガラスのピラミッドもこのときにコンペにより建設され、ここに現在のルーブル美術館の姿が完成する。

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マルリーの中庭 リシュリュー翼の3つの中庭はこのようなガラス天井の彫刻展示室となっている。ピーター・ライスらの設計による。2度目にルーブルを訪れたときは、ピラミッドは既にあったがこの天井はまだなかったような気がする・・・。ルーブルはいまだ発展中なのだ。今も新しく別館のプロジェクトが進行中で、これは日本のSANAAがコンペに勝ち抜き、2008年竣工、2009年オープンとなっている。SANAAらしい繊細なガラス使いが印象的な美術館になるのだろうか。またパリへ行くことがあれば、是非とも訪ずれてみたいと思う。

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オルセー美術館

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オルセー美術館がオープンしたのは1968年、意外に歴史は浅い。私が初めてパリを訪れたのはその二年後で、一緒に旅をしていた学生の間では『ルーブルなんて大したことないよ。イイモノは殆どオルセーに移っちゃったから。』との噂がまことしやかに流れていた。あのルーブルの膨大なコレクションの何と比べてイイモノと言っていたのかは極めて疑問だが、まあモノを知らなかったということも本当だが、それほど新しい美術館への期待が大きかったのだろう。

それはともかく、この美術館はルーブルとポンピドゥーの間、つまり1848年から20世紀初めキュビズム直前までをカバーする美術館として誕生した。ルーブルからは、ミレー・ドーミエ・コローの一部クール・カレに掛かっていた作品、ジュ・ド・ポームの印象派美術館のすべての作品、パレ・ド・トーキョー旧近代美術館の一部が移されている。先ほどの「イイモノ」というのは、おそらく印象派美術館からの作品群のことをさしていたのだろうと思うが、概してこの時期の美術は一般的に理解しやすいような気はする。ルーブルは古過ぎてポンピドゥーでは斬新過ぎて・・・といったところだろうか。

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ブールデルの「弓を引くヘラクレス」

オルセー美術館に入ってまず驚くのは、巨大なトンネルヴォールトを頂く大空間で、彫刻作品が並ぶ中央コンコースの吹き抜けは圧巻である。この美術館らしからぬ不思議な造りは、もと鉄道駅であったものを転用したからに他ならない。

オルセー駅は1900年パリ万博の開催にあわせて、パリ-オルレアン間を結ぶ鉄道の終着駅兼豪華ホテルとして、建てられた。1900年という時代を反映して鉄骨・ガラス張りのかなりモダンで豪華な駅だったが、自動車や地下鉄の発達と鉄道車両の長大化によりたった30年と短期間で駅としての役割を終えた。その後1986年美術館としてオープンするまで無人の廃墟と化していたらしい。プラットホームの巨大なトンネルヴォールト、妙に高い位置にかかる大時計、それを支えるガラスの壁面等今も建物のあちこちに駅の名残が感じられる。

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かつては鉄道の時を刻んだ大時計。デザインは結構クラシカル。

それにしても、パリの美術館は上手く出来たものだと思う。古代から18世紀までを扱うルーブルは、18世紀まで最もポピュラーだった古典様式の建築(今ではピラミッドまである)、ポンピドゥーは時代の先端を行くような近代建築、そしてオルセーはまさしく自身がカバーしている時代に相応しいアールヌーヴォー建築となっている。オルセーがポンピドゥーより約10年遅れてオープンしていることを考えると、この意味は大きい。その美術館に似合ったものを新しく建てることはいくらでも出来る。しかし、どんなに資金があっても、どんなに時間があっても、どんなに優秀な建築家がいても、古いものは出来ないのである。さすがにパリは懐が深いと、感じ入ってしまうのである。

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コンコース横に設けられた展示室。おそらく3Fにあたるところだったと思う。ドームを支えるペンデンティブの間のスペースにパネルを設けて展示を行う。しかもパネルの所々を抜いて後方のスペースを見せる念の入れよう。

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5Fのカフェ。時計塔の裏にあたる部分を利用している。空間としてはとてもカッコイイが、インテリアのせいかお洒落とは言えない・・・。ただ、軽食もボリュームがあって、結構使えるかと。

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時計の裏面はなんだかかっこいい。

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この時計盤はガラスなので、こんな風に外の風景が見える。これはコンコルド広場の観覧車。

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この時計、実は二つあり、一つはカフェにもう一つはカフェの横の通路にある。この写真では良く分らないが、中央の微妙な光はライトアップされたサクレ・クール寺院だ。

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気になる日時計

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ルー・サン・ジャック27番地にちょっと変わった日時計がある。シュールで不気味な人の顔が描かれているそれは、パリの街角にあまり似つかわしくない。良く見てみると右下によく知られたサインが入っていることがわかる。作者はシュールレアリスムの画家ダリ、友人のパン屋のために作ったものだそうだ。ヨーロッパの街角には時々こんな発見があって楽しい。

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こんな風に時計がはってある

ルー・サン・ジャックはサン・ティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路のフランス側出発点として有名な通りだ。私にとっては、初めてヨーロッパを一人で旅行したときの最初の夜に宿を取ったのがこの通りで、その後長い趣味となる建築めぐりの旅の出発点でもあり、少し思い入れのある場所である。

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ランスで見かけた日時計

針のない方向から歩いてくると、大きな壁にローマ数字がただ書いてあるように見える。なんだろうなーと思って通り過ぎると針が見えて日時計だったことがわかった。

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南仏エズで見つけた日時計。色鮮やかで可愛い。

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イタリア ベルガモの旧市街で見つけた王道の日時計

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スペイン セゴビア旧市街の広場の前にあったとてもお洒落な日時計

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オランジュリー美術館

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2006年に待望のリニューアルオープンが行われ、今はまだピカピカのオランジュリー美術館。何故こんなおいしそうな名前がついているのか不思議だったのだが、もともとオレンジの温室だった建物を美術館にしたかららしい。重厚な古典様式のファサードを持つ建物がまさか温室だったとは・・・こういうところがヨーロッパは凄いなと思う。それはさておき、今回のリニューアルの目的はヴァルテール・ギョームコレクションが加わった折に地下に降ろしてしまったモネの睡蓮室を1階に戻し、モネとの約束通り自然光の中で『睡蓮』を鑑賞できるようにすることだった。室内に太陽の光が満ち溢れた、オランジュリーが最もオランジュリーらしかった時代に帰ろうということらしい。このリニューアルにより、日本の地中美術館は、『睡蓮』を自然光の中で見られる世界唯一の美術館ではなくなってしまった。

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オランジュリーは世界で最初のサイトスペシフィックな美術館と言われている。モネが『睡蓮』を寄贈する条件として、一つは自然光の中におくこと、もう一つはオーバルな形の部屋に展示することを要求した。見る人があたかも水中にいるかのような気分で刻々と移り行く光がもたらす『睡蓮』の変化を楽しめるような空間を作りたいという意図からであった。今から20年程前初めてここを訪れたときの感動は今でもはっきりと思い出せる。それまでにも『睡蓮』は他の美術館や展覧会で何度も見たことがあったが、正直何がそんなにいいのか全く分らなかったのだ。

当時モネの睡蓮室は地下にあった。決して広いとは言えない1階の展示を見た後、表示に従って階段を下りる。降りるにつれて徐々に下の方から『睡蓮』の青い画面が視界に広がっていく。それは、広がるというよりも水面が競りあがって最後には水槽の中にすっぽりと包み込まれてしまうような感覚と言った方が近いかもしれない。階下につくと緩やかなカーブを描いた『睡蓮』が迎えてくれる。そのRのせいなのか壁を覆う4枚の絵がとても生き生きと躍動感を持って感じられたのを覚えている。このとき初めてモネの『睡蓮』とはこう言うものだったのかと納得したのだった。

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睡蓮室へ向かう通路

残念ながら(失礼ながら・・・)、リニューアル後モネの睡蓮室は1階に移ってしまい、入口からすんなりと入るようになってしまった。たとえが悪いかとは思うが、ダン・ブラウンの小説のようにタメがなく、物足りなさを感じてしまう(ファンの方すみません。好みの問題です)。私は以前のオランジュリーの方が良かったと思う。モネとの約束は果たせないけれど。

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睡蓮室の様子。入場制限されるので人はそう多くはない。

カルトミュゼを持っていると切符を買う列とは別にしてもらえるので、早く入れる。

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これがモネの『睡蓮』だ!過去二回見たときよりも、色がくすんで見えたのは気のせい?もしかして壁が新しくて真っ白だったからかな?

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オランジュリーは『睡蓮』だけではなく、質の高いコレクションで有名である。ルノワールやローランサン、ユトリロと誰でも知っているような有名画家の作品が多数揃っており、しかもルーブルやオルセーのように広すぎてうんざりするといったこともない程よい広さである。私のように、別段美術が好きなわけではないけどせっかくパリに来たしね、という人にはぴったりの美術館である。

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地下の様子。コンクリートの打ちっぱなしに、ほっそりとしたフライング・バットレス。同じ材料を使っても、地震のない国の建築は日本のものとは少し違う。

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サン・ドニ大修道院付属教会堂

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サッカーのワールドカップフランス大会以来日本でも有名になったサン・ドニは、パリ郊外といっても地下鉄で行ける便利なところにある。ここにゴシックの誕生と爛熟を同時に体験することができるサン・ドニ大修道院付属教会堂、現大聖堂が聳えている。

伝えるところでは、二人の仲間とともにパリに伝道に来たサン・ドニは現在のモンマルトルの丘で斬首されたが、そのまま自分の首を持って歩き続け、5キロほど離れたところで力尽き殉教した。その首が置かれたところに建てられたのが、サン・ドニ修道院なのだそうだ。それ以来この修道院はサン・ドニと二人の聖人の聖遺物を納める修道院として巡礼の地となり、また代々のフランス王家の菩提寺として、特殊な地位を占めることとなる。因みに、このサン・ドニはパリの初代司教とされている。

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西正面扉口のタンパン。静的な表現がゴシックらしい。

以前の老朽化した修道院と聖堂の建替えに着手したのは、当時の修道院長のシュジェ(シュジェール、スゲリウスとも表記)という人物だった。シュジェは極貧の生まれながらサン・ドニの修道院長となり、政治的にもルイ7世の摂政を務めるなど類い稀な能力の持ち主であったらしい。彼は幼い頃より、荒廃著しいこの修道院を王室修道院に相応しいものに立て直したいと考えていたと言う。修道院長になったシュジェは、1137年にまず西正面の改修に着手した。このファサードではまだゴシック的要素は薄く、薔薇窓が採用されて一つのデザイン的方向性が示された程度に留まる。その後、後陣を含む内陣の工事に着手し、1144年に完成。この年を持ってゴシックが誕生したと言われている。

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何故にこの年がゴシック誕生のときとされているのかという問いは、ゴシックとは何かという問いに繋がる訳だが、フライング・バットレス、尖頭アーチ、リブヴォールトが総合的に使用されていることとされることが多い。この考え方は19世紀の構造的解釈によっているが、この時点のサン・ドニではまだ実現されていない。尖頭アーチをもってゴシックの誕生とする説もあるが、そうであればサン・ドニよりも遡ることになる(尖頭アーチと言えばゴシックの専売特許のように言われているが、ロマネスク建築の中にも僅かながら使用例が見られる)。また、線状要素こそゴシックの本質とする考えもあるが、それは確かに一つの特徴ではあるが最終的な目的ではないだろうと思われる。重い壁体を細いシャフトやリブで覆い隠す装飾は、石の持つ重量感を消失させると同時に木の幹から枝が伸びやかに広がる様を想起させる。ゴシック建築がよく石の森と例えられるのは、まさにこの上昇志向を体現するシャフトとそこから分岐するリブヴォールトの繊細な広がりによるのだ。ただ、この特徴はイギリスにおいてより顕著に発展する。エクセターのスラリと何本にも伸びるリブ、バースやグロスター大聖堂などで見られる天井を覆いつくすファン・ヴォールトは、まさしく木々の繁茂する様子を写し取っているように見え(って、実物は見たことないけど)、かつて破壊していった森林の姿をその木々の囁きを、石の教会堂の中に創造したと思われるのだ。先程線状要素は最終的な目的ではないと書いたが、ことイギリスにおいてはゴシックの発展と共に求める本質に変化があったのかもしれない。

話を元に戻そう。フランス、このサン・ドニ内陣でも無骨ながら森を想像させるような変化はあったが、それはむしろ大きな開口部を持つために技術的に採用されたものだった。シュジェが求めたのはその大きな開口部がもたらす光の空間、天への扉であると同時に地上での神の家を体現するものであったのだ。この光の空間を持ってしてゴシックの誕生とされている。

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身廊部のステンドグラス

先にも書いたようにシュジェが求めたのは光の空間である。それも無色透明な硝子からくる光ではなく、多彩な色ガラスを通過した宝石の如く煌く光である。シュジェは光というかその光輝性に執着したが、その理由は偽ディオニュシオスの位階論に求めることができる。それによると、神と人間の魂との間(最高に純粋な精神世界と最低レベルに物質的な世界との間)には位階が存在している(二分論は存在しない)。神より注ぎ込まれた照明の段階(アナロギア)のみが存在し、その到達の段階(位階)に応じて、神の姿に似たものとなっていくのだという。最高の英知、父なる神は『光の父』であり、キリストはその父を世界に掲示した『最初の放射』とされる。サン・ドニにはディオニュシオスが記した偽書の翻訳版が古くから伝えられており、シュジェはこれに強い影響を受けていたと考えられる。シュジェは「愚鈍な心は物質的なものを通して真理に昇る「と碑文に残しているが、この根拠も偽書に求められる。神と人間の魂との間は二分法ではなく照明の段階であるということなので、その段階が最も低いものであっても何らかの神の照明は受けているのである。そして、位階を上がって行くためには、さらに上の光の導き、神の英知である『真の光』を映し出すところの物質的な光の導きを必要とする。つまり、「人の心は物質的なものの手引きによってのみ物質的でないところのものに上昇しうる」というのである。シュジェは、同時代の聖ベルナールとは異なり愚かな者の中に世俗の者のみならず自分や修道士達も含めて考えていたようであり、かくして偽書はシュジェの煌びやかなものを求めることへの免罪符となるのである。

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北の薔薇窓

聖ベルナールはシトー派の修道院クレルヴォーの修道院長だった人で、よくシュジェと比較される。二人は最大のライバルであると同時に終生の友人でもあったようだ。禁欲・清貧・服従を旨とするシトー会の中で指導的立場にあった聖ベルナールは、シトー会の精神をそのまま反映したすべての虚飾を削ぎ落としたストイックな建築様式を生み出している。その代表的なものにはプロヴァンスの三姉妹と呼ばれるル・トロネ、セナンク、シルヴァカーヌやフォントネー等があり、近代の建築家にも影響を与えている。聖ベルナールにとって修道院とは、禁欲の場・祈りの場・神と人が対峙する場所であって、地上における神の家を体現するものではないのである。聖ベルナールは、建築や芸術の物質的な光輝さ壮麗さは修道の妨げになると考えておりクリュニー修道会を激しく非難していた。仲間の修道院長に宛てた書簡において、サン・ドニを『ヴァルカンのアトリエ、サタンのシナゴーグ』と強く非難したことは有名な話である。もっとも、シュジェは内面的純粋さだけではなく外面的な光輝性によっても神に仕えるべきとして姿勢を変えず、サン・ドニはパノフスキー曰く「サタンのシナゴーグであることをやめたとはしても、以前にも増してヴァルカンのアトリエとなっていった」のであった。シトー会は祈りの場として精神的な建築空間を求めたが、クリュニー会は建築を祈りの対象そのものと考えていた。クリュニーの生んだゴシックの様式は(磯崎新が著書『神の似姿』でゴシックの章のタイトルとしたように)、『示現の装い』なのである。

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北袖廊と後陣部

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13世紀ピエール・ド・モントルイユの手による内陣。

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政治活動でも多忙だったシュジェは、身廊部の工事までは着手できなかった。この美しい身廊は13世紀の名匠ピエール・ド・モントルイユよる爛熟期のゴシックである。トリフォリウムは暗い帯ではなくステンドグラスに変えられている。

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フライングバットレス

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マリーアントワネットとルイ16世の記念碑。墓は地下にあり、黒い大理石の簡素な銘盤が置いてあるだけである。

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代々のフランス王家の墓なので、このように豪華なものも多い。サン・ドニは修道院ということだけではなく、フランス王室の菩提寺として世俗的な側面も持つため、聖ベルナールも自分の求める精神性に程遠いサン・ドニの装飾性についてある程度許容せざるを得なかったようである。

ゴシックというと、初めての国際的建築様式であることもあり、生みの親であるシュジェの豪華好みと名誉欲の強さもあり、実際権威を競うかのように高く尊大な建築が陸続と建てられたという後の経緯もあり、権威の象徴として豪華に飾り立てられたというイメージが強いが、シュジェが主張したように、光という物質による愚鈍な心の導きや外的光輝性による神への奉仕という志も本当だったのだろうと私は思っている(免罪符になっているとか書いたけど)。壮麗さに憧れたのも本当、それが神への奉仕に繋がると考えたのも本当。そんな風に思いながら、サン・ドニの内陣で天から降ってくる光に包まれていると、それはただの太陽光なのではなくてもっと意味の深い光に取り巻かれているような気がした。

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パリ・ノートルダム大聖堂

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随分前、まだ私が建築に興味を持って間もない頃、パリのノートルダム大聖堂のファサードを見て不思議に思ったことがある。ゴシックと言えば上へ上へと異常なまでに垂直性を追求するヒステリックな建築だと思っていたのに、随分と端正で静謐なファサードだなぁと思った。大きく聳える双塔には頂塔もなく、ピナクルもない、薔薇窓の上には半円アーチ、さすがに扉口を覆うアーチは尖塔アーチだが、上昇志向を感じるのはそれくらいのもので全体的にはまだまだ石の量感を残している。これはゴシックのファサードとしてどうなんだろう?

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パリ大聖堂は1163年着工、初期のゴシックに分類される。それゆえまだゴシック的要素は薄いのだ。とはいえ、大雑把に認識するとフランスゴシック大聖堂のファサードは、大体このような形をしている。普通に考えて垂直性を追求するなら塔のシルエットは細い方がいいに決まっている。何故頂塔ではないのか?何故、林立させようともしないのか?ゴシックをゴート族の野蛮な建築だと言って(これがゴシックの語源になっている)嫌ったイタリアならまだしも。フランスはゴシックの本場じゃないかと思うだけに不思議だったのだ。

何をもってしてゴシックとするかという問題はあるが、 美学者ヴォーリンガーはフランスのゴシックはラテンの香りが漂っていて純粋ではないと言っている。ヴォーリンガーによるとドイツの建築にゴシックの本髄があるというのだ。確かにファサードを含む外観のデザインの垂直性はドイツの方が顕著かもしれない。日本におけるゴシック研究の第一人者前川道郎はフランスゴシックは内部の空間においてのみ垂直性を求める建築なのではなないかと指摘する。磯崎新は、他国に比較してフランスゴシックは時代を経てもバランス感覚を失わないと言う。ラテンの香云々は私にはわからないが、フランスではゴシックというカテゴリーの中でさえ『行き過ぎ感』はあまりないような気がする。パリ大聖堂のファサードは初期ゆえの量感はあるものの、あるべくしてあの姿なのだろうとやはり思う。

とはいえ、この大聖堂もご多分に漏れず何度かの修復を経て今に至っている。この修復について、ヴィクトル・ユゴーは『ノートルダム・ド・パリ』でこのように語っている。

『この建築(パリ大聖堂)の表皮にシワだの、イボだのを作ったのは時間の仕業だし、この芸術に暴行だの、蛮行だのを加えて、打撲傷だのを蒙らせたのは、ルターからミラボーに至るまでの諸々の革命のやった仕事なのである。また<修復>というとんでもない名のもとにこの芸術の骨組みをばらばらにしたり、脱臼させてしまったりしたのは、ウィトルウィウスやヴィニョーラを師とした先生方の所業なのである。ギリシャ・ローマ式などと呼んでいるが、その実、これは野蛮至極な改廃に他ならない。』

ウィトルウィウスはローマの建築家で『ウィトルウィウス建築書』により後のルネサンスの建築家に大きな影響を与えた理論家だ。ヴィニョーラは後期ルネサンス期に活躍した建築家でミケランジェロ亡き後、彼の作風が流行を博した。彼の著書『5つのオーダーの規則』は後の建築家の教科書となっている。つまり、この大聖堂に被害を与えた要因は種々あるが、最も質の悪い被害を与えたのは古典主義の名の下に行われた改悪工事だと言うのである。因みにこの大聖堂を脱臼させたとして非難されているのは、パンテオンを建てたことで有名なスフロである。スフロは王の行列を通りやすくするために、扉の中央柱を撤去し、タンパンを尖塔アーチ状に繰り抜いてしまった。今では考えられないような改修ではあるが、当時修復作業は『自ら描いていた夢を実現することだ』くらいに考えられていた時代ではあったのだ。そして、古典様式がその時代の流行でもあったということだろう。オーダーも持たないような野蛮な建築を改修することに、何のためらいも感じず、世論の非難も起こらないような・・・。

パリ大聖堂は後に、ゴシック建築を構造合理主義的に解釈したことで有名なヴィオレ・ル・デュクの修復を受けることとなる。この修復はラシュスとの協同案で応募し当選したものだが、ラシュスの死後ヴィオレ・ル・デュクの行き過ぎた修復が問題となる。この頃になると修復も考古学的歴史学的意義が考えられるように時代も変化していたからだ。彼は、応募当時は『芸術家は、その趣味、好みを完全に忘れ去り・・・』と厳しい自己規制を約束していたのだが、実際には、18世紀に取り壊された交差部の尖塔を復元したり、その周囲に彼自身やスタッフをモデルとした彫像を付加したりして、考古学的立場を取る学者や知識人から大きな非難を浴びた。自分をモデルにした彫像等は確かに行き過ぎの非難を浴びても仕方がないが、尖塔の復元自体はどうだろうか。この尖塔は落雷で度々炎上し、結局修復の手立てなく18世紀に取り壊されたという経緯がある。復元案は、ガルヌレーのデッサンをもとにヴィオレ・ル・デュクがデザインをしたようだが、当初のものより10m以上高く、装飾も華美になっていたようである。修復の難しいところは、一つにはいつの時代の姿に戻すのかということでもある。果たして18世紀の姿に戻せばよかったのか、それより以前の姿に戻すのが良かったのか・・・。そしてもう一つの問題、デザインの変更はアリなのかナシなのか、正確に戻す以外の修復は許されないのか。ヴィオレ・ル・デュクは修復について新しい理論を持ち込んだ人でもある。曰く『修復する場合は、その建築が当初さまざまな理由により実現できなかった本来の姿を取り戻すべきである』そして、彼の修復は後世にこれまでの何よりも最大の罪悪と非難の対象となっていった。彼の修復には、修復の枠を超えて好き放題やってしまったものもあるようなので罪悪云々についてはどうとも言えないのだが、パリの空に高く聳える塔を見て、『パリだー!ゴシックだー!』と思ったのも本当で、美しいのだからいいのではないかと思ってしまったりもするのだった。

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問題の交差部の尖塔とフライングバットレス

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レイヨナン式の見事な薔薇窓。北翼廊だったと思うが、もう随分前のことなのでわからない。

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ラン・ノートルダム大聖堂

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ランスからさらに北へ電車で30分、西フランク王国の首都であったランに到着する。ここはシャンパーニュ、ピカルディ、ノルマンディの3地方の中央にあたる。今回の旅行でとても楽しみにしていたのがこのランの大聖堂である。SNCFの駅を出ると小高い丘の上にある大聖堂が見える。駅前の通りの直線上に、まっすぐに大聖堂の方角へ伸びる長い階段があり、私達は徒歩でそこから登ってみたがかなりヘヴィだった。登った後で気づいたが、小さな登山電車のようなものが町から出ているようで、普通はその電車かバスを利用するようだった。

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あいにく、大聖堂の西正面は補修中で全面的に覆いが掛かっており全く何も見えなかったので絵葉書の写真で代用。

ラン・ノートルダム大聖堂は1150年代着工、初期ゴシックに分類される。ファサードのデザインは薔薇窓を覆う大アーチも3つの扉口のアーチも今だ半円アーチを使用しており、いかにもロマネスクからの過渡期の建築と感じさせる。それでも頂塔を持たない二つの塔、大きな扉口、大薔薇窓や全体のプロポーションは既に十分フランスゴシックの大聖堂らしい。

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塔の上には奇怪な怪物ではなく、可愛らしい牛の彫刻。建造工事で牛が活躍したためと言われている。

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中へ入ると奥に大きな薔薇窓が見えて、微妙な違和感を覚える。あんなところに何故薔薇窓?一瞬考えてすぐに気づいた。なるほど、シュヴェ・プラなのか。シュヴェ・プラとは平らに閉じた後陣のことで、シトー派の聖堂やイギリスでは多く見られるがフランスの大聖堂には珍しい。フランスでは内陣後部に周歩廊を配した丸く閉じるアプスが一般的である。フランスの代表的な風景となっているパリの・ノートルダム大聖堂の後姿、放射状にスラリと伸びるフライング・バットレスは、丸く閉じる後陣ならではの風景なのである。

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ヴォールトを見上げる。今だダブルベイ・システムの6分ヴォールト。シングルベイ・システムの4分ヴォールトが主流になるのは、盛期ゴシック以降のことである。

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立面は大アーケード・トリビューン、トリフォリウム、クリアストーリーからなる四層式、これも初期ゴシックの特徴だ。トリビューンとトリフォリウムの違いは非常にわかりにくいが、トリビューンは側廊の上階で身廊にに対して開かれている部分をさす(ギャラリーとも言われる)。トリフォリウムはさらにその上、トリビューンを開いている2階の上の屋根裏のような部分にあるアーケードのことである。トリビューンと違い、アーケードの後ろにはすぐに壁が来るのでめくらアーチのように見える。もともとロマネスクの建築では側壁を支える為に側廊に2階(トリビューン)を設けるのが通常であったが、ゴシック期になりフライングバットレスという技術が発達したため、徐々にトリビューンは姿を消し、盛期ゴシック期には3層式壁面へと姿を変えていくのである。

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北翼廊の薔薇窓。まだまだ素朴なデザイン。

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身廊から壁面を眺める。しっかりとした大円柱が大アーケードを支え、その柱頭からヴォールトのリヴへと繋がる小円柱に分裂している。この小円柱(シャフト)はそれぞれ3本のものと5本のものが交互に配せられている。実は、この大聖堂に来たかった理由は、このシャフトが織り成す空間にあった。この小さなリングで文節されているシャフトは、まるで天高く伸びる竹のような上昇感を私に感じさせた。ランの大聖堂のヴォールトの高さは約24m、ロマネスクの聖堂でもこれより高いものはあるのだが、この軽やかなシャフトとリングの作り出すリズム感が石の持つ物質性を覆い隠しているように感じられるのだ。しかしながら、日本人である私にはそのように見えるのだが、ドイツ人の研究家ヤンツェンはこのリングの水平性を指摘している。やはり、育った環境というのは大きいらしい。この大聖堂の工匠が竹を見たことがあるとは考えにくいので、おそらくヤンツェンの意見が正しいのだろう。このシャフトを素晴らしいと感じるのは、日本人と中国人くらいなのかもしれない。

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シュヴェ・プラの薔薇窓とランセット窓。

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交差廊部の美しい光塔。

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後陣から大聖堂を臨む。中央の三角状の塔が光塔だ。

ランの大聖堂は古典的な7塔式で完成された珍しい建築である(後に二つの塔が取り壊され、現在は5塔しか立っていない)。7塔とは、西正面と北と南のそれぞれの双塔、そして主廊と袖廊の交差部にかかる大塔(光塔)で、この形式はフランスではあまり顧みられず、ランスでは当初7塔式で設計されたものの結局西正面の双塔のみに終わり、アミアンではもともと西正面の双塔のみの設計であった。フランスでは、ノルマンディ地方などのアングロ・ノルマンのゴシックに大塔への執着が見られるようだ。むしろこの伝統はイギリスのゴシックの特徴となって残って行く。ある意味、初期ゴシックの典型であるランの大聖堂は、フランスとイギリスのゴシックの特徴を併せ持った建築のようにも思える。イギリスは、ゴシック誕生の早い時期にフランスからその技術を伝えられた第一の国であることを考えると、それは自然なことのようにも思われる。

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ランス・ノートルダム大聖堂

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パリからTGVで45分とすっかり便利になったランス。この街の大聖堂は、少数の例外を除いて歴代の国王の戴冠式が行われた格式高い聖堂だ。15世紀ジャンヌ・ダルクがシャルル7世をせきたてて戴冠式を挙げさせたのもこの大聖堂である。英国王ヘンリー6世に先んじ、その正当性を知らしめるためにはランスで聖別されなければならなかったのだ。

折悪しくもファサードは修復中のため右扉口が足場で塞がれていたが、この大聖堂は『フランス大聖堂の女王』と言われ、その美しさが知られている。ゴシック教会堂の修復で名高いヴィオレ・ル・デュクも、ランスのノートルダムをもとに理想のゴシック大聖堂の絵を描いている。この大聖堂はなんと言ってもバランスが良いのだ。初代建築家ジャン・ドルベの全体計画が時代を超えて一貫して尊重されたためだろう。生成の建築であるゴシック大聖は、その時代時代のデザインを反映して造られるものだから、ファサードのデザインも均整が取れていないものが多い。パリのノートルダムは端正だが、傑作と評判のシャルトルもゴシック誕生の建築として有名なサン・ドニもシャルトルと並んでフランスゴシックを代表するブールジュも、双塔の様式の相違やデザインの混乱は当たり前、その中でランスの均整の取れたファサードは実に見事である。(この辺りの感覚は几帳面な日本人にはわかりにくく、何故統一したデザインで造らないのか逆に不思議ではある。)

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繊細なレイヨナン式のバラ窓と破風の彫刻。彫刻は『聖母の戴冠』

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ランスの大聖堂で特徴的なのは、タンパンのステンドグラス化だ。

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バラ窓の横からは、フライングバットレスが透かし見え、主廊の幅が想像される。内部の様子がファサードに直接的に表現されるている。

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主扉口の彫刻『受胎告知』、主扉口は聖母マリアに捧げられており、聖母に関するエピソードの場面の彫刻で埋められている。ランスの大聖堂は彫刻の素晴らしさでも知られており、最も有名なのは『微笑みの天使』と呼ばれているものだ。右扉口のため、今回は見えなかった。残念。

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ランス建設の時期ともなると、フライングバットレスも随分細く軽やかになる。

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平面は身廊3廊式、内陣5廊式

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立面は3層式。アミアンとは違い、トリフォリウムも暗いまま、最下層の大アーチを支えるピエリ・キャントネも中心の柱の太さが目立つし、柱頭もはっきりしている。

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後陣を臨む

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身廊の写真でもわかるように、ランスでも殆どのステンドグラスは失われている。徐々に修復をしているようだが、もとの輝きを取り戻すのは一体どの位先になるのだろうか。ちなみに、後陣の下段は、シャガールが制作したものだ。作品の出来栄えは良いのだが、私はシャガールの作風はゴシック大聖堂には似合わないような気がする。

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交差部と南のバラ窓

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西正面側には、二つのバラ窓が見える。下は、タンパン部分である、一つの壁面に二つのバラ窓は初めて見た。ファサードを見たときには何故かこういう光景を想像しなかった。

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アミアン・ノートルダム大聖堂

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パリ北駅から急行で1時間10分、ピカルディ地方の首都アミアンは意外に近い。ここにはシャルトル・ランスと並び、ヤンツェン以来「3大古典大聖堂」と呼ばれてるアミアン・ノートルダム大聖堂がたっている。『古典』という敬称は、本来『存在の建築(何も足さず何も引くことのできない完全なる完成美)』である古代ギリシャ神殿の尊称であり、『生成の建築(それぞれの時期のそれぞれの様式に従って、建て続けられる永遠なる未完成)』であるゴシックの